第74話 オーディル
「――遅かったな」
声は、玉座から聞こえた。しかし唇は動いていない。氷の中で、男は目を開けたまま、微動もしていなかった。
ゼルヴァーンが、階段の下まで進んだ。
「オーディル」
「ゼルヴァーン」
「千年ぶりだ」
「千年と、四か月と、十一日ぶりだ」
ゼルヴァーンの足が、止まった。
「数えていたのか」
「いや」
声には、ためらいがなかった。
「数えてはいない。ただ、知っているだけだ。数えるのと、知っているのは、違う」
リーシェには、その違いがわからなかった。けれどゼルヴァーンは、それきり何も言わなかった。彼が言葉を返さない時は、たいてい、返す言葉を持っていない時だった。
アルトが、リーシェの外套の裾を握った。ナディアが、その肩に手を置いた。
「そちらの者たちは」
オーディルの声が続いた。
「家族だ」
「家族」
「ああ」
「魔王に、家族がいるのか」
「いる」
「そうか」
声が、少し途切れた。氷の中の目は、まっすぐ前を向いたままだった。誰のことも見ていない。見られないのだと、リーシェは気づいた。この人は目を開けているのではない。閉じられないのだ。
「西の半身は、どれだ」
リーシェは、一歩前に出た。
「私です」
「名は」
「リーシェ・フォン・グランハイドと、申します」
「グランハイド」
声が、その名を繰り返した。
「その家は、千年前もあった」
「はい」
「千年前の半身も、その家の娘だった」
「ローシェと、申しました。私の、遠い縁の者です」
「知っている。調印の場にいた」
オーディルは、そこで少し黙った。
「あの娘は、消えたと聞いた」
「はい」
「戻ったのか」
「いいえ」
リーシェは、はっきり答えた。
「戻りません。私が、引き継ぎました」
氷が、かすかに鳴った。城のどこかで、細い音がして、すぐに止んだ。
◇
「なぜ、声が届いた」
ゼルヴァーンが聞いた。
「僕の城の地下の扉に、お前の声が届いた。千年、何も聞こえなかった扉だ」
「調印の時に、道を作った」
「道」
「四つの大陸の魔王が、互いの城に一つずつ、声の通る扉を作った。停戦のためだ。戦になりかけた時、会わずに話せるように」
「聞いたことがない」
「お前は若い」
「僕は千年生きた」
「僕は、三千年だ」
応接間ではないが、氷の玉座の間も、しんと静まった。
「三千年」
ゼルヴァーンが、繰り返した。
「そうだ。だから、お前が生まれた時のことも、覚えている。西の海の向こうで、新しい魔王が立ったと聞いた。四つ目の椅子が埋まったと」
「僕には、記憶がない」
「当然だ。生まれた者に、生まれた記憶はない」
「お前の大陸は、何と呼ぶ」
「潮の大陸だ。人間が、そう呼ぶ。僕は、ただの大陸だと思っている」
オーディルの声には、抑揚が少なかった。しかし言葉数は多かった。話し始めると、途中で止まらない人の話し方だった。千年、誰とも話していない者の口が、ようやく動いているようにも聞こえた。
「千年前、僕はお前に言った。『お前の半身が消えた。次の千年、お前と僕の話は、別の話だ』と」
「言った」
「あれは、突き放したのではない。順番の話をした」
「順番」
「お前は、失った。僕は、まだ持っていた。持っている者と、失った者は、同じ話ができない。だから、別の話だと言った」
「持っていた」
ゼルヴァーンが、その一語を拾った。
「持っていた、と、いま言ったな」
氷が、また鳴った。
今度は、さっきより長く鳴った。
◇
「探してくれ」
オーディルが言った。
「僕の半身を、探してくれ」
「どこにいる」
「わからん」
「名は」
沈黙があった。
リーシェは、その沈黙の長さを、正確に覚えている。息を三度する分だった。
「……名も、わからん」
ハインツが、わずかに眉を動かした。書庫の男は、記録にない答えに反応する癖がある。
「陛下」
彼が、小さくゼルヴァーンに囁いた。
「三千年生きた魔王が、自分の半身の名を、忘れることは」
「ないだろうな」
「はい」
「聞くな。まだ」
ゼルヴァーンは、それだけ言って、階段の下から動かなかった。
「オーディル」
「何だ」
「お前の城は、なぜ凍っている」
「寒いからだ」
「そうではない」
「では、なぜだと思う」
「時間を止めている」
三度目に、氷が鳴った。
城全体が、細く、長く鳴った。壁の奥で、何かが軋む音がした。
「西の魔王は、賢いな」
「賢くない。僕の庭は千年枯れていた。枯らしたのは僕だ。だから、止めた庭を見れば、わかる」
「そうか」
「オーディル」
「何だ」
「お前は、半身を、失ったのではないな」
沈黙が、四度目に落ちた。
リーシェは、その沈黙のあいだに、玉座を見上げていた。氷の中の男の目を。開いたままの、灰色の目を。
そして、気づいてしまった。
その目の下に、白い筋があった。
頬を伝って、顎の手前で止まっている、細い、二本の筋。
千年前に凍った、涙の跡だった。
◇
「西の半身」
オーディルが、リーシェを呼んだ。
「はい」
「近くへ来い」
ゼルヴァーンが、腕で制した。リーシェは、その腕に自分の手を置いて、そっと下げさせた。
階段を、七段上った。
玉座の、すぐ前に立った。
近くで見ると、氷は完全に透明ではなかった。無数の細かい罅が入っている。千年のあいだに、内側から何度も押されて、そのたびに固め直された跡だった。
「お前は、花を咲かせるそうだな」
「はい」
「桟橋の像に、咲かせたと聞いた」
「……どうして、それを」
「この城は、僕の目だ。城の見たものは、僕が見る。町のことは、風が運ぶ」
「はい」
「あの花束は、千年前のものだ」
リーシェの指が、わずかに震えた。
「どなたが、供えられたのですか」
オーディルは、答えなかった。
代わりに、こう言った。
「西の半身。ひとつ、頼みがある」
「はい」
「探してくれ、と、僕は申した」
「はい」
「あれは、本当だ。嘘ではない」
「はい」
氷の中の目が、動かないまま、リーシェの立っている方を向いていた。
「だが」
声が、初めて、掠れた。
「見つけないでくれ、とも――思っている」
その時、玉座の間の扉が、外から叩かれた。
六人が振り向いた。
千年、誰もいなかったはずの城で、誰かが、扉を叩いていた。
三回。間を置いて、また三回。
礼儀正しい、慣れた叩き方だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
東の海の魔王、オーディルです。三千年を生きております。
ゼルヴァーンより二千年、長く生きた魔王です。「数えるのと、知っているのは、違う」——千年と四か月と十一日を、数えずに知っておりました。
「持っていた」と、彼は言いました。失った、とは言いませんでした。
氷の中の頬には、千年前に凍った涙の跡が、二本ありました。
「探してくれ」は嘘ではない。けれど、「見つけないでくれ」とも思っている。
第3部の入口は、このねじれです。
次回、第75話「捧げられた者」。
扉を叩いたのは、潮の司祭団でした。
彼らは、一人の娘を連れております。
十六年、城に捧げるために育てた娘です。
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凍った涙に、☆ひとつをお力添えください。
蒼空ルーシェ




