第73話 凍った城
城へ渡る舟は、町の誰も出したがらなかった。
金貨を積んでも、断られた。三人目の船頭がようやく首を縦に振ったが、条件があった。桟橋には着けない、岩場の手前で降ろす、迎えには来ない。
デミウルゴが、その条件を三度復唱してから、承諾した。
「陛下」
「何だ」
「帰りの足が、ございません」
「歩いて帰る」
「海でございます」
「では、泳ぐ」
「ただいま記録しております」
舟は、二時間ほど、灰色の水を進んだ。
近づくにつれて、風の温度が下がった。夏のはずだった。港では汗ばむほどだった。それが、城まで半里というあたりで、リーシェの吐く息が白くなった。
アルトが、身を縮めた。
「ね、ねえさま」
「はい」
「ぼく、ここ、寒いです」
「私もです」
ハインツが外套を脱いで、アルトの肩にかけた。書物の包みを胸に抱え直しながら、彼は言った。
「異常でございます」
「はい」
「季節が、ここだけ、ございません」
岩場に舟が触れた。船頭は、六人が降りるのを待たずに櫂を動かし始めていた。
◇
城は、下から見上げると、大きさがわからなかった。
白い塔が、いくつも重なって空へ伸びている。すべてが氷だった。石を氷が包んでいるのではない。氷そのものが、城の形をして立っていた。
門があった。
開いていた。
千年、閉じられなかったのか、閉じることを忘れられたのか、どちらとも見える開き方だった。
ゼルヴァーンが、先に立って入った。
中は、暗くはなかった。氷が光を通して、青白い明るさが、床にも壁にも均等に満ちていた。影がない。どこにも影ができない城だった。
そして、静かだった。
リーシェは、自分の足音がやけに響くのを聞きながら、広間を歩いた。
長い机があった。椅子が、両側に十二脚ずつ並んでいた。机の上には、皿が並んでいた。
皿の上に、食べ物が乗っていた。
「……ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「これは」
パンだった。焼き色のついたパンが、皿の上に、そのままの形で乗っている。かびてもいない。乾いてもいない。ただ、白く霜をかぶって、そこにあった。
その隣の皿には、切り分けられた肉。その隣には、果物。
二十四人分の食事が、手をつけられないまま、凍っていた。
ナディアが、口元に手を当てた。
「食事の、途中でございます」
「はい」
「みなさま、席を、お立ちになった途中で」
椅子のいくつかは、引かれたままだった。誰かが立ち上がって、そのまま戻らなかった形をしていた。
デミウルゴが、眼鏡を外して、拭いて、かけ直した。
彼がその動作をするのは、動揺している時だと、リーシェは知っている。
「千年お仕えしておりますが」
彼は言いかけて、そこで止まった。
「デミウルゴ」
「……失礼いたしました。続きが、ございません」
◇
城には、誰もいなかった。
六人は分かれずに、ひとかたまりで歩いた。ゼルヴァーンがそう指示した。
厨房があった。竈に薪が組まれ、火のついた形のまま凍っていた。炎が、氷の中に立っていた。橙色の、動かない炎だった。
洗濯場があった。桶に水が張られ、布が半分沈んだまま止まっていた。
書庫があった。ハインツが、そこで初めて足を止めた。
「陛下」
「ああ」
「これは、蔵書が」
「多いか」
「西の王宮書庫の、三倍はございます」
彼は棚に手を伸ばしかけて、途中で止めた。背表紙に霜がついている。触れれば、割れるかもしれなかった。
「読めるか」
「……読める、と思います。文字は、西の古語に近うございます。ただ」
「ただ」
「千年、誰も開いていない本を開くのは、少し、こわうございます」
ハインツが、自分の指を見た。両手の指先が、黒い。十年でも消えなかったインクの染みが、氷の光の中で、いつもより濃く見えた。
アルトが、その手を見て、言った。
「ハインツさん」
「はい、アルト様」
「ぼくが、隣にいます」
ハインツが、少しだけ笑った。
「では、開きます」
◇
中庭に出た。
そこで、ゼルヴァーンが立ち止まった。長く、動かなかった。
中庭には、庭があった。
正確には、庭だったものがあった。
植え込みの列。花壇の縁。細い水路。すべての形が残っていて、すべてが氷に閉じられていた。
花壇には、花が咲いていた。
凍った花だった。色があった。白と、青と、薄紅。散る途中の花弁が、空中に浮いたまま止まっているものもあった。風が吹いた瞬間に、時間が止まったのだとわかった。
リーシェは、ゼルヴァーンの横顔を見た。
千年、枯れた庭を持っていた人が、千年、凍った庭を見ていた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私の庭は、枯れていました」
「枯れていた」
「こちらの庭は、咲いています」
「咲いている」
「どちらが」
彼女はそこで、言葉を選び損ねた。どちらが辛いか、と聞こうとして、その問いが正しくないことに気づいた。
ゼルヴァーンが、代わりに答えた。
「枯れるのは、時間が進んだからだ」
「はい」
「凍るのは、時間を、止めたからだ」
「はい」
「僕の庭は、千年、枯れ続けた。——痛かった」
彼は、凍った花に手を伸ばした。触れなかった。指の先を、一寸ほど手前で止めた。
「この庭は、痛くない」
「はい」
「痛くないように、止めてある」
リーシェは、その言葉を、胸の中でもう一度繰り返した。
痛くないように、止めてある。
それは、この城の主が、千年かけてやったことの名前だった。
◇
中庭の奥に、扉があった。
両開きの、氷の扉。それだけが、閉じていた。
ゼルヴァーンが手を当てた。
扉は、開かなかった。
リーシェが、その隣に立って、同じ場所に手を当てた。
開いた。
氷が軋む音もなく、ただ、内側へ滑るように開いた。
中は、玉座の間だった。
高い天井。長い床。突き当たりに、階段が七段。その上に、氷でできた玉座があった。
玉座に、男が座っていた。
背が高く、痩せていた。膝の上に両手を置き、まっすぐ前を向いていた。長い髪が、肩から流れて、床に届く手前で凍りついている。髪の色は、白だった。ゼルヴァーンの銀灰色ではない。雪の、白。
目は、開いていた。
その全身が、透明な氷に包まれていた。
千年前の、東の海の魔王が、そこにいた。
誰も、動けなかった。
そして、氷の中の唇が、動かないまま――
「――遅かったな」
声が、広間に響いた。
お読みいただき、ありがとうございます。
氷の魔王城に着きました。
食事の途中で止まった二十四人分の皿。火のついた形のまま凍った炎。半分沈んだ洗濯物。
中庭には、咲いたまま凍った庭がありました。
ゼルヴァーンの庭は、千年、枯れ続けました。こちらの庭は、千年、咲いたままです。
「枯れるのは、時間が進んだからだ」「凍るのは、時間を、止めたからだ」
——痛くないように、止めてある。この城の主が千年かけてやったことの名前です。
玉座に、魔王がおりました。氷の中で、目を開けたまま。
次回、第74話「オーディル」。
東の海の魔王と、初めて言葉を交わします。
「探してくれ」と申したのは、この方です。
けれど、その続きが、あるようです。
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蒼空ルーシェ




