第35話 触れる、ということ
扉が、開いた。
応接間に、男が入ってきた。
背の高い、痩せた男。年齢は——わからない。四十歳のようにも、二十歳のようにも見えた。千年を生きた者の、年齢の不確かさ。
銀灰色の髪。ゼルヴァーンと、同じ色の髪。しかし、肌は人間のものだった。柔らかな、淡いベージュ。瞳は、リーシェと同じ、薄い灰色だった。
リューシェ・グランハイド。
千年前の半身、ローシェ・フォン・グランハイドの、双子の弟。
彼は、ゼルヴァーンを見た。それから、リーシェを見た。
長く、見ていた。
それから、膝をついた。応接間の床に。最初の夜、ゼルヴァーンがリーシェの前に跪いたのと、同じ姿勢で。
「お嬢様」
声が、震えていた。
「やっと、お会いできました」
「リューシェさま」
「ええ」
彼が、目を細めた。その目尻に、千年分の疲れが、薄く溜まっていた。笑おうとして、うまく笑えない人の、顔だった。
「あなたが、お生まれになった夜のことを、覚えています。私は、揺りかごの傍に立って、あなたの寝顔を、見ていました」
「私の」
「ええ。小さな、握りこぶしでした。何も握っていないのに、握っていた。——姉の、子供の頃と、同じ癖でした」
リューシェの声が、わずかに、掠れた。
「私は、その夜、あなたに、誓いました。『この子も、消させはしない』、と。そう言って、私は、また、追跡に戻りました。あなたの寝顔を、たった一度、見ただけで」
「どうして、あの夜、声を、かけてくださらなかったのですか」
リューシェが、目を伏せた。
「……怖かったのです」
千年を追い続けた男の口から出たには、ひどく、人間らしい言葉だった。
「もし、あなたと言葉を交わして、情が移れば。私は、追跡を、続けられなくなる。姉の仇を、追い続けることが、できなくなる。だから、私は——あなたを、見ないようにして、生きてきました。今日、こうしてお会いするまで」
応接間が、静まった。
リーシェは、膝をついた。リューシェの目の高さに合わせた。
「リューシェさま。お姉さまは——」
「ローシェ姉さまは、消えました。確かに、消えました」
「あなたが追っている、無名の女王が——」
「奪いました」
リューシェの、薄い灰色の瞳が、揺れた。
「千年、私は、その存在を追っています。仇を討つことだけを、考えて。——正直に申し上げると、もう、自分が誰のために追っているのか、わからなくなる夜も、ありました。姉のためか、それとも、ただ、立ち止まるのが怖いだけなのか」
彼が、ふ、と息を吐いた。
「ようやく、お嬢様が、ご無事のうちにお目にかかれて、安堵しました。——少し、休んでも、いいような、気がしています」
「ご無事」
「はい。十二、揃いました。本来、ローシェ姉さまは、十二が揃った夜に消えました。お嬢様が、まだお元気でいらっしゃるのは——」
「私が、揺らいでいないから、ですか」
「左様でございます」
リーシェは、頷いた。
「揺らがないように、します」
「お嬢様」
「はい」
「揺らがない、と決意なさるのが、最も危ないことです」
「え?」
「揺らがない、と決意することは、それを脅かす存在を、内側に認めることです。無名の女王は、その『揺らがない、という決意』の隙間に入ります」
「では、どうすれば」
「決意せず、ただ、揺らいでも構わない、と思うことです」
リーシェは、しばらく、リューシェを見ていた。
それから、笑った。
「リューシェさま。揺らいでも構わない、なら、揺らいで、消えないようにします」
リューシェの目が、わずかに揺れた。
「お嬢様、それは——」
「私は、揺らがないんじゃないんです。揺らいでも、隣に家族がいるから、消えないんです」
リューシェは、長く、彼女を見ていた。
そして、ふと、笑った。今度は、うまく、笑えた。千年で、初めての笑みだった。
「お姉さまも、同じことを仰っておられました」
その声には、敬語の硬さが、もう、なかった。
◇
「フィン」
「はい、リューシェさま」
「もう、私の名前を、グランハイド家の家系図に、戻していい」
「左様で、ございますか」
「ああ。千年、消した名前を。お嬢様の隣で、家族として、立たせてくれ」
フィンが、深く頷いた。
「リューシェ・グランハイド、として、戻られます」
「ああ」
「お嬢様の、大叔父さま、ということになります」
リーシェが、ふ、と笑った。
「家族が、六人になりました」
ゼルヴァーンも、頷いた。
「家具を家族と数えれば、七人だ」
「家具ではないです」
「ただいま記録しております」
「数えるな」
アルトが、声を出して笑った。
リューシェが、千年ぶりの空気に、息を整えた。久しぶりに、肩から、力が抜けた気がした。
◇
夜。
魔王城に、戻った。フィンと、リューシェも、ともに。
夕食を、六人で取った。十五個の蜂蜜菓子は、十八個に増えていた。料理長が、急遽、三個、追加で焼いた。
夕食のあと。
リーシェは、月の庭園に出た。
ゼルヴァーンが、後を追ってきた。
二人だけ、だった。
月の庭園に咲く、白い花、青い花、薄紅、銀。そして、中央に、十二輪の黒い花。
「リーシェ」
「はい」
「揺らいでも、消えない、と、君は言ったな」
「言いました」
「その意味は」
「私は、揺らがないために力を入れて生きるのは、できないです。十七年、そうやって生きて、疲れました。だから、揺らいで、それでも消えないようにします。それは、私の力じゃない」
「では、何だ」
「あなたが、ここにいてくれることです」
ゼルヴァーンが、目を伏せた。
「リーシェ」
「はい」
「君を、抱きしめてもいいか」
千年で、初めてのお願いだった。
リーシェの目が、潤んだ。
「……はい」
ゼルヴァーンが、手を伸ばした。今度は、止まらなかった。
彼の腕が、リーシェの肩を包んだ。引き寄せた。
千年の魔王の胸に、半身の頭が、もたれた。
彼の鼓動が、聞こえた。
千年、誰にも聞かれなかった鼓動を、今、リーシェが聞いていた。
「……ゼルヴァーンさま」
「うん」
「あったかいです」
「君もだ」
「重くないですか」
「重くない」
「本当に?」
「重い」
「ひどい」
「冗談だ」
「冗談に、聞こえません」
二人とも、笑った。月の庭園で。十二輪の黒い花を、隣に置いて。
◇
遠く。
城の窓辺で、ナディアが、それを見ていた。
千年前と同じ場所で。千年前と同じ夜空の下で。
しかし、今夜、彼女は笑っていなかった。
窓辺で、両手を口元に当てて、長く、息を整えていた。
「……ナディア」
背後に、デミウルゴが立っていた。
「お前か」
「ええ」
「言うのか」
「明日の朝には、申し上げます」
「リーシェさまに」
「ええ」
「千年前、お前が、ローシェさまに申し上げた、嘘を」
ナディアの紫の瞳から、涙が、一粒、落ちた。
「ええ」
「自分の罪を、自分で口にする」
「ええ」
デミウルゴが、眼鏡を外した。
「ナディア」
「はい」
「お前の罪は、お前一人のものではない。私も、お前の嘘を、止めなかった」
「それは——」
「私も、お前と同じ場所で、千年、立っていた」
二人の千年仕えてきた者の間で、ようやく、千年分の距離が縮まった。
ただし、抱擁ではなかった。
ただ、肩が、わずかに触れあっただけ。
◇
月の庭園では、ゼルヴァーンが、リーシェを抱きしめたまま、長く立っていた。
花が咲いている。風が吹いている。十二輪の黒い花が、揺れている。
その中に、一輪。
まだ咲いていない、十三輪目のつぼみが、地面から、わずかに顔を出していた。
二人とも、まだ、気づいていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
リューシェが扉を開け、「揺らいでも構わない」とお嬢様に教えました。千年、仇だけを追い続けてきた人の、少し疲れた横顔も、描けたなら嬉しいです。
家族が六人になりました。ゼルヴァーンが、千年で初めてリーシェを抱きしめ、ナディアとデミウルゴの千年分の距離も、ようやく縮まりました。
そして、ナディアが、明日の朝、千年前の罪を口にすることを決めました。月の庭園に、気づかれていない十三輪目の蕾が出ています。
次回、第36話「夜が、明けた」。第2部第1章、最終話。リーシェの目の前に、無名の女王が初めて姿を現します。




