第37話 夢の中の私
その朝、リューシェの席だけが、空いていた。
大食堂には、六人分の朝食が並んでいた。席に着いたのは、五人だった。
影が消えた翌朝。リーシェは、いつもより早く目を覚ましていた。眠りが浅かった。夜のどこかで、声を聞いた気がした。自分の声によく似た、別の誰かの声を。
――選ばないなら、私が選んであげる。
覚えているのは、それだけだった。そして今、目の前に、空いた椅子が一つ。
ナディアが、扉の方を振り返った。
「お声がけしたのですが、お返事が、ございませんでした」
「眠っていた、か」
ゼルヴァーンが立ち上がった。
「行く」
リーシェも立った。アルトも立った。六人で、リューシェの部屋に向かった。
◇
扉を開けた。
リューシェは、ベッドに横たわっていた。穏やかな顔で。まるで眠っているように。
しかし、目を覚まさなかった。
ナディアがベッドの脇に座り、リューシェの手を取った。冷たくはなかった。脈はある。呼吸もある。ただ、目が覚めなかった。
「ナディア。これは――」
ゼルヴァーンの声に、ナディアの紫の瞳が揺れた。
「ローシェさまも、消える前夜、こうでございました」
空気が、冷えた。
「同じ、ですか」
「同じです」
「では、リューシェさまも」
「消える、可能性が、ございます」
フィンが、ベッドの反対側に座った。皺の深い手で、リューシェの額に触れた。
「リューシェさま。お姉さまのところに、行かれてはいけません」
リューシェは、答えなかった。ただ、眠っていた。
◇
午前中、家族で話し合った。応接間の扉は、開けたままにした。リューシェの様子が、すぐに確認できる位置で。
「影は、退いただけだった」
ゼルヴァーンが、低い声で言った。
「ええ。家族の一人を選べと、申しました」
ハインツが答えた。
「半身さまが、選ばなかった。では、影は戦略を変えました」
「選ばせる、ではなく」
「選びたく、させる」
リーシェは、息を吸った。
「リューシェさまが目を覚まされないままだと、私は、揺らぎます」
「揺らげば、君が消える」
「はい」
ゼルヴァーンが、目を伏せた。
「リーシェ。君に、一つ、申し訳ないことがある」
「何でしょう」
「君を揺らがせないために、僕にできることは、抱きしめることしか、ない」
「もう、十分です」
「いや」
「ゼルヴァーンさま」
リーシェは、彼の手を握った。左手で。
「揺らぐのを、止めようとしないでください。揺らいでも消えないように、しています。それで、いいんです」
ゼルヴァーンが、長く彼女を見た。頷いた。
「では、僕は、君が揺らぐのを、隣で見ている。揺らぎ終わるまで、ここにいる」
「はい」
◇
昼下がり。ナディアが、リーシェの部屋にお茶を運んできた。リューシェの部屋の、隣だった。
「半身さま。お話、よろしいでしょうか」
「もちろんです、ナディアさん」
ナディアがお茶を注いだ。手が、わずかに震えていた。
「千年前、ローシェさまは、消える前の夜、私に最後のお言葉をくださいました」
「『次は、消えない』ですよね」
「ええ。しかし、もう一つ、ございました」
リーシェの心臓が、跳ねた。
「もう一つ」
「私には、おっしゃいませんでした。フィンに、託されました。今朝、リューシェさまのお部屋で、フィンが初めて、それを私に教えてくれたのです」
ナディアの目が、揺れた。
「お姉さまは、デミウルゴに、ご伝言をお残しになられました」
「デミウルゴさんに。何を」
ナディアが、ゆっくり口を開いた。
「『デミウルゴに、申し上げて。私の眼鏡を、千年、つけ続けて、と』」
リーシェの息が、止まった。
千年前から、デミウルゴがかけている、銀縁の眼鏡。あれは――千年前の、ローシェさまの、贈り物だった。
「ナディアさん。ローシェさまは、なぜ――」
「明日、フィンが、すべてお話しいたします。今夜は、お休みください」
ナディアがお辞儀をして、退出した。扉の閉まる音が、静かに響いた。
◇
夜。リーシェは、眠った。眠ったつもりだった。
しかし、気がつくと、月の庭園に立っていた。
夢の中だった。けれど、現実と見分けがつかない、夢。
目の前に、もう一人の自分が立っていた。
影では、なかった。輪郭がはっきりとした、もう一人のリーシェ。同じ髪、同じ顔、同じ瞳。ただ、口元が、笑っていなかった。
「選ばないなら、私が選んであげる」
リーシェの声で、もう一人の自分が言った。
「あなたは――」
「あなたが選ばないと決めたなら、私が代わりに選んであげる。最も痛みが少ない順番に。一人ずつ」
「やめてください」
「最初は、誰がいいかしら」
もう一人の自分が、笑った。口元だけが、ゆっくりと緩んだ。
「リューシェ・グランハイドは、もう半分、こちら側にいる」
リーシェの息が、止まった。
「リューシェさまは――」
「お姉さまに、千年ぶりにお会いしたいと願って、こちらに来ている」
「お姉さまは――」
「あなたが思っているところには、いない」
もう一人の自分が、目を伏せた。
「あなたが信じていることが、すべて間違っている。それをお知らせするためにも――リューシェさまには、こちらにいていただく」
「やめて」
「揺らぎなさい、リーシェ・グランハイド」
もう一人の自分が、消えた。
風が吹いた。月の庭園の、十二輪の黒い花が、いっせいに揺れた。
◇
リーシェが、目を覚ました。
ベッドの上で、自分の手が震えていた。
左手が、何かを強く握っていた。
弟のロケットを、握っていた。心臓の上で。強く、強く。
夢の続きを、握りしめるように。
お読みいただきありがとうございます。
影が、戦略を変えました。「選ばせる」から「選びたくさせる」へ。リューシェさまが目を覚まされず、リーシェの夢には、もう一人の自分が立ちました。
そして、千年前にローシェさまがデミウルゴに残された伝言――「眼鏡を、千年、つけ続けて」。その意味を、明日フィンが語ります。
次回、第38話「お姉さまの最期」。フィンが、千年前の朝を語ります。揺らがれていたお姉さまが、最期に何を選ばれたのか。




