第47話 ちょうどよかった
涙が収まってから、リーシェは、ゆっくりと、口を開いた。
「お父様。私は、お父様を、許す、と申し上げるつもりは、ありません」
父が、頷いた。
「ああ。許してくれ、とも、申さぬ」
「ただ、一つ、お返事を申し上げに、参りました」
「お返事」
「はい。十七年前、私を馬車に乗せた朝――お父様は、私に、こうおっしゃいました。『お前で、ちょうどよかった』」
「ああ」
父が、目を伏せた。それから、震える声で、言った。
「リーシェ。許してくれとは、言わない。ただ――お前を、リーシェ、と呼ばせてくれ。それだけが、私の、たった一つの、願いだ」
リーシェは、姿勢を正した。
左手で、心臓の上のロケットを、握った。
しかし、その手は、震えていなかった。
「お父様。私は、もう、振り回されません」
「ああ」
「お父様の願いに、応えることも、できません。今日この日のために、十七年を、巻き戻すことも」
「ああ」
「でも――その名前で、呼んでくださったことだけは、覚えておきます」
父の目が、見開かれた。
「リーシェ――」
「そして、もう一つ。お返事を」
リーシェが、息を、吸った。
「私は――ちょうど、よかった、です」
父の顔が、止まった。
「リーシェ……」
「私は、半身として生まれて、ちょうどよかったです。お母さまの想いを引き継いで、ちょうどよかったです。あの朝、馬車に乗せられて――ちょうど、よかったです」
「リーシェ」
「もし、私が、ちょうどよくなかったら――ゼルヴァーンさまに、お会いできませんでした。デミウルゴさんにも、ナディアさんにも、リューシェさまにも、フィンさんにも、ハインツさんにも。お姉さまにも」
リーシェの目から、涙が、また落ちた。
「アルトと、家族として、お会いできませんでした」
「リーシェ」
「だから、お父様。『お前で、ちょうどよかった』のは――お父様のつもりとは、違う意味で、本当のことに、なりました」
父の顔が、歪んだ。
声を上げて、泣いた。
六十を過ぎたグランハイド公爵が、応接間の床に座り込んで、子供のように、声を上げて泣いた。
千年前、お姉さまの夫が――ゼルヴァーンが、千年に一度、声を上げて泣いたのと、同じように。
◇
ゼルヴァーンが、リーシェの肩に、手を置いた。
「リーシェ。君は――」
「強くなりました。あなたが、隣にいてくれるからです」
「ああ」
アルトが、リーシェの反対側に立った。
「ねえさま。ぼくも、お父様に、お話、あります。いいですか」
「うん」
アルトが、父の前に、歩いていった。十二歳の少年が、六十歳の父の前に、立った。
「お父様。ぼく、グランハイドを、継ぎます」
父の目が、見開かれた。
「アルト――」
「ねえさまの、生まれた家を、ぼくが、継ぎます」
「お前は、まだ、十二だ」
「だから、ぼくは、急がなきゃ、いけません。ねえさまみたいな子が、もう生まれないように、ぼくが、グランハイドを、変えなきゃ」
父の目から、涙が、また落ちた。
「アルト。お前は――お前の母に、似ている」
「ぼくの、お母さまですか」
「ああ。お前の母も、優しい子だった」
「うん」
「家督は、私がもう少し、預かる。お前が、二十歳になるまで」
「八年、ですか」
「八年」
「ぼく、八年で、勉強します。お父様――ぼく、お父様を許すか、許さないかは、まだ、わかりません。でも――お父様は、ぼくの、お父様です」
父が、長く、アルトを見た。そして、頷いた。
「ありがとう、アルト」
◇
「お父様」
リーシェが、口を開いた。
「もう一つ、お聞きしたいことが。お兄様――ヴァルター様と、次兄様は、今、どちらに」
父が、目を伏せた。
「あの子たちは、式典の夜以降、社交界から距離を置いておる。ヴァルターは、長男として家督を継ぐ気は、もうない、と申しておる。『リーシェの方が、グランハイドにふさわしい。私には、無理だ』と、自分で申してきた」
「お兄様が」
「ああ。あの子は、お前を見て、自分の限界を、知った」
リーシェが、長く、考えた。
「お父様。お兄様と、次兄様にも、お会いしたいです。アルトが家督を継ぐことを、お話ししなければ」
「ああ。今、邸におる。呼ぼう」
◇
ヴァルターと、次兄が、応接間に入ってきた。
二人とも、明らかに痩せていた。何かを抱えて生きてきたことが、わかった。
ヴァルターが、リーシェの前で、立ち止まった。
「リーシェ。久しいな」
「お兄様」
ヴァルターが――膝をついた。応接間の床に。次兄も、同じく。
「お兄様、立ってください」
「いや」
「お立ち、ください」
「リーシェ。お前に、詫び申し上げる。私と次兄が、お前を嗤い、いない人として扱った、十七年を――詫び申し上げる」
「お兄様、私は――」
「許してくれ、とは、申さぬ」
長兄の声が、震えた。
「ただ、もう一つ、お願いがある。アルトが、家督を継ぐ、と聞いた。アルトを――私が、補佐させてくれ」
「お兄様が」
「ああ。私の能力でできる、罪滅ぼしは、それだけだ」
次兄も、頷いた。
「私も、お願い申し上げる」
リーシェは、ゼルヴァーンを見た。アルトを、見た。
アルトが、頷いた。
「ねえさま。お兄様たちが、ぼくを助けてくださるなら、ぼく、嬉しいです。お兄様たちも、家族、だと思います」
リーシェが、ヴァルターを見た。
「お兄様。アルトを、よろしくお願い申し上げます。私を許してください、とは、私も申しません。けれど――アルトの補佐をなさるなら、お兄様たちも、家族、と思います」
ヴァルターの目から、涙が落ちた。次兄も。
二人のグランハイドの息子たちが、十二歳の弟の前で、深く、頭を下げた。
◇
午後。議論が終わり、リーシェが邸を出ようとした時――玄関に、料理番のマリーが、立っていた。
白髪が増えていた。式典の夜よりも、また年老いていた。
しかし、目は、若い頃のまま、輝いていた。
「お嬢様。ご立派に、なられて。本当に、ご立派に、なられて」
「マリーさんの、蜂蜜入りのミルクで、生きてきました」
マリーが、声を上げて、泣いた。
「お嬢様。お元気でいらして、本当に、よかった」
「マリーさん。魔王城に、来てくださいませんか」
「えっ」
「短期で、結構です。料理長に、お嬢様のレシピを、教えてあげてください」
「私が――魔王城に。お嬢様、本当に、いいんですか」
「ええ。家族の、料理ですから」
マリーが、深く、頷いた。
「参ります」
お読みいただきありがとうございます。
「お前で、ちょうどよかった」。リーシェが、十七年越しのお返事を申し上げました。「私は、ちょうど、よかった、です」。そして、父の名呼びには――「もう振り回されません。でも、その名前で呼んでくださったことだけは、覚えておきます」。
ヴァルター長兄と次兄が、アルトの補佐を申し出ました。マリーさんが、魔王城に来てくださることになりました。
グランハイド家の清算は――リーシェのためにではなく、家族の未来のために、進んでいます。
次回、第48話「アルト・グランハイド」。十二歳の少年が、家督継承者として、正式に認められます。




