第54話 触れて、と言いました
ノエルが、お姉さまの絵に、頭を、下げ続けていた。
長く。
しかし——影の輪郭は、まだ、消えなかった。
黒は、薄まったけれど、まだ、完全に、白くは、ならなかった。
リーシェが、近づいた。
「ノエルさん」
「うん」
「お姉さまに、お謝りに、なられたのに——なぜ、消えないんですか」
「消えたく、ないからよ」
「消えたくない」
「ええ。私は、消えるために、ここに、いるのでは、ないの」
「では、何のために」
ノエルが、長く、答えなかった。
月光の下で、ローシェの絵を、見上げて。
「リーシェ」
「はい」
「私が、お姉さまを、消した、その夜の、本当のことを——お聞きに、なりたい?」
「はい」
「リューシェを、呼んで」
「リューシェさま、ですか」
「ええ。彼が、見ていた」
リーシェが、振り返った。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「リューシェさまを、お呼び、ください」
「ああ」
◇
ゼルヴァーンが、祭壇の間に、戻り、リューシェを、連れて、来た。
リューシェは、ローシェの絵を、見上げて、立ち止まった。
「お姉さま——」
絵の中の、姉が、笑っていた。
リューシェの目から、涙が、ぼろぼろ、落ちた。
「お姉さま」
「リューシェ」
ノエルが、声を、かけた。
「あなたは、千年前——お姉さまの、最期を、見ていた」
「ええ」
「お話、なさいませ」
「私が、ですか」
「ええ。あなたが、見たことを、千年、誰にも、お話、できなかった、ことを」
リューシェが、長く、考えた。
「お話します」
◇
「千年前の、停戦調印の夜」
リューシェが、語り始めた。
「私は、城の奥で、匿われていました。お姉さまが、私を、戦から、守るために」
「ああ」
「しかし、私は——お姉さまの最期を、見たくて、こっそり、抜け出しました」
「ええ」
「祭壇の間に、降りました。今、私たちが、いる、ここ、です。月光が、降りる、この部屋に」
「ええ」
「祭壇の間で、お姉さまが、力を、世界に、放たれて、おられました」
「ええ」
「ゼルヴァーン陛下も、隣に、おられました」
「ええ」
「そして——お姉さまの、足元から、黒い影が、立ち上がりました」
ノエルが、目を、伏せた。
「私です」
「ええ。あなたでした、ノエル」
ノエルが、もう一段、目を、伏せた。
◇
「お姉さまは、影に、気づきました。しかし、力を、止めませんでした」
「ええ」
「影が、お姉さまの後ろに、立って——両手を、お姉さまの肩に、置こうと、しました」
「ええ」
「その時、お姉さまは——」
リューシェの声が、震えた。
「振り返りました」
「振り返り」
「ええ。影に、向かって、振り返って——こう、おっしゃいました」
リューシェが、目を、閉じた。
「『触れて、と申し上げます』」
応接間ではないが、空気が、凍った。
ノエルが、息を、止めた。
「私は——」
彼女が、声を、絞り出した。
「私は、それを、聞いた」
「ええ」
「『触れて、と申し上げます』、と」
「ええ」
「お姉さまが——私を、迎え入れた」
「ええ」
◇
「お姉さまは」
リューシェが、続けた。
「ねたまれて、収穫される、その瞬間に——あなたを、許して、おられました」
「許して」
「ええ」
「私を——」
「あなたを、ねたませた、お姉さま、ご自身の、責任も、お感じに、なって、おられました」
「お姉さまが、私を、ねたませた」
「ええ。お姉さまは、いつも、選ばれた、半身として、自分の存在を、過剰に、意識して、おられました。選ばれなかった、半身候補が、ご親戚に、いることも、ご存知でした。そのご親戚——あなたに対して、お姉さまは、いつも、申し訳ない、というお気持ちを、お持ち、でした」
「ええ」
「だから、最期の瞬間に、こう、おっしゃった。『触れて、と申し上げます』、と」
「お姉さまは——」
「あなたを、ねたみから、解放、しようと、なさった」
「お姉さまが」
「ええ」
「私を——」
「許そうと、なさったのです」
ノエルの両手が、震えた。
「お姉さまが、私を、許してくださった」
「ええ」
「千年前——」
「ええ」
「では、私は——私が、千年、ねたんできた、お姉さまから、千年前に、すでに、許されていた」
「ええ」
ノエルが、両手で、顔を、覆った。
声を、出して、泣いた。
千年で、初めて、泣いた。
影の輪郭から、黒が、ぼろぼろと、剥がれて、月光の中に、散った。
「私は——」
「ノエル」
「許されて、いた」
「ええ」
「気づかずに、千年——」
「ええ」
ノエルが、ローシェの絵を、見上げた。
「お姉さま——」
「ええ」
「ありがとう、ございました」
絵の中の、ローシェが——わずかに、頷いた、ように、見えた。
月光が、ノエルを、白く、染めて、いった。
◇
ノエルが、ようやく、立ち上がった。
影の輪郭は、もう、半分、白く、なっていた。
しかし、完全には——白く、ならなかった。
「リーシェ」
「はい」
「私は、ようやく、お姉さまに、許された、ことを、知りました」
「ええ」
「しかし——」
「しかし」
「私には、まだ、収穫してきた、半身たちの、魂が、私の中に、いるのです」
リーシェの息が、止まった。
「ええ」
「ローシェお姉さまの、魂も、私の中に、います」
「えっ」
「収穫した、半身は、消えるわけでは、ありません。私の中に、千年、閉じ込めて、ある」
応接間ではないが、空気が、凍った。
「では」
「お姉さまの魂を、解放するためには——私が、消える、必要が、あります」
「ノエルさん」
「リーシェ」
「ええ」
「私を、消すか、お姉さまの魂を、千年、私の中に、置いておくか、お選びください」
お読みいただきありがとうございます。
千年前——お姉さまは、最期に、こう、おっしゃっていました。
「触れて、と申し上げます」
お姉さまは、ねたまれて、収穫される、その瞬間に、ノエルを、許して、おられました。
ノエルは、千年前から、すでに、許されて、いたのです。
しかし——ノエルの中に、お姉さまの魂が、千年、閉じ込められている、ことが、明かされました。
「私を、消すか、お姉さまの魂を、千年、私の中に、置いておくか、お選びください」
リーシェが、選ぶ、ことになります。
影を、消すか、お姉さまを、千年、ノエルの中に、残すか。
しかし、リーシェは——「選ばない」と、決めた、お嬢様、でした。
次回、第55話「千年前の僕」。
ゼルヴァーンが、千年前の、自分自身と、向き合います。
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