第99話 北から
帰りの航路は、行きより北を通った。
風の具合で、そのほうが早いのだと、船長が言った。三日ほど、北寄りに進んで、それから西へ折れる。
四日目の夜、リーシェは、寒さで目を覚ました。
毛布を掛け直して、それでも眠れず、甲板に上がった。
息が、白かった。
夏だった。行きの海では、汗ばむほどだった。
彼女は、手すりに触れた。
濡れた木が、凍りかけていた。
◇
ゼルヴァーンが、すぐに上がってきた。
この人は、リーシェが寝台から出ると、必ず目を覚ます。千年の癖だと本人は言うが、たぶんそれは違うと、リーシェは思っている。
「リーシェ」
「はい」
「戻れ。寒い」
「ゼルヴァーンさま。手すりを」
彼が、触れた。
そして、動きを止めた。
「……凍っている」
「はい」
「どちらから、風が来ている」
二人は、同じ方角を向いた。
北だった。
◇
夜が明けると、海の色が違っていた。
行きの海は、灰色がかった青だった。この海は、白かった。
波が、細かい。うねりが小さく、規則が読めない。船長が、舵の当て方を何度も変えていた。
「揃っておりません」
朝食の卓で、ハインツが言った。
「東の海は、潮が揃いました。この海は、揃っておりません」
「西の海は」
リーシェが聞いた。
「揃っております。西は、半身さまが、いらっしゃいますので」
彼は、書き付けの板を置いた。
「ここは、どちらでも、ございません。西と東の、あいだの北でございます」
デミウルゴが、眼鏡を直した。
「千年お仕えしておりますが」
彼は、そこで、少し間を置いた。
「――このように冷たい夏の海は、初めてでございます」
◇
その日の昼、鳥が、船に降りた。
海鳥ではなかった。
海鳥は、船が近づけば寄ってくる。網の匂いを知っているからだった。この鳥は、寄ってきたのではなく、落ちてきた。帆の上をふらつきながら越えて、綱の上に、たまたま足がかかった、という降り方だった。
白い鳥だった。羽の形が違う。翼が長く、先が細い。海の上を渡る形ではなく、風に乗って遠くまで運ばれる形をしていた。
甲板の綱の上に止まって、動かなかった。
アルトが、いちばん先に見つけた。
「ね、ねえさま。鳥です」
「はい」
「うごきません」
リーシェが、近づいた。
鳥は、逃げなかった。
近くで見て、理由がわかった。
羽の先が、凍っていた。
白い羽の縁に、細かい氷が張りついている。翼を畳んだまま、身体を縮めて、震えていた。
リーシェは、両手を差し出した。
鳥は、その手に、落ちるように移った。軽かった。骨と、羽だけの重さだった。
「……冷たいです」
彼女は、手のひらで包んだ。
氷が、溶けた。
水になって、指の間から落ちた。
鳥が、身じろぎした。
リーシェは、そのまま、待った。
◇
――咲かなかった。
彼女は、まばたきをした。
もう一度、手に力を入れた。
咲かなかった。
この十七年、リーシェが触れて咲かなかったものは、なかった。
枯れた花束が咲いた。千年前の茎が咲いた。海が咲いた。
この鳥は、生きている。
生きていて、咲かない。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「咲きません」
「……何だと」
「咲かないのです」
彼女の声が、震えていた。
ゼルヴァーンが、鳥を見た。それから、リーシェの手を見た。
「君の力が、落ちたか」
「いいえ」
彼女は、船縁の苔に、指で触れた。
白い花が、すぐに咲いた。
「では」
「……この子には、届いていません」
リーシェは、手の中の鳥を見た。
「循環が、この子のところまで、来ておりません」
ハインツが、青い顔で立ち上がった。
「半身さま。その鳥は、どちらから」
「北です」
ゼルヴァーンが、答えた。
「風は、北から来ている」
◇
鳥は、夕方まで、リーシェの手の中にいた。
ナディアが布を持ってきて、膝の上に敷いた。アルトが、パンを細かくちぎって並べたが、鳥は口をつけなかった。デミウルゴが、羽の形を板に写した。西の書物に、この形の鳥は載っていないと、ハインツが言った。
温まって、羽が乾いて、少し動くようになった。
日が落ちる前に、飛んだ。
北へは、戻らなかった。
西へ、まっすぐ飛んでいった。
三人が、それを見送った。リーシェと、ゼルヴァーンと、アルト。
「ねえさま」
「はい」
「あの鳥、にげてきたんですか」
「……わかりません」
「北に、なにか、あるんでしょうか」
リーシェは、答えられなかった。
ゼルヴァーンが、代わりに言った。
「大陸は、四つある」
「はい」
「西が、僕だ。東が、オーディルだ」
「はい」
「残りが、二つ。北と、南」
「北の王さまは」
「知らん」
「千年、声を聞いていない。オーディルは、三千年生きて、四つの椅子が埋まったと言った。だから、いるはずだ」
「いるのに、こえが、しないんですか」
「していない」
アルトが、手すりに顎を乗せて、北の空を見た。
彼は、そのまま、言った。
「……たすけて、って、いってないんですね」
リーシェが、弟の横顔を見た。
「東の王さまは、いいました。半身をさがしてくれ、って」
「はい」
「北からは、なにも、きこえません」
「はい」
アルトは、そう言って、少し黙った。
「じゃあ、どうして、ぼくたち、気づいたんでしょう」
誰も、答えなかった。
風が、北から吹いていた。
夏の風なのに、冷たかった。
◇
その夜、二つの月が出た。
片方は、満ちていた。
もう片方は、欠けていた。
婚礼の夜の翌日から、ずっと欠けたままだった。東の潮が揃っても、戻らなかった。
リーシェは、それを長いこと見上げていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「東は、揃いました」
「揃った」
「けれど、月は、戻りません」
「戻らない」
「では、あの月は」
彼女は、言葉を選んだ。
「東の欠けでは、なかったのですね」
ゼルヴァーンは、答えなかった。
答えずに、北の空を見ていた。
欠けた月は、北の空に、低く出ていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
帰りの航路は、北を通りました。
夏なのに、手すりが凍っておりました。
海の色が、白うございました。潮が、揃っておりません。
「西と東の、あいだの北でございます」
そして、鳥が一羽、船に降りました。
羽の先が凍って、震えておりました。
リーシェが手で包むと、氷は溶けました。
——咲きませんでした。
この十七年、リーシェが触れて咲かなかったものは、ありませんでした。枯れた花束も、千年前の茎も、海も、咲きました。
この鳥は、生きております。生きていて、咲きません。
「循環が、この子のところまで、来ておりません」
鳥は、夕方に飛び立ちました。北へは戻らず、西へまっすぐ飛んでいきました。
アルトの問いが、この回の芯です。
「東の王さまは、いいました。半身をさがしてくれ、って。北からは、なにも、きこえません」
「じゃあ、どうして、ぼくたち、気づいたんでしょう」
——誰も、答えられませんでした。
最後に、欠けた月です。
第2部の終わりから、ずっと欠けたままでした。東の潮が揃っても、戻りませんでした。
あの欠けは、東のものでは、なかったのです。
次回、第100話「九百九十八年」。
第3部、最終話です。
魔王城へ、帰ります。
月の庭園が、留守番をしてくれておりました。
——咲かなかった鳥に、ぞくりとした方。どうか、一押しを。
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咲かなかった鳥に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




