第40話 揺らがせる、ということ
昨夜の夢で、もう一人の自分は、何も言わなかった。
ただ、笑っていた。その笑みが、リーシェには、いちばん怖かった。
リューシェが目を覚ました翌朝。朝食の席に、六人が揃った。リューシェが、自分の席に座っていた。蜂蜜菓子は、十八個、用意されていた。
しかし、リーシェだけが、食べる手が進まなかった。
◇
「リーシェ」
ゼルヴァーンが、気づいた。
「食べないのか。揺れているか」
「揺れて、います」
彼女は、素直に答えた。
「夢に、また出てきました。今度は、何も言わずに、ただ笑っていました」
「揺らがせ方を、変えたか」
「はい」
リューシェが、口を開いた。
「お嬢様。影は、お嬢様の心の隙間に入り込みます。たとえば、『家族を揺らがせたくない』というお気持ちの、その真剣さの、隙間に」
「私は、家族を揺らがせたく、ありません」
「ええ。その真剣さが、隙間でございます」
リーシェが、息を止めた。
「私が揺らがないために、家族を巻き込みたくない、と思う。その思いのすぐ後ろに、影が立ちます」
「では、どうすれば」
「家族を、巻き込んでも構わない、と、思うことです」
ゼルヴァーンが、リーシェの手を取った。
「巻き込め。巻き込まれるために、僕たちは、ここにいる」
アルトが、頷いた。
「ぼくも、巻き込まれたいです。ねえさまが揺らぐなら、ぼくも、揺らぎたいです」
ナディアが、デミウルゴと、目を合わせた。
「私も」
「ええ」
「私たち、皆」
リーシェの目から、涙が一粒、蜂蜜菓子の上に落ちた。
「皆さん――」
「巻き込め」
ゼルヴァーンが、もう一度言った。
「揺らがせろ、僕たちを」
◇
午後。月の庭園。
リーシェは、十二輪の黒い花の前に立っていた。中央の白い花は、まだ咲いていた。盟約の夜の花の、隣で。
ゼルヴァーンが、後ろに立っていた。
「ゼルヴァーンさま。今夜、もう一度、夢を見ます。夢の中で、もう一人の私と話します。お一人で行かせて、もらえますか」
ゼルヴァーンの目が、揺れた。
「リーシェ」
「私の中の、もう一人の自分です。あれと向き合うのは、私の役目です」
「君を、失いたくない」
「失いません」
「夢から、戻ってこられなかったら」
「戻ってきます。家族が、ここで待ってくれているなら」
ゼルヴァーンが、長く彼女を見た。頷いた。
「待つ。夢の中で、僕を思い出せ。思い出せば、僕は、君の隣に立てる」
リーシェが、頷いた。左手で、ゼルヴァーンの手を握った。
握って――もう、心臓のロケットを、握らなかった。代わりに、ゼルヴァーンの手のひらを、握っていた。
◇
夜。リーシェの部屋。
アルトが、隣に布団を敷いていた。リューシェも、扉の外で椅子に座って見守っていた。ナディアが廊下に立ち、デミウルゴがその隣に。ハインツも、起きて待っていた。
ゼルヴァーンが、リーシェのベッドの脇に座った。
「眠れるか」
「眠ります」
「夢で、僕を、忘れるな」
「忘れません」
ゼルヴァーンが、リーシェの額に、唇を近づけた。
触れなかった。寸前で、止まった。千年の癖が、まだ抜けていなかった。
リーシェが、笑った。
「もう少しで、ですね。いつか、ですね」
「ああ」
「おやすみなさい、ゼルヴァーンさま」
「ああ」
彼女が、目を閉じた。
◇
夢の中。月の庭園。
もう一人のリーシェが、立っていた。今夜も、笑っていた。
リーシェが、近づいた。
「お話、しませんか。あなたと、お話したいです」
もう一人の自分が、わずかに目を見開いた。
「話す、と。何を」
「あなたが、本当は、誰なのか、を」
もう一人の自分が、笑みを消した。
「私は、無名の女王、と、呼ばれている」
「それは、名前じゃ、ないです。付けて、いいですか。あなたに、名前を、付けても」
もう一人の自分の、輪郭が、わずかに揺れた。
「名前を――」
「あなたは、要らない、と、言われたお方ですよね。私と、同じ。だから、名前がないんですよね。要らないと言われたから」
もう一人の自分の目から、涙が一粒、落ちた。
「私と、お話、しませんか」
「お前は、私を、消したいのだろう。家族を奪われる、前に」
「いいえ」
「では、何だ」
「あなたが、要らない、と言われた人なら――私と、同じ、家族に、なれませんか」
もう一人の自分が、立ち尽くした。長く。月の庭園の十二輪の黒い花が、揺れた。
「お前は――間違っている」
もう一人の自分が、声を絞り出した。
「どこが、ですか」
「私は、千年、半身を収穫してきた。そんな私と、家族になれるはずが、ない」
「私は、十七年、要らない、と言われてきました。そんな私が、半身になれるはずが、ありませんでした」
「お前は」
「『はずが、ない』を、超えてきました」
もう一人の自分が、目を伏せた。
「考えてみて、ください。私を消した、その後の千年を。私を収穫した、その後の千年を。あなたは、本当に、それを望んで、いますか」
「……」
「家族に、なる方が――よくは、ありませんか」
もう一人の自分が、答えなかった。長い、沈黙。風が、吹いた。
もう一人の自分が、ゆっくり消えた。
ただし、今夜は、笑いもしなかった。怒りもしなかった。ただ、考えている顔で、消えた。
◇
リーシェが、目を覚ました。
ベッドの脇で、ゼルヴァーンが座っていた。眠っていた。彼の手が、リーシェの手を握ったまま、椅子にもたれて、眠っていた。
千年の魔王が、眠っていた。リーシェの、ベッドの脇で。穏やかに。
リーシェは、その手を見つめた。離さなかった。
窓の外で、二つの月が傾いていた。左の月の欠けは、更に、わずかに小さくなっていた。
お読みいただきありがとうございます。
「巻き込まれるために、僕たちは、ここにいる」。家族が、リーシェに、揺らがれていい、と伝えました。
そしてリーシェは、その夜、影に、初めて提案をしました。「あなたが、要らない、と言われた人なら――私と、同じ、家族に、なれませんか」。
影は、答えませんでした。ただ、考えている顔で、消えました。千年、収穫してきた無名の女王が、初めて迷いました。
次回、第41話「アルトの本」。十二歳のアルトが、半身の本「再会」の章を、子供の素直さで読み解きます。大人たちが見落としていた、ある一節が、明かされます。




