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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第72話 潮の匂い

 船が桟橋に触れた時、リーシェが最初に思ったのは、匂いのことだった。


 潮の匂い。魚と、塩と、濡れた木の匂い。それから、花の匂いがした。


 港に、花が咲いているはずはなかった。白い岩の崖に張りついた町で、土は少なく、風は強い。それでも確かに、乾いた花の匂いが、潮の中に混ざっていた。


「ハインツさん」


「はい、半身さま」


「この匂いは、何でしょうか」


 ハインツが鼻を鳴らして、少し考えた。


「——供え物の、匂いかと存じます」


「供え物」


「はい。乾かした花を、焚く風習があるようでございます。書物に、そう」


 船を降りた。石畳が濡れていた。


 桟橋の柱に、板が打ちつけてあった。東の文字で、二文字。ハインツが訳した。


「ネイラ、と読みます」


「町の名前ですか」


「はい。古い言葉で、迎える、という意味だそうでございます」


 そして、桟橋を上がりきったところで、リーシェは足を止めた。


 像が立っていた。


 人の背丈ほどの、白い石の像だった。若い女の形をしている。両手を前に差し出して、掌を上に向けていた。何かを受け取る姿にも、何かを差し出す姿にも見えた。


 その足元に、乾いた花束が積まれていた。新しいものも、古いものもあった。いちばん古いものは、色が完全に抜けて、灰のようになっていた。


「ゼルヴァーンさま」


「ああ」


「これは」


「半身の像だ」


 彼が短く答えた。


 リーシェは像の顔を見上げた。目は彫られていなかった。鼻も、口もない。顔の部分だけが、つるりとした白い面になっていた。


「お顔が、ありません」


「ないな」


「どうして」


「わからん」


 デミウルゴが、眼鏡を直しながら近づいてきた。


「千年お仕えしておりますが——顔のない像を拝む習慣は、初めて拝見いたします」


「数えるな」


「ただいま記録しております」


 いつもの三つが、潮風の中で交わされた。しかしその声は、いつもより少し低かった。



   ◇



 町に入って、リーシェはもう一度足を止めることになった。


 二つ目の像があった。


 それから、三つ目。


 角を曲がるたびに、像があった。井戸の脇に。パン屋の軒先に。細い階段の踊り場に。どれも同じ形をしていた。若い女が、掌を上に向けて、顔がない。


 どの足元にも、乾いた花が積まれていた。


「アルト」


「は、はい、ねえさま」


「いくつ数えましたか」


「じゅ、十四です」


「私も、十四です」


 通りを歩く人々は、像の前を通るたびに、軽く頭を下げていた。立ち止まる者はいない。祈るわけでもない。ただ、通りすがりに、当たり前のように頭を下げて、それから歩いていく。


 子供が三人、像の足元で遊んでいた。花束を積み直して、崩して、また積んでいた。母親らしい女が呼ぶと、子供たちは手を叩いて灰を払い、走っていった。


 ナディアが、小さく息を吐いた。


「リーシェさま」


「はい」


「この町の方々は、半身を、遠いものだと思っておられませんね」


「そう、思われますか」


「はい。——近すぎます」


 リーシェは、その言葉の意味を考えながら、もう一度像を見た。


 魔王城でも、リーシェは「半身さま」と呼ばれた。ナディアも、デミウルゴも、そう呼んだ。けれどそれは、千年ぶりに現れた一人を指す呼び名だった。世界に一人しかいないものを指す言葉だった。


 この町の像は、そうではない。


 パン屋の軒先にあり、井戸の脇にあり、子供が積み木にする。


 半身が、生活の中に、ある。



   ◇



 宿を取った。


 港を見下ろす石造りの宿で、女主人は魔族の一行を見ても顔色を変えなかった。それどころか、ゼルヴァーンの銀灰色の髪を見て、こう言った。


「城のお方で」


 一行が黙った。


 ゼルヴァーンが答えた。


「そう見えるか」


「見えますよ。城の色をしてらっしゃる」


「城の色」


「白と、灰。凍った色でさあ」


 女主人は宿帳を叩いて、それきり何も聞かなかった。


 部屋に上がってから、ハインツが言った。


「陛下」


「何だ」


「この町は、魔王城の存在を、隠しておりません」


「ああ」


「西では、人間が魔王城を口にするのを避けます。ここでは、宿の女将が世間話にいたします」


「距離が違うのだろう」


「距離、でございますか」


「西は、人間と魔族が、条約で離れた。ここは——離れていない」


 窓の外で、鐘が鳴った。


 夕方の鐘だった。町中の人が、その音に合わせて手を止め、いちばん近い像のほうを向いて、頭を下げた。


 通りから、音が消えた。


 応接間ではないが、宿の部屋も、しんと静まった。



   ◇



 夜。


 リーシェは、宿を出て、桟橋の像のところまで戻った。


 ゼルヴァーンがついてきた。何も言わずについてきて、少し離れたところで止まった。この人はいつも、そういう距離の取り方をする。


 像の足元に、リーシェはしゃがんだ。


 乾いた花束の山。新しいものは上に、古いものは下に。掘り返すつもりはなかったが、いちばん下から、風で一つ、押し出されているものがあった。


 拾い上げた。


 それは、もう花の形をしていなかった。茎らしきものが三本、細い紐で縛られている。紐の色も抜けていた。


 しかしリーシェの指が触れた瞬間、灰色の茎の先に、小さく、白いものが咲いた。


 一輪だけ。


 リーシェは息を止めた。


「ゼルヴァーンさま」


「ああ」


「この花束は、いつのものでしょうか」


 彼が近づいてきて、しゃがんだ。長いこと、それを見ていた。


「古い」


「はい」


「——千年、近い」


 リーシェは、掌の上の一輪を見た。


 枯れたものは咲かない。彼女の力は、生きているものを咲かせる。千年前に断たれた茎が咲いたということは、その茎が、まだ、生きていることになる。


「どなたが、供えたのでしょうか」


「わからん」


 答えは返らなかった。


 彼女は、その花束を元の場所に戻した。土の匂いのする灰の中に、そっと。



   ◇



 宿へ戻る途中、細い坂道で、老人とすれ違った。


 背の曲がった男で、桶を提げていた。像の足元に水をやる係らしかった。


 彼はリーシェを見て、足を止めた。


 それから、深く、頭を下げた。


 通りすがりの会釈ではなかった。腰から折る、深い礼だった。


「半身さま」


 リーシェの背が、こわばった。


 この町で、彼女は名乗っていない。


「……どうして、おわかりに」


 老人が、顔を上げた。皺の中の目が、静かにリーシェを見ていた。


「花が、咲きましたので」


「……はい」


「桟橋の像に、花が」


「はい」


 老人は、桶を持ち直した。


 そして、何でもないことのように言った。


「では、二人目でございますな」


 リーシェは、意味がわからなかった。


「二人目」


「はい」


「あの——それは」


「半身さまは、もう、いらっしゃいます」


 坂の下から、潮の匂いが上がってきた。


「城に、捧げる方が。十六年、育てております」

お読みいただき、ありがとうございます。


港町ネイラに上陸しました。


町のいたるところに、顔のない半身の像が立っています。井戸の脇にも、パン屋の軒先にも。子供が花束を積み木にして遊んでいます。

西では、半身は千年に一人の遠いものでした。この町では、半身は、生活の中にあります。


ナディアの言葉が、この章の入口です。「近すぎます」。


そして、桟橋の像の足元で、千年前の花束が、一輪だけ咲きました。誰が供えたものかは、まだわかりません。


次回、第73話「凍った城」。

海を渡って、氷の魔王城へ向かいます。


千年、溶けていない城です。

中には、生き物が、一つもおりません。


——顔のないお像に、ざわりとした方。どうか、一押しを。

ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。

顔のない像に、☆ひとつをお力添えください。


蒼空ルーシェ

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