第33話 十一輪の行方
朝。
月の庭園に、ゼルヴァーンが立っていた。
昨日、リーシェが触れて消えた、一輪の場所。そこに、黒い花が、また咲いていた。
数えるまでも、なかった。
十二輪。
「揃った、まま、か」
彼が、呟いた。
風が、吹いた。十二輪が、いっせいに揺れた。
◇
グランハイド領まで、馬車で二日。
三日かけて行く距離を、ゼルヴァーンの魔族の馬車は、二日で走り切った。
リーシェの隣に、アルト。向かいに、ゼルヴァーン。
アルトは、馬車の中で、ほとんど眠っていた。昨夜、リーシェの部屋でリーシェの隣に布団を敷いて寝た時、彼は一晩中、起きていた。リーシェが、また歩いていかないかを見張るために。
リーシェは、歩かなかった。アルトが隣にいたからか、別の理由かは、わからなかった。しかし、夜のどこかで、左手が、軽く、アルトの寝間着の袖を握っていた。
目を、閉じたまま。覚えていない。
アルトが、それを、ぎゅっと握り返してくれていた。
馬車に揺られながら、リーシェは、その記憶を、左手の中で握っていた。
「ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「フィンさんって、どんな方ですか」
「会ったことがあるか、ナディア」
馬車の前に、護衛として馬で並走しているナディアが答えた。
「ええ、千年前に。フィンは、グランハイド公爵家の、当時の侍女頭でございました」
「ナディアさんと、フィンさんは——」
「友人だった、と思います。少なくとも、私は、そう思っておりました」
「だった」
「ある日を境に、フィンは、私と口を利かなくなりました」
「ある日」
「ローシェさまが、消えられた、翌朝です」
◇
グランハイド公爵邸。
二日前に、来たばかりだった。エルヴァードの葬儀のために。あの時とは違って、今日は、伝令を立てていなかった。
予告なしで、来た。フィンに、逃げる時間を与えないために。
邸の正門。馬車が、止まった。
降りたリーシェの前に、白い髪の老婦人が立っていた。
待っていた。
まるで、リーシェたちが今日来ることを、知っていたかのように。
「リーシェお嬢様」
老婦人の声は、低く、穏やかだった。皺の深い顔。腰がわずかに曲がっているが、眼差しは、若い時のまま鋭い。
「フィン、と申します」
「……フィンさん」
「お久しゅうございます」
リーシェは、思い出せなかった。覚えがない。フィンに会った記憶が。
しかし、その紫の眼差しに、見覚えがあった。
ナディアと、同じ眼差し。
千年を生きた者の、眼差し。
「ナディア」
フィンが、隣の馬上に目をやった。
「久しいですね、フィン」
「ええ、千年ぶり、です」
二人の千年前の侍女が、千年前と同じ温度で、向き合った。
◇
応接間。
ヴァルター長兄も、次兄も、父も、姿を見せなかった。式典の夜以降、公爵家は、半身の話題に近づかなくなっていた。
フィンが、お茶を注いだ。手元が、揺るがなかった。千年仕えた手は、そういうふうにできていた。
「お話は、何でございましょう」
リーシェが、口を開いた。
「エルヴァードさんの、葬儀のあとに、棺の下に敷き詰められていた、黒い花、ですが」
フィンの手が、ぴたり、と止まった。
一瞬。それから、何事もなかったかのように、お茶を注ぎ終えた。
「ご存知でしたか」
「アルトが、見ました」
アルトが、息を呑んだ。隠していたことがフィンに知られることが、怖かった。
しかし、フィンは、アルトの方を見て、薄く笑った。
「よく、お気づきになりました、アルト坊ちゃま」
「ぼ、ぼく——」
「あれは、お父さまにも、お兄さまにも、見えない位置に敷き詰めましたから」
「あなたが、敷き詰めた、と」
ゼルヴァーンの声が、低くなった。
「敷き詰めた、と申し上げました」
フィンは、肯定も否定もしなかった。
「では、葬儀のあとに、十一輪を片付けたのも——」
「私で、ございます」
「どこへ、片付けた」
フィンが、目を伏せた。
「お話、いたします。ただし——」
彼女は、リーシェを見た。
「お嬢様に、お会いするのを、千年、待っておりました」
リーシェの心臓が、跳ねた。
「千年」
「はい。ローシェさまの、双子の弟・リューシェさまの、お話を、申し上げるためでございます」
◇
フィンが、口を開きかけた。
しかし、その時、応接間の扉が叩かれた。
使用人の声が、緊張した調子で響いた。
「お嬢様。魔王城のゼルヴァーン陛下にも、お知らせを——城門に、お客様が、お一人、立っておられます」
ゼルヴァーンが、振り返った。
「誰だ」
「お、お名乗りに、なられないので、ぼくらにもわからなくて」
「身なりは」
「灰色の長衣で、フードを被られた、男性です。両手の指先が——」
使用人が、言葉を選んだ。
「黒く、染まっておられました」
ゼルヴァーンの目が、わずかに見開かれた。
リーシェも、その描写で、相手を特定できた。
「ハインツ」
「クリストフの、影だ」
「単独で、ここに来た」
応接間が、静まった。
「フィンさん」
リーシェが、口を開いた。
「お話の続きを、お聞きしたいです。ただ、その前に——」
彼女は、立ち上がった。
「あの方を、こちらにお通ししても、よろしいですか」
「お嬢様の、ご判断です」
リーシェが、ゼルヴァーンを見た。
ゼルヴァーンは、長く迷った。
それから、頷いた。
「通せ」
使用人が、退出した。
応接間の温度が、変わった。
千年前の侍女と、千年前の魔王と、千年前の家系の少女と、その敵対者の影が、一つの部屋で向き合おうとしていた。
◇
ハインツが、入ってきた。
灰色の長衣。フードを、外した。
痩せた、若い男。三十前の顔。しかし、目だけが、年齢に合わない疲労を湛えていた。両手の指先の、爪の下まで、黒い、インクの色。
彼は、深く一礼した。
「ゼルヴァーン陛下。半身さま。突然のご無礼を、お許しください」
「クリストフの、命令か」
「いいえ」
「では」
「私の、独断で参りました」
ゼルヴァーンの目が、細くなった。
「殿下からのお遣いではございません。それどころか、私は今、殿下の指示に反して、ここに立っております」
ハインツが、懐から、一枚の古い羊皮紙の切れ端を取り出した。
「これを、お渡ししに参りました」
リーシェが、受け取った。羊皮紙には、古代魔族の文字が書かれていた。リーシェには、まだ半分しか読めなかった。しかし、最後の一行は読めた。
『半身を消すのは、儀式ではない』
『半身が、自分自身を、信じられなくなる、その夜である』
リーシェの左手が、震えた。
自分自身を、信じる。
その単語の意味を、彼女は、まだ理解できていなかった。
「ハインツ」
ゼルヴァーンの声が、静かだった。
「お前は、なぜ、独断で来た」
ハインツは、長く答えなかった。
それから、口を開いた。
「私は、十年前から、古文書を読んでおりました」
「ああ」
「最初は、殿下のため、でした」
「途中から、違うのか」
「途中から——千年前のローシェさまのため、でした」
ナディアが、息を呑んだ。
「私の、母は——」
ハインツが、口を開いた。
「グランハイドの、家系の出でございます」
応接間が、凍った。
「ハインツ・グランハイド、と申します」
彼の声に、初めて震えが混じった。
「私は、リーシェさまの、遠い従兄弟でございます」
◇
誰も、何も言わなかった。
黒く染まった指先で、ハインツが、もう一度、深く頭を下げた。
千年の家系の、もう一つの枝が、今、応接間の床に、頭を垂れていた。
フィンが、静かに口を開いた。
「ハインツさま。お久しゅうございます」
「フィン」
「ご立派になられて」
「私は——」
「リューシェさまのお血筋の、お孫さまの、そのまたお孫さまでございますね」
ハインツが、息を吸った。
「祖母から聞いております。私が、半身の血筋の末裔であることを」
「左様で、ございます」
フィンが、ナディアの方を見た。
「ナディア。お話、聞いていただけますか」
「ええ、フィン」
「リューシェさまの、千年のお話を」
ナディアが、深く頷いた。
応接間の窓から、夕日が差し込んでいた。
千年閉じていた口たちが、一斉に開こうとしていた。
お読みいただきありがとうございます。
千年前の侍女フィン、千年前の家系のもう一人ハインツ。リューシェさまのお血筋の話が、始まろうとしています。
ハインツ・グランハイド——リーシェの遠い従兄弟。彼が十年、古文書を読み続けた理由が明かされました。
次回、第34話「離反者」。ハインツが十年の解読をすべて明かし、千年に一度、半身を「収穫」するある存在の名が、初めて口に出されます。




