第34話 離反者
ハインツが頭を深く下げた、その姿勢のまま、応接間は、しばらく止まっていた。
「上げてください」
最初に口を開いたのは、リーシェだった。
「ハインツさん。お顔を、上げてください」
「は、はい」
彼が、顔を上げた。蒼ざめた頬。インクの染みた指。半身の親族であることを自分の口で言うのが、初めてのことだったのが、わかった。
「ご無礼を、お許しください、半身さま」
「無礼では、ないです」
「私は、王太子殿下のもとで——」
「ハインツさん」
リーシェは、彼の前に立った。
「私たちは、もう、お互いに敵か味方か、決められるような関係では、ないんですよ」
ハインツの目が、揺れた。
「半身さま」
「敵だったあなたが、味方として、ここに来た。私は、それを信じます」
「私の、過去は——」
「過去のあなたが何をしていたか、私は責めません。今、ここに立っているあなたを、私は聞きたいだけです」
ハインツは、長く答えなかった。
そして、ゆっくり頷いた。
◇
フィンが、お茶を、もう一杯注いだ。今度は、ハインツの分も。
ハインツが、テーブルに、古文書の写しを広げた。十年分の解読の結晶。痩せた両手で、丁寧に皺を伸ばした。
「順を追って、ご説明申し上げます」
「うん」
「千年前、半身ローシェさまは、停戦条約の調印の夜、最後の力を世界に放ち、消えました——と、歴史書には書かれております」
「ああ」
「しかし、それは、表向きの記述でございます」
ハインツの指が、古文書の一節を指した。
「半身が消えるのは、世界の循環の代償ではありません」
「では、何だ」
「収穫、です」
応接間が、静まった。
「半身は、世界の循環の核です。しかし、その循環には、対価が必要です。その対価を奪う存在が、おります」
「存在」
「古文書では、こう呼ばれております」
ハインツが、ペン先で、ある単語を指した。
『無名の女王』
ナディアが、息を呑んだ。
フィンの、お茶を注ぐ手が、止まった。
「その存在は、千年に一度、半身を収穫します。半身が『自分自身を、信じられなくなった、その夜』に。意志の支えを失った半身は、世界の循環ではなく、無名の女王の餌になります」
「自分自身を、信じられない、とは」
「半身が、自分の存在意義を疑った時、で、ございます」
「リーシェ」
ゼルヴァーンが、隣を見た。
「君は」
「疑って、いません」
「本当に」
「はい」
「ローシェさまは、疑われた、のですか」
「歴史書では、ローシェさまは『最後の力を世界に放った』と書かれております。しかし古文書の、別の記述では——」
「別の記述」
「『半身は、自分の力が世界に届いていないと信じて、力を放った』」
「届いていない、と、信じて」
「はい」
ナディアの紫の瞳が、揺れた。
彼女が、何かを知っている顔をしていた。
しかし、今はまだ、口を開かなかった。
◇
「ハインツさん」
「はい」
「無名の女王は、今、どこにいますか」
「不明です。ただ、古文書には、こう記されております。『無名の女王は、半身の側に、常に立っている。半身の、知らない場所に。最も近い距離で』」
リーシェの心臓が、跳ねた。
最も、近い距離。
「私の、隣ですか」
「あるいは、もっと内側、かもしれません」
「内側」
「半身の、影の中、あるいは、夢の中」
リーシェの左手が、震えた。
昨夜、彼女は、目を閉じて廊下を歩いた。アルトが、それを見ていた。あの夜、自分の意識がどこにあったか、彼女自身、わからない。
誰かが、自分の中に入っていたかもしれない。
「ゼルヴァーンさま」
「ああ」
「私の夢の中にいるかもしれない存在が——」
「ああ」
「リューシェさまの、消えた理由とも、関係が——」
「ある、と、思う」
◇
「ハインツさん。ひとつ、お聞きしても、いいですか」
「はい」
「その『無名の女王』が、千年前から、半身を収穫してきたなら——半身ではない人を、巻き込んだことも、あるのでは、ないですか」
ハインツの指が、止まった。
黒く染まった指先が、古文書の、別の頁を、繰った。
「ございます」
「あった、のですね」
「収穫の前には、必ず、前触れがございます。半身に近い血を持つ者が、先に、奪われる。古文書には『血の毒見』と、記されております」
ハインツが、リーシェを、まっすぐに見た。
「殿下の母君が——その一人でございました」
応接間が、凍った。
「クリストフさまの、お母さま」
「半身の血を、わずかに引いておられた。だから、収穫の前触れに、選ばれた。殿下は——母を、病で亡くしたと、信じておられます。しかし古文書の符合では、あれは病ではなく、収穫の、最初の一輪でございました」
リーシェの息が、止まった。
顔のない、抽象的な恐怖だと思っていた。
しかし、それは、すでに一人の母を奪っていた。クリストフから、母を。アルトから、エルヴァードを奪ったのと、同じ手で。
「アルトの、見た花も」
「おそらく、前触れでございます。エルヴァード殿は、半身の血の者ではございません。しかし、お嬢様の、最も近くにいた人でした。近い者から、奪う。それが、あの存在の、やり方でございます」
アルトの肩が、震えた。
リーシェが、彼の背に、手を置いた。
◇
フィンが、初めて口を開いた。
「リューシェさまは」
全員が、彼女を見た。
「ローシェさまが消えられた、その夜、消えませんでした」
「え?」
「リューシェさまは、その夜、城を出られた。お姉さまを失った悲しみで、と歴史書には書かれます。しかし、本当は」
フィンの紫の瞳が、揺れた。
「お姉さまを、最期まで見届けた目で、無名の女王の存在を知って、城を出られたのでございます」
「知って」
「逃げたのでは、ございません」
「では」
「追ったのです。無名の女王を」
応接間が、しんと静まった。
「リューシェさまは、千年前から、無名の女王を追っておりました。お姉さまの、仇を討つために」
「千年」
リーシェの息が、止まった。
「フィンさん。リューシェさまは、今、どこに」
フィンは、長く答えなかった。
それから、ゆっくり口を開いた。
「もう、すぐ、参られます」
「え——」
「お嬢様が、お生まれになった夜にも、リューシェさまは、グランハイドの領内に戻られました。一度だけ、お嬢様のお顔を、ご覧になって。それから、また、追跡に戻られたのでございます」
「私が、生まれた時に」
「はい。詳しいことは——ご本人から、お聞きください」
応接間の外で、足音がした。
ゆっくり、確かな足音。
応接間の扉が、ノックされた。
「お嬢様」
扉の向こうで、低い、男の声がした。
「お久しゅう、ございます」
ナディアが、立ち上がった。
千年ぶりに聞く声だった。
ハインツも、立ち上がった。彼にとっては、祖母から語り継がれた声。直接聞いたことの、なかった声。
「リューシェさま」
フィンが、扉に向かって答えた。
「お入りください。お嬢様は、お待ちでございます」
扉が、ゆっくり、開いた。
千年閉じていた、もう一つの口が、応接間に入ってこようとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
「無名の女王」——ハインツが十年かけてたどり着いた名前。千年に一度、半身を「収穫」する者。そして、その手はすでに、クリストフの母を奪っていました。顔のない敵ではなく、すでに誰かを奪った敵だったのです。
そして、千年前に姉を喪い、千年、仇を追い続けたリューシェ・グランハイドが、いま、扉の向こうに立っています。
次回、第35話「触れる、ということ」。リューシェが扉を開け、リーシェが初めて自分の千年の家族と向き合います。その夜、ゼルヴァーンとリーシェの間に、千年で、いちばん近い距離が生まれます。




