第71話 出立の朝
お待たせいたしました。蒼空ルーシェです。
第3部「もう一人の千年」、開幕です。
東の海の魔王から、お声がありました。
六人の家族が、次の千年へ、出かけます。
夜が明ける前に、リーシェは月の庭園に出た。
旅の支度は昨夜のうちに終わっていた。眠れなかったわけではない。ただ、出かける前に、この庭に一度だけ、言っておきたいことがあった。
庭は咲いていた。白、青、薄紅、銀。中央にはもう黒い花はなく、代わりに白い花が三輪、寄り添うように立っている。盟約の夜に一輪。再会の夜に一輪。婚礼の日に一輪。
リーシェは膝をついて、その三輪に手を伸ばした。
「留守を、お願いします」
花は答えない。花はいつも答えない。それでも彼女は、十七年のあいだ誰にも言えなかったことを、この庭の花にだけは言えるようになっていた。
「十日で、東の海に着きます。それから、どれくらいかかるかは、わかりません」
風が動いた。三輪の白が、揃って一度だけ傾いだ。
「……ありがとうございます」
背後で、砂利を踏む音がした。
「リーシェ」
「ゼルヴァーンさま」
振り向くと、旅装のゼルヴァーンが立っていた。黒の外套。千年、城から出なかった魔王の、初めての旅支度だった。
「花に、何を言っていた」
「留守番を、お願いしていました」
「花が留守番をするのか」
「します」
彼は少しのあいだ黙って、それから庭を見渡した。
「千年、枯れていた庭だ」
「はい」
「僕がいなくても、咲いているだろうか」
「咲きます」
リーシェは立ち上がって、外套の裾についた朝露を払った。
「あなたが帰ってくる場所ですから、咲いています」
ゼルヴァーンの手が止まった。手袋をはめかけたまま、しばらく止まっていた。この人の手はいまでも、だいじなことを言われると止まる。
◇
大食堂に、六人分の朝食が並んでいた。
長いテーブルの端に六人。婚礼の前は八人だった。ノエルとリューシェが旅に出て、二人分の椅子が空いている。
四本腕の料理長が、湯気の立つ包みを持って厨房から出てきた。
「六個か」
ゼルヴァーンが言った。
「六個でございます」
デミウルゴが答えた。
「魔王城では十八個だった」
「十八個でございました。旅先で十八個は、荷になります」
「減った」
「減りました」
「僕の分は」
「一個でございます」
アルトが、ぼそりと言った。
「ぼ、ぼくも、一個です」
「十三歳は育ち盛りだ」
「千年は育ちません」
ナディアが口元を押さえて笑った。ハインツは笑わずに、書物の包みの紐を締め直していた。彼の両手の指は、いまも薄く黒い。十年で消えなかったインクは、二十年経っても消えないだろうと、本人が言っていた。
「ハインツさん」
リーシェが呼んだ。
「はい、半身さま」
「そんなに本を、お持ちになるのですか」
「東の言葉の辞書でございます。持たずに参りますと、向こうで一言も読めません」
「向こうの文字は、違うのですか」
「違います。——と、思います。読んだ者が、この千年、一人もおりませんので」
「あちらの大陸には、名前がありますか」
「潮の大陸、と申すそうでございます。西の古い書物に、そう出てまいります。ただ、あちらの方々がご自分でそうお呼びかどうかは、参ってみませんと」
誰も、次の言葉を継がなかった。
千年、誰も渡っていない海の向こうへ、これから行く。その意味が、蜂蜜菓子の湯気の向こうで、ようやく形になった。
◇
正門に、馬車が二台つけられていた。
見送りに、二人来ていた。
一人はフィン。グランハイド領の隠居先から、三日かけて上ってきていた。
「お嬢様」
「フィン」
「お荷物は、これで全部でございますか」
「全部です」
「少のうございます」
「帰ってきますから」
フィンが深く頷いた。千年のあいだグランハイド家に仕えた侍女頭は、頷き方だけで返事ができる人だった。
もう一人は、クリストフだった。即位の準備で王都を離れられないはずの男が、正装のまま馬を降りて立っていた。
「間に合いました」
「陛下」
「まだ陛下ではありません。あと十日ほど、王太子です」
彼はアルトの前に立って、少し背をかがめた。
「グランハイド公爵」
「は、はい」
「留守のあいだ、北の三州の書類は、私が預かります」
「よ、よろしく、お願いします」
「ただし、判は押しません。押すのは、あなたです。帰ってきたら、山になっています」
アルトが小さく呻いた。十三歳の公爵は、笑われることには慣れたが、書類には慣れていない。
クリストフは最後に、リーシェの前に来た。
「半身さま」
「クリストフさま」
「向こうの大陸には、私の母の生まれた家の記録は、ないでしょう」
「ないと、思います」
「それでも、もし」
彼はそこで言葉を切って、少しだけ笑った。
「いえ。——お気をつけて」
「はい」
◇
馬車で四日。
街道は東へ下るにつれて緩やかになり、三日目の夕暮れには、風の匂いが変わった。四日目の朝、地平の端が白く光っているのを、アルトが最初に見つけた。
港で船に乗り換えた。人間の船だった。魔族が六人、そのうち二人が魔王と半身であることを、船長は知らないままだった。デミウルゴが多めの金貨を渡して、それで話は終わった。
船で六日。
ナディアは、二日目までまったく甲板に出てこなかった。三日目に出てきて、手すりを掴んだまま長いこと海を見ていた。
「ナディア」
「……リーシェさま」
「大丈夫ですか」
「千年生きておりますが、海は、初めてでございます」
「私もです」
「左様でございますか」
「はい。私は十七年しか生きていないので、初めてのものが、まだ、たくさんあります」
ナディアが、紫の瞳を細めて笑った。
六日目の朝。
東の空の下に、陸が現れた。
白い岩の崖と、その上に張りつくように積み重なった、灰色の屋根。港。
そして、その向こう。ずっと奥の、霞の中に。
尖った塔が、いくつも立っていた。
塔は、すべて白かった。雪ではなかった。
氷だった。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「あれが」
「東の海の、魔王の城だ」
潮の風が、正面から吹きつけていた。
千年ぶりに、誰かがこの海を渡っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第3部「もう一人の千年」、開幕いたしました。
月の庭園の花に留守を頼んで、六人が東へ発ちました。
蜂蜜菓子は十八個から六個に減りましたが、家族の数は減っておりません。ノエルとリューシェは、別の方角を旅しております。
フィンは三日かけて見送りに来てくれました。クリストフは、あと十日で国王になります。アルトの机の上には、帰るころには書類が山になっている予定です。
海の向こうには、氷の塔が見えました。
次回、第72話「潮の匂い」。
港町ネイラに上陸します。
町のいたるところに、半身の像が立っています。
その足元には、供え物がしてあります。
——この大陸では、半身は、待たれるものではないようです。
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蒼空ルーシェ




