第56話 接吻
月光が、降りていた。
地下から、長い階段を、二人で、上った。
祭壇の、真上の、地上の小さな庭。月の墓陵の、隅の、小さな庭園だった。家族たちは、祭壇の間に、残った。クリストフが、案内してくれた、この庭。
ここは、千年前、ローシェと、ゼルヴァーンが、停戦の調印の前夜に——二人で、過ごした、庭だった。
ゼルヴァーンが、そう、教えてくれた。
「ここで、千年前——」
「ああ。ローシェと、二人で、夜空を、見た」
「ええ」
「彼女は、僕に、こう、言った。『明日、お別れ、かも、しれません』」
「ええ」
「僕は、それを、聞き流した。停戦の調印の、緊張で、深く、考えなかった」
「ええ」
「千年、それを、悔やんできた」
「ええ」
月光の下、二人は、千年前のローシェとゼルヴァーンが、立った、まさに、その場所に、立っていた。
◇
「リーシェ」
「はい」
「君に、今夜、聞いておきたい、ことがある」
「はい」
「君は——明日、ノエルが、なんと、答えても、覚悟は、できているか」
「はい」
「ノエルが、消えると言えば」
「お姉さまの魂を、解放できます」
「ノエルが、消えない、と言えば」
「お姉さまの魂は、千年、ノエルの中に、ある、まま」
「君は、どちらを、選ぶ」
「選びません」
「ああ」
「ノエルさんの、答えを、私は、待ちます。彼女が、決めることだから」
「リーシェ」
「はい」
「君は——本当に、強くなったな」
「あなたが、隣に、いてくれるからです」
「ああ」
◇
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私も、お聞きしたいことが、あります」
「ああ」
「明日、ノエルさんが、消える、と言ったら——お姉さまの魂が、解放されます」
「ああ」
「お姉さまの魂が、解放されたら——もしかしたら、お姉さまが、生まれ変わって、もう一度、世界に、戻ってくる、こともあるかも、しれません」
ゼルヴァーンの目が、揺れた。
「リーシェ」
「もし、お姉さまが、戻ってこられたら——」
「リーシェ」
「ええ」
「君は、僕に、お姉さまを、選んで、ほしいと、思って、いるのか」
「いいえ」
「では」
「ただ、お聞きしたいだけ、です。あなたが、千年待った、お姉さまが、戻ってこられたら——」
ゼルヴァーンが、リーシェの両肩に、手を、置いた。
「リーシェ」
「はい」
「千年前、僕は、ローシェを、半身として、千年、待った」
「ええ」
「君を、待ったのとは、違う、千年だった」
「えっ」
「ローシェが、戻ってきても——僕は、君を、選ぶ」
「ゼルヴァーンさま」
「君は、僕の、半身ではない」
「えっ」
「いや、半身ではある。しかし——それより、先に」
ゼルヴァーンが、目を、伏せた。少し、迷った。
それから、頭を、上げた。
「君は、僕の、唯一の、人だ」
リーシェの息が、止まった。
「リーシェ」
「はい」
「触れていいか」
「もう、ずっと、触れて、ください」
ゼルヴァーンの手が、リーシェの頬に、触れた。
今度は、止まらなかった。
千年の、躊躇いを、すべて、捨てて——リーシェの頬を、両手で、包んだ。
頬の温度が、彼の手のひらに、移った。
「リーシェ」
「はい」
ゼルヴァーンが、わずかに、身を、屈めた。
リーシェが、目を、閉じた。
千年の魔王の唇が——半身の唇に、触れた。
◇
長い、長い、瞬間、だった。
月光が、二人を、白く、照らしていた。
千年前、この場所で、同じことが、起きるはずだった——けれど、起きなかった、瞬間。
今、千年遅れて、起きていた。
唇が、離れた。
リーシェの目が、開いた。
ゼルヴァーンの目が、潤んでいた。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「千年——」
「ああ」
「お待たせ、しました」
「いや」
「いや、ですか」
「君を、待ったのは、僕じゃ、ない」
「えっ」
「僕は、君に、出会うために、千年、待ったんだ。だから——君が、僕を、待たせた、のではない」
「ええ」
「僕が、君を、迎えに、行くまで、千年、かかった、だけだ」
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「もう一度、触れて、いいですか」
ゼルヴァーンが、笑った。声を、出して。
「君が、聞かなくて、いい」
◇
長い、夜だった。
月光の下で、二人は、長く、立っていた。話したり、笑ったり、また、触れたり、して。
そして、夜が、白むまで、その庭に、いた。
夜明けが、近づいた頃。
ゼルヴァーンが、リーシェの手を、握った。
「リーシェ」
「はい」
「明朝、地下に、戻る」
「はい」
「ノエルの答えを、聞く」
「はい」
「どんな、答えでも——」
「ええ」
「君を、失わない」
「はい」
リーシェが、頷いた。深く。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私の方も——あなたを、失いません」
「ああ」
二人は、月光の下で、もう一度、唇を、合わせた。
今度は、もう、千年遅れの、唇では、なかった。
今、ここの、唇だった。
お読みいただきありがとうございます。
千年遅れの、唇が、ようやく、合いました。
「君は、僕の、唯一の、人だ」
「もう、ずっと、触れて、ください」
千年の魔王と、要らないと言われた半身が——
月光の下で、千年の躊躇いを、すべて、捨てました。
しかし、夜明けが、近づいています。
明朝、ノエルが、答えを、申し上げます。
次回、第57話「人質」。
ノエルが、最後の、選択肢を、リーシェに、お示し、いたします。
それは——お姉さまの魂を、人質に、取った、選択でした。
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