閑話 星の渡る夜
本編第43話と第44話のあいだ、ある一夜の閑話です。視点はゼルヴァーン。物語の本筋は進みません。千年を待った側の、静かな夜のお話です。
僕は、夜を、数える男だった。
三十六万五千と、少し。千年のあいだ、僕が数えた夜の数だ。一つ数えるたびに、まだ、と思った。もう一つ数えて、まだ、と思った。それが、僕の千年だった。
だから今夜も、数えかけた。窓の外に、二つの月が昇っていた。右の月は満ち、左の月は、欠けを埋めながら。
……そこで、手が止まった。
数えなくて、いい。
僕は、そのことに、まだ慣れない。
◇
「陛下」
デミウルゴが、音もなく、後ろに立っていた。
「お眠りに、ならないので」
「眠る必要が、あるか」
「千年、なかったことに、しておきましょう」
僕は、答えなかった。デミウルゴが、二つの月を、見上げた。
「人の地には、こういう言い伝えが、あるそうでございます。離れた二つの星が、年に一度だけ、空を渡って、会う夜がある、と」
「星が、渡るのか」
「言い伝えでございます。実際には、星は、渡りません。ですが人は、その夜に、願うのだそうです。会えますように、と。離れた者に、届きますように、と」
「くだらない」
「ええ。千年、暦も無視して、たった一人を、待ち続けた御方が、おっしゃると、格別でございます」
「デミウルゴ」
「記録しております」
「消せ」
「お祝いの、記録でございます」
◇
扉が、開いた。
リーシェだった。肩に、薄物を羽織って、廊下の灯りを背にして、立っていた。
「眠れないのか」
「ゼルヴァーンさまこそ」
「僕は、千年、眠っていないようなものだ」
「では、お揃いですね」
彼女が、隣に来た。夜気で、指先が、冷えていた。
僕は、そばの椅子に掛けてあった肩掛けを、彼女の肩に回した。カルラが仕立てた、星織りの布の肩掛けだった。月光石の粉を、魔界の蚕が、織り込んだ布。暗がりで、細かな光を、こぼす。
「あたたかい、です」
「星を、織った布だ。冷えるものか」
リーシェが、布の光を、指でなぞった。
◇
「ゼルヴァーンさま。デミウルゴさんと、何を、お話しに」
「星の話だ。人の地では、今夜、離れた星が、会うらしい。年に、一度」
「年に、一度」
「会えるのが、年に一度でも――待つ価値はある、と、僕は思っていた。千年、そう思って、数えた」
リーシェが、僕を、見上げた。
「今は」
「今は、毎晩、会える」
「はい」
「だから僕は、数え方を、変えることにした」
彼女が、続きを、待った。僕は、二つの月を見たまま、言った。
「これまでは、まだ、と数えた。まだ会えない、まだ来ない、と。今夜からは――今日も、と数える。今日も、会えた。今日も、隣にいる」
「……」
「数えても、数えても、減らない夜だ。初めてだ」
リーシェの目が、潤んだ。それから、笑った。涙を、こぼす前に。
「では、私も、数えます」
「何を」
「ゼルヴァーンさまが、あと何回、寸前で、止まるか」
僕の、手が、止まった。彼女の、額の、すぐ手前で。いつのまにか、伸ばしていた。
「……数えるな」
「デミウルゴさんの、真似です」
「あれの真似は、するな」
「ふふ」
僕は、手を、下ろした。額には、届かなかった。千年の癖は、まだ、抜けない。
けれど、リーシェが、その手を、両手で、包んだ。冷えた指が、僕の手のひらで、少しずつ、あたたまっていった。
「いつか、ですね」
「ああ」
「私は、逃げも、消えも、しませんから。ゆっくりで、いいです」
「……ああ」
◇
二人で、二つの月を、見た。
願え、と、人は言うらしい。僕は、願う習慣を、持たない。千年、願う相手も、いなかった。ただ、数えていた。
それでも――今夜だけは、と思った。
この夜が、続きますように。
柄にもない、と、自分でも思う。声には、出さなかった。
……ふと、考えた。あの、名の無い女王も、どこかで、この二つの月を、見ているだろうか。要らないと言われ、名を持たず、千年、たった一人で、夜を数えて。もし、見ているのなら。あれも、今夜、何かを、願うだろうか。
いや。
今夜は、考えるのを、やめた。答えを出すのは、僕の役目では、ない。それに――リーシェが、もう、あれに、手を伸ばしている。僕は、それを、信じることにした。
左の月の欠けが、また少し、小さくなっていた。
星は、渡らない。
けれど、待っていた者の隣に、待っていた人が、いる。
それで、僕の千年は、十分だった。
お読みいただきありがとうございます。七夕にちなんだ、一夜の閑話でした。
千年、夜を数えてきた魔王が、初めて「今日も」と数え始めます。星は渡らなくても、待っていた人が、もう隣にいる――そんな夜のお話です。
物語の本筋は動いていません。次回からは本編第44話に戻り、三日後に迫ったクリストフ殿下の公式訪問――「公爵家の決算」が始まります。
星は、渡らずとも。
待つ人の隣に、待った人がいれば。




