第36話 夜が、明けた
朝。
ナディアが、応接間に、リーシェを呼んだ。
ゼルヴァーンも、デミウルゴも、リューシェも、フィンも、アルトも、いた。家族の、全員が。
「リーシェさま」
ナディアの声が、震えていた。
「千年前、私がローシェさまに申し上げた、嘘を、お話、いたします」
リーシェが、静かに頷いた。
「お聞きします」
◇
「千年前、私は」
ナディアの声が、震えた。
「ローシェさまのお側におりました。同じ侍女頭として、フィンがグランハイド家に、私が魔王城に、おりました」
「ええ」
「ローシェさまは、明るい方でした。よく笑い、よく泣き、よくお話をなさいました」
「ええ」
「そしてゼルヴァーン陛下は、千年前は、もっと笑顔の少ない方でした。ローシェさまの前でも、口元が緩むだけで、声を出して笑われることは、めったにありませんでした」
「ええ」
「私は、その口元の緩みを、ずっと見ておりました」
ナディアの紫の瞳が、揺れた。
「お側にいさせていただいた四百年で、私は、ゼルヴァーン陛下を、お慕いしてしまったのです」
応接間が、静まった。
リーシェの目が、ゼルヴァーンを見た。ゼルヴァーンは、ナディアを見ていた。穏やかな顔。怒っていない。
「ナディア」
「はい、陛下」
「知っていた」
「は——」
「知っていた。千年前から」
ナディアの目から、涙が落ちた。
「申し訳——」
「謝るな」
彼の声は、静かだった。
「お前の想いは、お前のものだ。それを責める権利は、僕にはない」
「しかし、私は——」
「続けろ」
ナディアが、口を開いた。
「ある日、ローシェさまが、私にお聞きになりました。『陛下は、私のことを、どう思っていらっしゃるかしら』、と」
「うん」
「私は、答えました」
ナディアの声が、震えた。
「『陛下は、もう、ローシェさまを、半身としか見ておられません。一人の女性としては、もう見ておられません』、と」
応接間が、ぴたり、と止まった。
「嘘でした」
ナディアが、両手を顔に当てた。
「陛下は、ローシェさまを、誰よりも女性として見ておられました。私は、それを知っていながら、ローシェさまに嘘を申し上げたのです」
「ナディア」
「ローシェさまは、その日から揺らがれました。ご自分の存在を、半身としての機能としてしか見られなくなり、ゼルヴァーン陛下に女性として愛されていない、と信じてしまわれた」
「うん」
「停戦条約の調印の夜。ローシェさまは、ご自分の力を、最後まで世界に放たれました。あれは——『私が女性として愛されていないなら、せめて、機能として、最後まで世界に尽くしたい』、というお気持ちでした」
ナディアの声が、消えた。
「私の嘘が、ローシェさまを揺らがせました。揺らがれた半身を、無名の女王は収穫しました」
「私の——千年前の半身の、消失の原因は、私です」
◇
応接間が、静まり返った。
誰も、何も言わなかった。
リーシェが、立ち上がった。
ナディアの前に、歩いていった。
彼女の前に、しゃがんだ。
ナディアの両手を、顔から外した。
「ナディアさん」
「リーシェさま、私は——」
「ナディアさん」
「はい」
「あなたは、ローシェさまを揺らがせたかった、わけでは、ないでしょう?」
ナディアが、答えなかった。
「あなたは、自分が、ゼルヴァーンさまに振り向いてほしかった。一瞬でも、ローシェさまから目を逸らしてほしかった。その想いが、嘘になった」
「は、はい」
「それは、罪です。でも、千年、ご自分で罰してこられた罪です」
「リーシェさま」
「あなたを千年罰してきたのは、あなた自身です。私は、もう、罰さなくていいと思います」
ナディアの目から、涙が、ぼろぼろ落ちた。
「私を、許す、と仰るのですか」
「許す、ではないです。あなたがローシェさまを揺らがせたとしても、私を揺らがせるわけでは、ないんです」
「リーシェさま」
「あなたが、私に嘘を申し上げないと決めてくださっている限り、私は揺らぎません」
「……」
「ナディアさん」
「はい」
「これからも、私の隣で、家族としていてくださいますか」
ナディアが、頷いた。何度も、何度も。千年仕えた喉が、許される、その日に、初めて震えた。
◇
その時。
窓の外が、暗くなった。
月の庭園の方角。
昼間なのに、空が暗くなる、不自然な暗さ。
「陛下」
デミウルゴが、窓を見た。
「これは——」
「無名の女王、か」
「おそらく」
ゼルヴァーンが、立ち上がった。
「リーシェ」
「はい」
「庭園に、行く」
「はい」
「君は、揺らがれたか」
「揺らいで、います」
「揺らいでいるか」
「はい。揺らいでも、消えない、と決めて、立っています」
ゼルヴァーンが、頷いた。
「では、行こう」
リューシェが、口を開いた。
「私も、参ります。千年、追ってきた相手です」
「ええ」
ハインツも、立ち上がった。
「私も。十年、文字で追ってきました」
「ええ」
ナディアも、フィンも、デミウルゴも、アルトも、全員が立ち上がった。
六人。あるいは、七人。
家族の全員が、月の庭園に向かった。
◇
月の庭園。
昼の光が、消えていた。
空は、月の夜のように深い藍色に染まり、二つの月が空にあった。昼なのに。
庭園の中央。
十二輪の黒い花の、ど真ん中に——
一つの影が、立っていた。
女性の形をしていた。
しかし、それは、リーシェの形をしていた。
顔も、髪も、ドレスも、リーシェと同じ。
ただし、影は黒かった。輪郭しか見えない。中身は、すべて黒。
影が、口を開いた。
声は、リーシェの声と同じだった。
「ようやく、目を覚ましたか」
リーシェが、立ち止まった。
ゼルヴァーンが、リーシェの前に出ようとした。リーシェが、彼の腕を止めた。
「いいえ」
「リーシェ」
「私が、話します。あれは、私を待っていた、私です」
「自分自身」
「無名の女王は、半身の内側にいる、と、ハインツさんが教えてくれました」
影が、笑った。リーシェの声で。
「賢いね、君は」
「あなたが、私の中で千年、待っていた」
「そう」
「私を揺らがせて、収穫するために」
「そう」
「あなたが、クリストフさまのお母さまを奪ったのも、そのためですか」
影の笑みが、わずかに、揺らいだ。
「アルトのエルヴァードも。私の、近くにいた人から、順番に」
「……前菜のようなものさ」
影が、リーシェの声で言った。
「半身は、近い者から崩れる。母を喪った子は、母の代わりを、欲しがる。執事を喪った子は、また、誰かにすがる。そうして、半身の周りが、少しずつ、欠けていく。欠けた分だけ、半身は、揺らぐ」
「あなたは、人を、餌にしました」
「世界の循環の、ためにね」
「いいえ」
リーシェの声が、震えなかった。
「あなたは、自分が、消えたくなかっただけです」
影が、答えなかった。
リーシェは、自分の心臓の上の、銀のロケットを握った。押し花の入った、ロケット。
「でも、私は、揺らいでも、消えません」
影の笑みが、消えた。
「君は、まだ、わかっていないようだね」
影の輪郭が、ゆらり、と揺れた。
「揺らいでも消えない、というのが、最も揺らいだ状態なのだよ」
◇
影が、リーシェに向かって、手を伸ばした。
影の指先が、リーシェの胸の、銀のロケットを指した。
「君が家族と呼んでいる、その全員。誰か一人を、選びなさい。一人を消すことで、君が消えるのを防ぐ。それが、揺らがない、ということ」
リーシェの息が、止まった。
「私が揺らいで消えれば、世界は半身を失い、循環は再び止まる。多くの命が失われる」
「そう」
「私が揺らがず、誰か一人を選べば」
「世界は救われる。君の家族のうち、一人を犠牲に」
誰も、息をしなかった。
六人の家族が、月の庭園で、リーシェの背中を見ていた。
「選びなさい、リーシェ・グランハイド」
影が、笑った。
「君の、最初の選択を」
◇
その時。
小さな足が、一歩、前に出た。
アルトだった。
彼は、リーシェの隣に並んで、影を、見上げた。十二歳の喉が、震えていた。それでも、声を、出した。
「ね、ねえさまは、選ばないよ」
影が、アルトを見た。
「だって、ねえさまの家族は、ねえさまが選んだんじゃない。ぼくらが、ねえさまを、選んだんだ」
影が、答えなかった。
「だから、ぼくを、数に入れて。一人選べって言うなら、ぼくが、最初に、ねえさまの、前に立つ」
「アルト」
リーシェが、彼の名を呼んだ。
アルトの小さな左手が、リーシェの左手を、握った。ぎゅっと。馬車の夜と、同じ手で。
リーシェは、その手を握り返した。
そして、影を、まっすぐに見つめた。
「選びません」
声は、震えていなかった。
「私は、選びません。一人も」
「では、君が消える」
「消えても、選びません」
「世界の、循環が止まる」
「止まっても、選びません」
「君は、半身としての責任を、果たさないのか」
「半身としての責任を果たすことで、家族のうち一人を消すなら——」
リーシェは、笑った。
「私は、半身としての責任を、果たしません」
影が、初めて、表情を失った。リーシェの声で笑うことを、止めた。
「君は、世界よりも、家族を選ぶか」
「選ぶ、ではありません」
「では、何だ」
「私は、家族を選ばないんです。家族は、選ぶものでは、ありません」
影の輪郭が、揺らいだ。
わずかに、黒の濃さが、薄れた。
「君は——」
「あなたは、千年前、お姉さまに、同じことを聞きましたか」
影が、答えなかった。
「ローシェさまも、選ばなかったはずです」
「……」
「だから、自分の力を世界に放った。あれは——『誰も選ばない』、という、お姉さまのお答えだった」
影の輪郭が、もう一段、薄れた。
「お姉さまは、揺らいで、消えました。でも、選びませんでした」
「……」
「私も、お姉さまと、同じです」
影が、ゆっくり下がった。一歩。庭園の中央から。
「ただ、私は、お姉さまと違うところが、一つだけ、あります」
「何だね」
「私には、家族が、います」
月の庭園に、風が吹いた。
十二輪の黒い花が、揺れた。
その中の、十三輪目の、まだ咲いていない蕾が、枯れた。
地面の、土の下で、しおれて、消えた。
「家族が隣にいる限り、私は、揺らいでも消えません」
影の輪郭が、さらに薄れた。
影が、ゆっくり後ろを向いた。リーシェに、背を向けた。
「……君を収穫する夜は、また、来る」
声が、リーシェの声から、別の女性の声に変わっていた。低い、深い、千年を生きた、誰かの声。
「次は、もっと、深く揺らがせる」
「お待ちしています」
リーシェが、答えた。
「揺らいでも、家族と立っています」
影が、消えた。
ふっ、と、灰のように。
昼の光が、戻った。
空は青く、二つの月は、空から消えていた。
月の庭園の中央に、十二輪の黒い花は、まだ咲いていた。
しかし、その中央の、地面に、一輪の白い花が、新しく咲いていた。
黒い花の、ど真ん中に。
白く。
千年前の花と、同じ色で。
◇
「ねえさまっ」
アルトが、リーシェの腰に、両腕を回した。さっきまで影の前に立っていた小さな体が、今は、震えていた。怖かったのだ。それでも、前に出たのだ。
ナディアが、それに続いた。リーシェの背中に、両手を当てた。
フィンが、リーシェの前で、深く頭を下げた。
リューシェが、ゼルヴァーンに頷いた。
デミウルゴが、眼鏡を外して、目元を押さえた。
「千年お仕えしておりますが——半身さまの『選びません』を聞ける夜が来るとは、思っておりませんでした」
ゼルヴァーンが、リーシェの隣に立った。
「リーシェ」
「はい」
「君は——」
「揺らいでます」
「揺らいでいるな」
「はい。でも、消えません」
「ああ」
ゼルヴァーンが、リーシェの手を握った。今度は、左手を。
左手は、もう、何かを握っていなかった。
弟の花のロケットも、十七年分の鎧も、握っていなかった。
ただ、ゼルヴァーンの手を、握り返していた。
その手の上に、アルトの小さな手も、重なった。
月の庭園に、昼の光が降っていた。
第2部第1章「五人の家」 了。
お読みいただきありがとうございます。第2部第1章「五人の家」、完結です。
「私は、家族を選ばないんです。家族は、選ぶものではありません」
リーシェが初めて無名の女王と対峙し、「選ばない」という答えで影を後退させました。一歩前に出たアルトの「ぼくが、最初に、ねえさまの前に立つ」も、どうか覚えていてください。
しかし、影は消えただけ。「次は、もっと深く揺らがせる」と言い残しました。無名の女王は、まだ戻ってきます。
千年前のローシェさまは、選ばずに消えました。リーシェは、選ばずに消えませんでした。違いは「家族が隣にいる」ことでした。
次回、第37話。第2部第2章「揺らぐ夜」、開幕。無名の女王の二度目の揺らがせ方が始まります。そして第2部第2章のどこかで、千年前、リューシェさまがお姉さまの最期に何を見たのかが、語られます。
花は、嵐でも、咲きます。
黒い花の、ど真ん中にも、白い花は咲きました。




