第76話 要る、と言われて
司祭たちは、日が落ちる前に帰っていった。
セイレを、置いて。
カナンは去り際に、リーシェの手を取って、こう言った。
「西の半身さま。あの子と、お話しくださいませ」
「よろしいのですか」
「ええ。同じお立場でございましょう」
同じ立場。
リーシェは、その言葉を、扉が閉まったあともずっと持っていた。
◇
城の東側に、部屋が用意されていた。
用意されていた、というのは正しくない。千年前から、そこにあった。
白い部屋だった。寝台と、椅子が一つ。窓には氷が張って、外は見えない。壁に飾りはなく、床には敷物もなかった。
セイレは、その部屋の椅子に座っていた。背筋をまっすぐにして、両手を膝の上に置いて。
リーシェが入っていくと、彼女は立ち上がって、礼をした。
「西の半身さま」
「リーシェで、かまいません」
「はい」
「……セイレさま。座ってください」
「はい」
セイレは座った。まったく同じ姿勢で。
リーシェは、寝台の縁に腰を下ろした。二人のあいだに、机はなかった。何も置くもののない部屋だった。
「寒くありませんか」
「はい」
「その、はい、は」
「……」
セイレが、初めて口ごもった。
どちらの意味かを聞かれることに、慣れていないのだとわかった。
「寒いです」
彼女は、そう言い直した。
「毛布を、お持ちします」
「いいえ。結構でございます」
「どうして」
「わたくしは、寒さに慣れております。慣れておくよう、言われましたので」
「どなたに」
「司祭さまに」
「いつから」
「六つの時からでございます」
◇
セイレは、聞かれたことには、正確に答えた。
六つの時に、司祭団に引き取られた。それ以前の記憶はない、と言った。ないのか、消したのか、リーシェには判断がつかなかった。
朝は、日の出前に起きる。海の水を汲み、体を清める。それから読み書きを二刻。循環の作法を二刻。礼の稽古を一刻。
昼のあとは、掌の稽古。水を受け、こぼさずに保つ。
夕方は、城の方角を向いて、一刻座る。
「何を、なさるのですか。その一刻は」
「お待ちいたします」
「何を」
「お召しを」
「十六年、毎日」
「はい」
リーシェは、膝の上で指を組んだ。
「セイレさま」
「はい」
「一度も、お召しは、ありませんでしたね」
「はい」
「悲しくは、ありませんでしたか」
セイレは、しばらく黙った。
考えている沈黙ではなかった。言葉を探している沈黙だった。
「わかりません」
「わからない」
「悲しい、というものを、教わっておりません」
「では、何を、教わりましたか」
「務めでございます」
「務め」
「はい。わたくしは、要る者でございます」
リーシェの喉の奥が、詰まった。
「……要る者」
「はい。司祭さまが、毎朝、仰います。『セイレ、お前は要る』と。十六年、毎朝でございます」
セイレは、そこで初めて、ほんのわずかに、表情を動かした。
誇りではなかった。安心でもなかった。
ただ、確認していた。自分がそう言われたことを、口に出して、もう一度確認していた。
「わたくしは、要る者でございます」
◇
リーシェは、しばらく何も言えなかった。
それから、自分の話をした。
うまく話せた自信はなかった。ただ、この娘に伝わるとしたら、これしかないと思った。
「セイレさま。私は、十七年、要らない娘でした」
セイレが、顔を上げた。
「私は、公爵家の娘でした。母は私を産んで亡くなりました。父は、私を見ませんでした。兄も、使用人も、誰も、私の名前を呼びませんでした」
「……」
「十年に一度、魔王城に、人を差し出す決まりがありました。父は、私を選びました。私が十七の時です」
「お選びに」
「はい。その時、父は、こう言いました」
リーシェは、息を吸った。
この台詞を口にするのは、久しぶりだった。
「『お前で、ちょうどよかった』」
応接間ではないが、氷の張った窓辺も、しんと静まった。
「私は、要らないと言われて、差し出されました。あなたは、要ると言われて、差し出されました」
「はい」
「同じでしょうか」
「わかりません」
「私にも、わかりません」
リーシェは、正直に言った。
「けれど、ひとつだけ、聞かせてください」
「はい」
「セイレさま。あなたは、行きたかったですか」
沈黙。
今度は、長かった。
「……お尋ねの意味が」
「あなたが、あなたの気持ちで、この城に来たかったかどうかです」
「わたくしの気持ちは、ございません」
「ありませんか」
「ございません。持たぬように、育てられました」
セイレは、そこで、初めて、リーシェの目をまっすぐ見た。
薄い青の瞳だった。海の浅いところの色。底が見える色だった。
「半身さま」
「はい」
「わたくしは、要る、と、言われて、育ちました」
その声は、平らだった。
「ですから、要らない、と言われたことが、ございません」
「はい」
「ですから――」
彼女は、そこで止まった。
止まって、それきり、続けなかった。
リーシェは待った。十を数えるあいだ待って、それから、そっと聞いた。
「ですから」
「……いえ」
「セイレさま」
「申し訳ございません。続きが、ございません」
教わっていない言葉の先には、行けない。
この娘は、そういうふうに、作られていた。
◇
その夜。
与えられた部屋で、リーシェは、灯りを消したあと、長いこと起きていた。
隣に、ゼルヴァーンがいた。
彼も、起きていた。この人は、リーシェが眠るまで眠らない。千年の癖だった。
「リーシェ」
「はい」
「泣くか」
「泣きません」
「泣いていいぞ」
「……ゼルヴァーンさま」
「ああ」
リーシェは、寝台の中で、身体を彼のほうへ向けた。
「私は、あの子を、かわいそうだと思いました」
「ああ」
「思ってしまいました」
「そうか」
「けれど、私は、十七年、かわいそうだと思われるのが、いちばん嫌でした」
ゼルヴァーンの手が、彼女の髪に触れた。
「あの子は、いま、かわいそうではないのかもしれません。要ると言われて、務めがあって、迷わずに生きています。私は、十七年、迷ってばかりでした」
「ああ」
「私が、あの子を助けたいと思うのは――」
リーシェは、そこで言葉を切った。
自分が言おうとしていることの形が、暗闇の中で、初めて見えた。
「――私が、助けてほしかったから、でしょうか」
ゼルヴァーンは、すぐには答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「わからん」
「はい」
「僕は、千年、誰も助けなかった。待っていただけだ。だから、助けたい者の気持ちが、わからん」
「はい」
「だが、リーシェ」
「はい」
「君が、わからないまま、あの子のところへ行くのは――やめておけ」
リーシェは、目を閉じた。
閉じても、掌を上に向けたままの、あの手が見えた。
窓の外で、氷が、細く鳴った。
◇
――花は、咲かせられるものでは、ありません。
咲きたいときに、咲きます。
第3部第1章「東の海へ」了。
お読みいただき、ありがとうございます。
第3部第1章「東の海へ」、ここまでです。
セイレの十六年でした。
六つで引き取られ、日の出前に起き、掌に水を受ける稽古をし、夕方には城の方角を向いて一刻座る。お召しを待つために。十六年、一度も、お召しはありませんでした。
「セイレ、お前は要る」——司祭は毎朝そう言いました。十六年、毎朝。
リーシェは「お前で、ちょうどよかった」と言われて差し出されました。
セイレは「お前は要る」と言われて差し出されました。
同じかどうかは、まだ、誰にもわかりません。
最後に、リーシェが自分で見つけてしまった問いがあります。
——私が助けたいのは、私が助けてほしかったからでしょうか。
ゼルヴァーンは「わからん」と答えました。この人は、わからないことを、わからないと言います。
次回、第77話「好きなもの」。
第2章「望まれた娘」、開幕です。
セイレに、好きなものを聞きます。
答えは、返ってまいりません。
——そして、アルトが、生まれて初めて、姉以外の誰かのために怒ります。
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蒼空ルーシェ




