第38話 お姉さまの最期
一晩で、リューシェの頬から、血の気が引いていた。
朝。彼は、まだ眠っていた。顔色は、昨日より悪い。ナディアがリューシェの額に湿った布を置き、フィンがその隣の椅子に座っていた。
リーシェも、傍に立った。
「フィンさん。お姉さまの、千年前の朝の話を、聞かせてください」
フィンが、ゆっくり頷いた。
「お話しいたします。ナディアと私が、別々に見ていた、ローシェさまの、最期を」
◇
「千年前。停戦条約調印の、その朝でございました」
フィンが、語り始めた。窓の外は晴れていた。月の庭園の方角から、白い花の香りが漂ってきていた。
「ローシェさまは、夜明け前に起きておられました。私がお部屋に参りますと、もうお一人でお着替えになって、髪を結っておられました」
「いつものことですか」
「いいえ。お嬢様の朝のお着替えは、私の役目でございました。あの朝が、初めてお一人でなさったのです」
ナディアが、頷いた。彼女もまた、同じ朝の記憶を持っていた。
「ご朝食は、いつも通り、蜂蜜菓子を二つ、お召し上がりになりました」
「二つ、ですか」
「ええ。お嬢様は、いつも二つ、お召し上がりでした」
リーシェは、ふと、自分の朝食を思い出した。最近、自分も二つ食べていた。偶然か、それとも――
「ご朝食のあと、ローシェさまは、デミウルゴにお会いになりました」
フィンが、声を落とした。
「お部屋で、お二人でお話をなさいました。私は、扉の外でお待ちしておりました。中の声は聞こえませんでした。ただ、お話が終わって、デミウルゴが出ていらした時――」
「はい」
「銀縁の眼鏡を、おかけになっておられました」
リーシェの心臓が、跳ねた。
「眼鏡」
「ええ。それまで、デミウルゴは眼鏡をおかけになっていらっしゃいませんでした。あの朝、初めて、ローシェさまから賜られたのです」
「それが、千年、おかけになっている眼鏡」
「左様でございます」
◇
「お昼前、ローシェさまは、月の庭園に出られました」
フィンが、続けた。
「私は、お側に控えておりました。庭園には、まだ花は咲いておりませんでした。停戦の調印は夜で、お姉さまが力を世界に放たれるのは、夕方だったからです」
「お一人で、ですか」
「いいえ。ゼルヴァーン陛下も、月の庭園におられました」
リーシェが、ちらりとゼルヴァーンを見た。彼は扉口に立って、聞いていた。目を伏せていた。
「お二人は、長くお話をなさいました。私は距離を置いて控えておりました。声は聞こえませんでした」
「お姉さまの、ご様子は」
「お笑いに、なっておられました」
フィンの目が、揺れた。
「いつものように、明るくお笑いになっておられました。ただ、お笑いの奥に、何か、決意のようなものが、ございました」
「決意」
「ええ。揺らがれないご様子で――」
ナディアが、口を開きかけた。しかし、フィンが、首を振った。
「ナディア。今日は、私がお話しいたします」
「フィン」
「ローシェさまは、揺らがれて、おられました」
応接間が、静まった。
「揺らがれて、おられた」
「ええ。でも、表にお出しになりませんでした。お姉さまは、揺らがれていても、笑顔のままでおられる、お方でした。十六歳の頃から、ずっと、そうでした」
ナディアが、両手を口元に当てた。
「あの朝、お姉さまは、揺らがれていらしたの。私が、嘘を申し上げた、後から――」
ナディアの声が、震えた。フィンが、彼女の手に、自分の手を重ねた。皺の深い、千年仕えた二つの手が、ベッドの脇で並んだ。
「ナディア。あなたを責めるために、申し上げているのではございません」
「フィン」
「お姉さまは、揺らがれていても、ご自分で答えをお出しになられた、お方でした。あなたの嘘が、揺らがせたのではございません。揺らがれた上で、ご自分でお選びになりました」
「選んだ」
「『揺らがず、選ばず』を」
応接間が、静まった。
◇
ゼルヴァーンが、扉口から入ってきた。
「フィン。ローシェが、僕に、月の庭園で言ったことを――お前は、知っているか」
「いいえ、陛下。お声は、聞こえませんでした」
ゼルヴァーンが、ベッドの脇に座った。リューシェの、隣の椅子に。
「あの日、ローシェは、僕にこう言った」
彼の声が、静かだった。
「『私が消えても、あなたは千年、待ってください。次の半身に、お会いになるまで』」
リーシェの息が、止まった。
「『次の半身は、私と似た顔をしているかもしれません。同じ家から、生まれてくるかもしれません。けれど――私では、ありません』」
ゼルヴァーンが、リーシェの方を見た。
「『次の半身は、揺らいでも消えない、お方です。私とは違う答えをお出しになる、お方です。どうか、その方を、千年、待ってください』」
「ローシェさまは――」
「知っていた。次が来ることを。次が、自分とは違う答えを出すことを」
リーシェの目から、涙が落ちた。
「ゼルヴァーンさま。私は、お姉さまに、もう、お会いしたいです。お礼を、申し上げたい」
「ああ」
ゼルヴァーンが、リーシェの肩に手を置いた。今度は、止まらなかった。
◇
夕方。ベッドのリューシェの、指先が、わずかに動いた。
ナディアが、気づいた。
「リューシェさま」
リューシェの唇が、わずかに開いた。声には、ならなかった。しかし、その口の形は、確かにこう動いていた。
――お姉さま。
ナディアが、フィンの方を見た。フィンが、深く頷いた。
「お姉さまのところに、行かれかけて、おられます」
「止めなければ。どうやって」
「家族の声で――」
ナディアが、リーシェを見た。
「お嬢様。リューシェさまをこちらにお引き戻すには、家族全員のお声が、必要でございます」
「家族全員」
「ええ」
リーシェが、立ち上がった。
「アルトを、呼んできます」
「私も参ります」
ゼルヴァーンが、ナディアに頷いた。
「フィン、デミウルゴを呼べ。ハインツも」
「はい」
応接間の扉が、開かれた。六人の家族が、リューシェを千年前から戻すために、集まろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
千年前、ローシェさまは揺らがれていらした。それでも、お笑いになって、ゼルヴァーン陛下に「次の半身を、お待ちください」とおっしゃった。
そして、デミウルゴの眼鏡は――ローシェさまからの、贈り物でした。
リューシェさまは、お姉さまのところへ行きかけておられます。家族全員で、こちらに引き戻さなければなりません。
次回、第39話「もう一人の千年」。デミウルゴが、千年仕えた本当の理由を語ります。そして、家族の声で、リューシェさまを呼び戻します。




