第39話 もう一人の千年
日が暮れ、家族が一人ずつ集まっても、デミウルゴだけが来なかった。
リューシェの部屋。ベッドの脇に、ナディアとフィン。足元に、リーシェとゼルヴァーン。窓辺に、ハインツ。扉口に、アルト。
「デミウルゴは」
ゼルヴァーンが聞いた。
「お一人で、お話になりたいことが、おありでしょう」
フィンが答えた。
「私が、お声がけして参ります」
「いや」
ゼルヴァーンが、首を振った。
「僕が、行く」
◇
城の、長い廊下。
ゼルヴァーンが、デミウルゴの執務室の前に立った。扉は閉まっていた。
ノックを、しなかった。代わりに、扉に額を預けた。
「デミウルゴ」
返事は、なかった。
「お前は、なぜ、千年、僕に仕えた」
長い、沈黙。扉の向こうで、椅子が軋む音がした。
扉が、開いた。
デミウルゴが、立っていた。眼鏡を、外していた。
千年で、初めて、ゼルヴァーンが見る、デミウルゴの素顔だった。眼鏡を外したその目は、少しだけ、ナディアと似ていた。同じ千年を生きてきた者の、目。
「陛下」
「お前は、なぜ、僕に仕えた」
「ローシェさまの、ご命令でございました。眼鏡を、千年、つけ続けて、と」
「ああ」
「眼鏡をかけることは、陛下を、千年、お見守りすることでございました」
ゼルヴァーンが、目を伏せた。
「お前は、ローシェに――」
「お慕いしておりました」
デミウルゴの声が、静かだった。
「ナディアと、同じ場所で、千年、お慕いしておりました」
「知っていた」
「は」
「お前も、ナディアも、ローシェを慕っていた」
「お気づきでしたか」
「千年仕えれば、わかる」
ゼルヴァーンが、わずかに笑った。
「お前は、ローシェのご命令を、千年、果たした。眼鏡をかけて、僕の心を観察し続けた。揺らいだ時、止めた。それは、お前なりの、お慕いだったのだろう」
「左様でございます」
「ありがとう」
千年で、初めて、ゼルヴァーンが、デミウルゴに深く頭を下げた。
デミウルゴが、慌てた。眼鏡を、また、かけた。
「陛下、お顔を、上げてください」
「いや。お前の千年に頭を下げないのは、僕の方が、間違っている」
デミウルゴの目が、揺れた。
「陛下。私の千年は、報われました」
「ああ」
「眼鏡を、もう、外しても、よろしいでしょうか」
「外したくないだろう、お前は」
デミウルゴが、ふ、と、笑った。
「ええ。これは、お姉さまの贈り物でございます。千年、外したことが、ございません」
「ならば、つけたままで、いい」
「左様でございます」
二人は、それから、リューシェの部屋に向かった。
◇
部屋に戻ったデミウルゴを、ナディアが見た。
二人の目が、合った。
千年、同じ場所に立っていた二人が。千年、ローシェに想いを寄せていた二人が。初めて、互いを、その視点で見た。
「デミウルゴ。私たち、似た者同士、でしたね」
「ええ」
「千年、お側で、お慕いしていた」
「ええ」
「気づいて、いた、と」
「気づかれていた、ご様子です」
二人が、互いに、わずかに笑った。
千年の、報われない想いの、互いを、ようやく認め合った、笑みだった。
◇
ナディアが、ベッドの脇の椅子に戻り、リューシェの手を、両手で包んだ。
「リューシェさま。お姉さまから、千年、お言伝を、預かっておりました。私が、お話しいたします」
リューシェは、答えなかった。眠っていた。
「お姉さまは、最後にこうおっしゃいました。『リューシェに、無理をさせないでほしい。あの子は、私を追いかける癖がある。千年、追いかけ続けたら、自分の人生を、忘れてしまう』」
「リューシェさま、お聞きですか」
「『無名の女王を追うのは、結構。けれど、あなた自身の千年も、忘れないで』」
リューシェの指先が、わずかに動いた。
「『私の代わりに、千年、生きないで』」
リューシェの唇が、わずかに開いた。
「『あなたは、私の弟だけれど、あなたの人生は、あなたのもの』」
涙が、リューシェの目尻から、一粒、流れた。眠ったままで。
◇
「ゼルヴァーン陛下」
フィンが、声をかけた。
「陛下も、何か、おかけくださいませ」
ゼルヴァーンが、ベッドの脇に近づいた。
「リューシェ。お前の姉は、僕の半身だった。お前は、僕の義弟だ。義弟の人生を、僕は、欲しい」
リューシェは、答えない。
「お前自身の千年を、ここから始めろ」
リューシェの指先が、もう一度、動いた。
「アルト」
ゼルヴァーンが、振り返った。
「君も、声をかけてくれ」
「ぼ、ぼくが、ですかっ」
「ああ。家族なら、呼んでやれ」
アルトが、ベッドの脇に進んだ。リューシェの手に、自分の小さな手を添えた。
「リューシェ、おじさま」
リューシェは、応えない。
「ぼく、リューシェおじさまと、お話、したいです。お姉さまのお話を、もっと、聞きたいです。だから――目を、開けてください」
リューシェの目が、わずかに開いた。薄い、灰色の瞳が、現れた。しかし、焦点は、まだ合っていなかった。
「もう、一押し、です」
フィンが、囁いた。
「お嬢様」
リーシェが、ベッドの脇に進んだ。リューシェの、もう片方の手を取った。
「リューシェさま、私です」
「……お、嬢、様」
声が、わずかに出た。
「リューシェさま、私です」
「ろ、ローシェ、姉さま――」
「いいえ。リーシェです」
「リー、シェ」
「はい。リーシェ、です」
リューシェの目の焦点が、ゆっくり、合った。彼の目に、リーシェが映った。
「お嬢、様」
「はい」
「私は――」
「ここに、いてください」
「お姉さまが、お呼びに、なって、おられました」
「お姉さまは、もう、休んでいらっしゃいます。あなたの千年は、ここから、です」
リューシェの目から、涙が、ぼろぼろと流れた。眠りから覚めながら。千年の追跡から、ようやく解放されながら。
◇
夜中。リューシェが、完全に目を覚ました。
起き上がって、家族全員に、深く頭を下げた。
「皆さま。千年、追ってきたお姉さまを、今、手放しました。私の千年は、ここから、です」
ゼルヴァーンが、頷いた。
「ようこそ、もう一度」
「ありがとう、ございます、陛下」
「兄上、と、呼べ」
リューシェが、わずかに笑った。千年で、二度目の笑みだった。
「兄上」
「ああ」
「家族というのは、温かいものでございますね」
「ああ」
窓の外で、二つの月が出ていた。
左の月の欠けが、また、わずかに小さくなっていた。
誰も、まだ、気づいていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
デミウルゴの眼鏡の意味が、千年越しに明かされました。「眼鏡をかけることは、陛下を千年お見守りすること」。
そしてナディアとデミウルゴが、互いの千年の想いを、ようやく認め合いました。「私たち、似た者同士、でしたね」。
リューシェさまが、目を覚まされました。お姉さまを手放し、自分の千年をここから始めると、決意なさいました。
しかし――影は、まだ退いただけ。揺らがせ方を変えて、リーシェの夢に、また現れます。
次回、第40話「揺らがせる、ということ」。リーシェが、揺らぐことを、恐れなくなります。




