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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第31話 黒い花弁

第2部「真相」、開幕です。五人になった家族の、最初の朝の話を。

 目を覚ました時、リーシェは自分の部屋の天井が、黒い花で埋め尽くされているのを見た。


 数百輪。


 六枚の花弁を持つ黒い花が、天井の隅から隅まで覆っていた。月光のような淡い銀の蕊が無数の点となって、暗い天井から見上げる彼女に、降りかかってくるように見えた。


 息を、吸った。


 もう一度、目を開けた。


 天井は、もう、いつもの天井だった。


 星の刺繍の入った、深い藍色の天蓋。一輪も咲いていなかった。


 しかし、左手に——


 彼女は、左手を開いた。


 一枚の黒い花弁が、握られていた。


 白でも青でも、薄紅でも銀でもなかった。


 黒だった。


 しばらく、彼女はそれを見つめていた。昨夜、自分が何を握って眠ったか、思い出せなかった。


 心臓の上の銀のロケットは、いつもの位置にあった。中の押し花は無事だった。アルトの花弁は、まだ薄く、押し花のまま、ロケットに収まっている。


 手のひらの花弁とは、別物だった。


 リーシェは、ベッドの脇の小卓に、黒い花弁をそっと置いた。


 起き上がった。窓の外を見た。


 二つの月のうち、満ちていたほうの月が、また、わずかに欠けていた。


 知っていたことだった。盟約の翌夜から、欠けは始まっていた。世界の循環は満ちては欠けるもの、とナディアが言っていた。


 しかし今朝、その欠け方が、いつもより深かった。



   ◇



 大食堂。


 五人分の朝食が、長いテーブルに並んでいた。


 ゼルヴァーンの右隣にリーシェ。左隣にアルト。向かいにナディアとデミウルゴ。


 四本腕の料理長は今朝も蜂蜜菓子を焼いていた。五人分、十五個。ゼルヴァーンの分を六個から五個に減らしたのは、アルトの分を確保するためのリーシェの采配だった。十二歳は育ち盛りなので。


 ゼルヴァーンは、まだ納得していない顔をしていた。


「ゼルヴァーンさま」


「何だ」


「お顔が、不服そうです」


「不服ではない。これは、もとからこの顔だ」


「千年お仕えしておりますが」


 デミウルゴが眼鏡を直した。


「陛下のそのお顔は、菓子の数が一個減った時のお顔でございます」


「数えるな」


「ただいま記録しております」


 アルトが、フォークを置いて、肩を震わせて笑った。


 ゼルヴァーンが、ちらり、とアルトの方を見た。


「……アルト」


「は、はい」


「四個食べていい。僕の一つを、君にやる」


 ナディアが、口元を両手で覆った。


「千年お仕えしておりますが、こんなにお優しい陛下は、初めて拝見いたします」


 大食堂に、笑い声が満ちた。


 穏やかな朝だった。


 穏やかな、はずの、朝だった。



   ◇



「ゼルヴァーンさま」


 食事がほぼ終わった頃、リーシェが口を開いた。


「ひとつ、お聞きしたいことがあります」


 彼女は、ポケットから黒い花弁を取り出した。テーブルの上に、そっと置いた。


 ゼルヴァーンの手が、止まった。


 デミウルゴが、眼鏡の奥で目を細めた。


 しかし、三人の中で最も大きく反応したのは、ナディアだった。


 彼女の手から、花茶のポットが滑り落ちた。


 床で、磁器が割れる音がした。


 誰も、それを咎めなかった。


「……ナディアさん」


 リーシェが、声をかけた。


 ナディアは、答えなかった。両手を口元に当てたまま。紫の瞳が、揺れていた。


「ナディア」


 ゼルヴァーンが、静かに呼んだ。


「君は、知っているな」


 ナディアが、ゆっくり頷いた。


「ローシェさまの、時。私は、お側におりました」


「ああ」


「あの朝、月の庭園に咲いていた花弁です。同じ形。同じ紫の脈。同じ夜の色」


「ああ」


「あの時は——」


 彼女の声が、震えた。


「十二枚、ございました」


 大食堂が、しんと静まった。


「十二枚、揃った日の夜に、ローシェさまは、消えました」


 誰も、何も言わなかった。


 黒い花弁が、テーブルの上に、一枚、置かれていた。


 まだ、一枚目だった。



   ◇



 ゼルヴァーンが、花弁を指先でつまんだ。光に透かした。


 黒は、ただの黒ではなかった。光に透かすと、奥に、紫の脈が走っていた。深い、夜のような紫の。


「リーシェ」


「はい」


「昨夜、君はどこかへ行ったか」


「いいえ。眠りました。アルトに、おやすみと言って、それから——」


 言いかけて、止まった。


 それから、の先が、思い出せなかった。


 眠った、はずだった。眠った記憶は、ある。しかしその夜のどこかに、小さな空白があった。



   ◇



「あ、あの」


 最初に続きの口を開いたのは、アルトだった。


 全員が、彼を見た。十二歳の少年は、フォークを置いて、両手を膝の上で握りしめていた。


「ね、ねえさま」


「はい」


「ぼく、昨日の夜、廊下で、ねえさまを、見ました」


 リーシェの心臓が跳ねた。


「……どこの廊下?」


「ぼくの部屋の、扉の前です」


「アルト、私は——」


「目が、閉じてました」


 ゼルヴァーンが、ゆっくり、アルトの方を向いた。


「もう一度、言ってくれるか」


「は、はい」


「ねえさまは、目を閉じて、歩いていたのか」


「は、はい。だから、ぼく、夢の中で歩いてるのかなって思って。それで、声、かけなかったんです。起こしちゃいけないって、エルヴァードが、いつも言ってたから」


 エルヴァードの名前で、アルトの目に涙がにじんだ。十二歳の喉が、その名前ひとつで、詰まった。


「すみません、ぼく、もっと早く、言えばよかった」


「いえ、アルト」


 リーシェは、彼の頭を撫でた。


「謝らなくていい。教えてくれて、ありがとう」


 ゼルヴァーンが、立ち上がった。


「月の庭園に、行く」


 五人とも、立ち上がった。


 誰も、まだ何も言わなかった。しかし、同じことを感じていた。


 その黒い花弁は、一枚ではないだろうということ。



   ◇



 月の庭園は、いつもの通り、咲き乱れていた。


 白い花。青い花。薄紅。銀。盟約の夜にリーシェが咲かせた花が、今もなお開いていた。


 しかし、中央。


 二人が盟約を結んだ、その場所の周りに。


 黒い花が、咲いていた。


 一輪ではなかった。


 ナディアが、立ち止まった。両手を、口元に当てた。


 数えていた。声を出さずに。


 唇だけが、動いた。


 一輪、二輪——三輪、四輪——。


「十一輪、ございます」


 ナディアの声が、震えた。


「ご朝食の席に置かれた花弁を、合わせると——」


「十二、です」


 ゼルヴァーンの肘の関節が、ぱきり、と軋んだ。


「ナディア」


「はい、陛下」


「ローシェの時と、同じ数」


「はい」


「揃った日の、夜に——」


「ローシェさまは、消えました」


 月の庭園に、風が吹いた。十一輪の黒い花が、いっせいに揺れた。


 リーシェが、ゆっくり近づいた。靴を脱いだ。素足で、土に降りた。盟約の夜と、同じように。


「リーシェ」


「大丈夫です」


「触らなくていい」


「触ります。これは、私の場所に咲いた花です」


 彼女は、しゃがんだ。


 花弁は六枚。中心に、淡い銀の蕊。形は、庭園の他の花とよく似ていた。


 ただ、色が違うだけ。


 リーシェの指先が、花弁に触れた。


 その瞬間、花がしおれた。


 目の前で。指が触れた、ちょうどその場所から、色が抜けていった。黒が灰になり、灰が塵になり、塵が、風に消えた。


 数秒後、そこには、何も残らなかった。


 花弁、一枚すら。


「……ゼルヴァーンさま」


 彼女の声が、初めて震えた。


「私、何か、しましたか」


 ゼルヴァーンが、ナディアの方を見た。ナディアが、首を振った。


「触れても、また、その夜のうちに咲きます」


「数は」


「減らない、のです」


「ローシェも、試したか」


「はい。何度も」


「それでも」


「十二で、消えました」


 誰も、何も言わなかった。


 リーシェの心臓の上で、銀のロケットが揺れた。


 風は、もう、止んでいた。



   ◇



「陛下」


 城に戻る途中、デミウルゴが口を開いた。眼鏡の奥の目が、いつになく硬かった。


「もうひとつ、ご報告がございます」


「言え」


「先ほど、王都の方角から、伝令が参りました」


「クリストフか」


「いえ。王太子殿下からの伝令では、ございません」


「では」


「王宮の——王家の墓陵の、管理人から、です」


 ゼルヴァーンが、足を止めた。


「墓陵」


「はい。あの男の母の、墓のある」


 デミウルゴが、書状を差し出した。


「昨夜、墓陵に、黒い花が咲きました。中央の——王太子殿下の母君の、お墓の前に」


「数は」


「十二、です」


 空気が、凍った。


「向こうにも、十二」


「同じ現象が、二か所で、同時に」


「千年前から続く、別のもの」


 ゼルヴァーンが、目を伏せた。


「動き始めた、では、ない」


「と、申されますと」


「もう、ずっと前から、動いていた」


 デミウルゴは、何も言わなかった。



   ◇



 午後。


 リーシェは、自分の部屋に戻った。半身の本を、机に開いた。


 残るは、二章。「喪失」と「再会」。


 「喪失」は、既に読んだ。半身は、力を使うほどに、命を削る。


 彼女は、ページを繰った。


 「再会」の章。


 最初の一行を、読んだ。


『半身は、二度、生まれる。だから、二度、消されかける』


 二度。


 リーシェは、その単語の上に、指を置いた。


 ページを、捲った。


『一度目の半身が消える、その瞬間に。二度目の半身は、すでに、別の場所で、息をしている』


『二度目の半身が生まれる場所は——一度目の半身が、最も大切にした、ある血筋の中である』


 ある、血筋。


 リーシェの指が、ページの上で止まった。


 千年前のローシェが、最も大切にした、血筋。


 なぜ、私だったのだろう、と、彼女は初めて思った。


 なぜ、自分がその血筋の中に、生まれてきたのだろう、と。



   ◇



 同じ日の、夕方。


 王都。墓陵の、前。


 クリストフは、母の墓の前に立っていた。


 黒い花は、彼の靴のすぐ脇に咲いていた。十二輪。きっちり、十二。


 ハインツが、隣で報告書を握っていた。両手の指先は、十年分の古文書のインクで、爪の下まで黒く染まっていた。剥がれないインクだった。真実に近づきすぎた、その分だけ皮膚に染みた色だった。


「殿下。これは、千年前——ローシェ・フォン・グランハイドの、消失の直前と、同じ現象です」


「ローシェ」


「はい。古文書に、ございました」


「グランハイド、と、申したか」


「はい。千年前の半身も、同じ家の出身でした」


 クリストフの目が、わずかに見開かれた。


「では、千年前の半身も」


「グランハイドの、血筋です」


 風が、吹いた。十二輪の黒い花が、いっせいに揺れた。


 クリストフは、母のロケットを握った。長く。


「ハインツ」


「はい」


「私の母は、半身ではなかった」


「はい」


「しかし、母の血の中に——」


「半身の血が、ございました」


「では、私の母を奪ったのは」


 ハインツは、口を閉じた。


 長い、沈黙。


「半身を、奪う者だ」


 クリストフが、自分で答えた。


「半身を、二度、消そうとする、何か——」


「はい」


「私が戦うべき相手は、半身ではなかった」


「殿下」


「私は、半身を断つ儀式の手順まで、整えた。しかし——」


 彼は、母のロケットを開けた。中の肖像が、夕日に照らされていた。優しい笑みを浮かべた、若い女性。


「半身を断つことは、母を、もう一度奪うことに、ならないか」


 ハインツは、答えなかった。


「ハインツ」


「はい」


「儀式の手順書を、燃やせ」


 ハインツの、ペンを持つ手が止まった。


「殿下。それは——」


「燃やせ、と申している」


「……承知、いたしました」


 クリストフは、墓に手を置いた。


「あの二人を、消すものが、誰であれ」


 彼の声に、初めて温度が宿った。


「私の、戦う側は——決まった」


 風が、もう一度、吹いた。


 十二輪の黒い花が、もう一度、揺れた。



   ◇



 夜。


 魔王城。


 アルトは、自分の小さな部屋で、一人、ベッドの脇に座っていた。


 寝間着姿で、まだ、布団には入っていなかった。


 ポケットの中に、手を入れた。


 小さな紙の包みが、出てきた。


 包みを、開いた。


 中には、黒い花弁が、一枚、入っていた。


 彼が、グランハイド領を発つ前の日。エルヴァードの棺の下に、黒い花が敷き詰められていた。葬儀の参列者には見えない位置に。執事の体が運び込まれる前の、空の棺の底に。


 ぼくは、見た。


 十二輪、あった。


 数えた。確かに、数えた。


 一輪だけ、ぼくが、ポケットに入れた。


 残りの十一輪が、葬儀のあと、どこに消えたのか、ぼくは知らない。


 誰も、そのことを口にしなかった。


 誰にも、まだ、言っていなかった。


「ねえさまが、心配するから」


 誰にも聞こえない声で、呟いた。


「陛下が、もっと、怒るから」


 彼は、紙包みを、ぎゅっと握った。


 握ってから、気づいた。


 ぼくは、左手で握っている。


 ねえさまと、同じ手で。


 窓の外で、二つの月が欠け始めていた。


 左の月の欠けは、もう、はっきりと見えていた。


お読みいただきありがとうございます。


千年前と同じ、十二の現象が揃いました。リーシェの左手に一枚、月の庭園に十一輪、王太子の母の墓に十二輪。そしてアルトが、エルヴァードの棺の下で見たのも、十二輪でした。


『半身は、二度、生まれる。だから、二度、消されかける』


次回、第32話「血筋」。リーシェの家系図が開かれ、ゼルヴァーンが千年前のある記憶を思い出します。


千年前、ローシェさまの月の庭園に十二輪の黒い花を咲かせたのは、誰だと思いますか。よろしければ感想欄にお聞かせください。


花は、嵐でも、咲きます。

今度の花は、黒でも、消さずに咲かせます。

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