第42話 リューシェの目覚め
今夜の月の庭園には、花が、一輪も咲いていなかった。
夢の中。白も、青も、薄紅も、銀も、黒も。すべての花が、消えていた。ただ、乾いた、千年前の土だけが、あった。
リーシェは、ゆっくり歩いた。
中央に、二つの人影が立っていた。
一つは、もう一人の自分。無名の女王。
もう一つは――リーシェよりも、少しだけ年上に見える、女性。銀灰色の髪。優しい、薄い灰色の瞳。
ローシェ・グランハイドだった。
◇
「お姉さま」
リーシェが、声を絞り出した。
ローシェが、振り返った。目が、合った。
ローシェの目から、涙が一粒、土の上に落ちた。
「リーシェ」
「お姉さま」
「会えた、わ。ようやく、ね」
「はい」
二人が、抱き合おうとした。しかし、その間に、無名の女王が立っていた。
「お話、なさいませ」
無名の女王が、口を開いた。リーシェの声で。
「ただし、今宵だけは、私を、邪魔と思わないで。お二人の再会を見届ける、第三者でございます」
「邪魔は、しない、ということ?」
「今宵は」
リーシェが、ローシェを見た。ローシェが、頷いた。
「彼女は、今宵は、私たちの観察者よ」
◇
「お姉さま。お聞きしたいことが、たくさん、あります。千年前、あなたは、なぜ、ご自分の力を、世界に放たれたのですか」
ローシェが、ふ、と、笑った。穏やかな、笑み。
「私は、揺らがれて、いたのよ」
「ナディアさんの、嘘で」
「いいえ。私が、私自身を、信じられなかったの。ナディアの嘘は、きっかけに過ぎなかった」
「自分自身を」
「ええ。私は、半身として生まれた、というだけで、千年の循環を背負わされたことが、ずっと、辛かったの」
リーシェの目が、揺れた。
「お姉さまも、辛かった」
「ええ。あなたと、同じ。要らない、と言われたわけではないけれど、『私で、いいの?』という疑問が、ずっと、あったの」
「私と、同じ」
「ええ。だから、私は、自分の力を、世界に放った。それが半身としての最後の役目だ、と信じて。役目を果たせば、私の存在は報われる、と思って」
「お姉さま」
「それは、間違いだったわ」
ローシェの目が、リーシェを見つめた。
「半身の存在意義は、役目を果たすことでは、ない。ただ、ここに、いること」
リーシェの目から、涙が、ぼろぼろ落ちた。
◇
「あなたは、揺らいだとき、消えなかった。私は、揺らいだとき、消えた」
ローシェが、続けた。
「違いは、何だと思う?」
「家族が、いるか、いないか、です」
「そう、だと、思っていたわ」
「違うのですか」
「半分、合っているわ。家族がいることが、大きいの。でも、もう半分は――」
ローシェが、リーシェの手を取った。夢の中で。指先が、触れた。
「あなたが、要らない、と言われた経験を、持っていたこと」
リーシェの息が、止まった。
「私は、要らない、と言われたことが、なかった。グランハイド家の長女として、大切に育てられた。だから、揺らいだとき、地面が、なかった」
「地面」
「ええ。揺らいでも、ここにいていい、と信じられる、底がなかった」
「私には、ある、と」
「ええ。十七年、要らないと言われ続けて、それでも、ここにいる、と自分で決めてきたあなたの足元には、底があるの」
リーシェが、ローシェの手を、握り返した。
「お姉さま。ありがとうございます」
「何が?」
「あなたが、揺らいで、消えたから――私が、揺らいでも消えない答えを、持てました」
ローシェが、笑った。千年ぶりの、本当の笑顔だった。
◇
「お姉さま。ゼルヴァーン陛下のことも――」
「あの方は、お元気?」
「はい。あなたを千年、待たれていました。そして、私を、見つけてくださいました」
「よかった」
「お姉さまは、ゼルヴァーンさまを――」
「お慕い、していたわ。今でも、お慕いしているの。ただ、過去形で」
「過去形」
「ええ。あの方の千年は、私の千年とは、別の千年だった。私は千年、休んでいた。あの方は千年、待たれていた。同じ時間を、過ごしていない」
「では」
「あの方の、今のお相手は、あなたよ、リーシェ」
「お姉さま」
「あの方を、お任せします」
ローシェが、リーシェの両手を握った。
「あの方を、揺らがせないでください。私ができなかったことを、あなたが、してください」
「はい」
「私の代わりに、ではなく」
「はい」
「あなた自身の、千年として」
「はい」
リーシェが、深く頷いた。
◇
「もう、行かなければ」
ローシェが、立ち上がった。
「お姉さま、待って――」
「私は千年、ここにいた。今宵、ようやく、お別れを申し上げに来たの」
「お姉さま」
「リーシェ。あなたが消えないことを、千年、夢の中で待っていたわ。ありがとう」
「お姉さま――」
ローシェが、消えていった。ふっ、と、月光のような、白い光になって。
しかし、消える前に、彼女の白い光の一筋が、無名の女王の頬に、触れた。
無名の女王が、目を見開いた。
「……お姉さま?」
その声は、リーシェの声では、なかった。もっと若い、子供のような声だった。
「お姉さま――」
ローシェの最後の光が、月の庭園に降りそそいだ。無名の女王が、その光を見上げていた。涙を、流して。
◇
リーシェが、目を覚ました。
ベッドの脇で、ゼルヴァーンが座っていた。リーシェの手を両手で握って、ずっと見守っていた。
「リーシェ。会えたか」
「はい」
「ローシェに」
「はい」
「無事に、戻ってきたな。夢で、何を話した」
リーシェが、笑った。涙を流しながら。
「お姉さまが、あなたを、私に、お任せくださいました」
ゼルヴァーンの目が、揺れた。
「そうか」
「はい」
「ローシェに、よろしくと、伝えてくれたか」
「はい」
ゼルヴァーンが、リーシェの手を、強く握った。
窓の外で、二つの月が出ていた。欠けは、もう、ほとんど見えなかった。
お読みいただきありがとうございます。
リーシェが、夢の中で、千年前のローシェさまにお会いになりました。そして、お姉さまから、ゼルヴァーンさまをお任せされました。「あの方を、揺らがせないでください」。
ローシェさまの千年の眠りは、今夜、終わりました。しかし、お姉さまの最後の光は、無名の女王の頬に触れました。無名の女王が、その光を見て、こう呟きました。「お姉さま――」。
無名の女王と、ローシェさまの間には、何があったのか。あの子供のような声は、誰の声だったのか。
次回、第43話「王都からの使者」。朝、王都から公的な書状が届きます。クリストフが、公式に魔王城を訪問することになります。




