第30話 千年前と同じ
馬車は、グランハイド領に、向かっていた。
あの日、出ていった景色を、逆方向から、走っていた。
あの朝、リーシェは、馬車の中で、弟の押し花を、握っていた。今日も、握っていた。心臓の上の、ロケットの中で。
しかし、隣に、ゼルヴァーンが、座っている、点だけは、いや、十七年で、初めての、ことだった。
◇
「リーシェ」
「はい」
「無理は、しないでくれ」
「はい」
「君が倒れたら、僕は——もう、止まれない」
「止まらなくて、いいです」
「ん?」
「あなたは、止まらないでください。私が、止めます」
ゼルヴァーンが、わずかに、笑った。
「歯止めの、出番だな」
「魔王の、歯止めは、世界の歯止め、です」
「ああ」
◇
グランハイド公爵邸。
あの朝、リーシェが、出ていった、邸。
馬車が、止まった。
正門が、開かれた。
あの日、リーシェには、開かれなかった、正門が。
◇
邸の前に、人々が、並んでいた。
使用人たち。庭師のロッドさん、洗濯係のエミル、料理番のマリーさん、皆、年を、取っていた。しかし、皆、目を、潤ませて、リーシェを、見ていた。
その、最前列に。
十二歳の少年が、立っていた。
いや、もう、十二歳と少し、だった。あの別れの朝より、背丈が、少しだけ、伸びていた。しかし、まだ、子供だった。
「ねえさま」
声が、震えていた。
「ねえさま、ねえさまっ——」
彼は、走った。馬車から降りるリーシェに、向かって、走った。
リーシェも、走った。馬車から、地面に、飛び降りて、両腕を、広げて。
二人は、抱きしめ合った。
あの別れの朝、できなかった、抱擁を。十七年分の、抱擁を。一気に。
アルトが、泣いた。声を、出して。リーシェの肩で、何度も、何度も、泣いた。
「ねえさま」
「アルト」
「ねえさまっ」
「ごめんね、遅くなって」
「ぼ、ぼくっ、エルヴァードがっ——」
「うん」
「ぼく、もう——」
「うん」
「ぼく、もう、ねえさまだけです」
リーシェは、彼を、強く、抱きしめた。
「私もよ。私も、アルトだけ。ううん、違う」
彼女は、首を、振った。
「アルトと、ゼルヴァーンさまと、デミウルゴさんと、ナディアさん。私の家族は、五人」
「五人」
「うん」
「ぼくも——五人になれる?」
「もう、なってる」
アルトが、目を、見開いた。それから、首を、ゼルヴァーンの方に、向けた。
ゼルヴァーンが、馬車から、ゆっくり、降りてきた。
大陸最強の魔王が、十二歳の少年の前に、片膝を、ついた。
最初の夜、リーシェに対して、取った姿勢と、同じ姿勢で。
「アルトくん」
「は、はい——」
「君の、姉は、僕の、半身だ」
「はいっ」
「家族は、家族だ。君も、僕の、家族だ」
「はいっ——」
「だから——僕は、君を、護る」
アルトが、泣きながら、頷いた。何度も、何度も。リーシェが、その頭を、撫でた。アルトの髪が、リーシェの腕の中で、揺れていた。
◇
葬儀が、始まろうと、していた、その時。
空気が、変わった。
邸の、門の方から、王太子クリストフが、馬で、入ってきた。
従者は、ハインツ、一人だけ、だった。
馬から、降りた。微笑み、ながら。
「ゼルヴァーン陛下。半身さま。ご足労、ありがとうございます」
「クリストフ」
「葬儀の前に、少しだけ、お話を」
「断る」
「五分です。五分で、結構です」
ゼルヴァーンが、リーシェを、見た。リーシェは、頷いた。
「五分」
「ありがとうございます」
◇
邸の、奥の、応接間。
四人だけ、だった。クリストフ、ハインツ、ゼルヴァーン、リーシェ。
クリストフが、机の上に、古い、羊皮紙を、広げた。
「半身を、断つ、儀式の、手順書、です」
彼は、自分から、それを、見せた。
「私は、これを、ここで、行うつもりは、ありません」
「では何のために、見せた」
「お見せして、ご説明、申し上げたかったのです」
ゼルヴァーンの目が、冷たくなった。
「説明、だと」
「はい」
クリストフは、穏やかな、目で、リーシェを、見た。
「半身さま。この儀式は、半身の、絆を、断つものです。半身が消える、儀式です。しかし、必要な要素が、三つ、あります」
「言ってみろ」
「ひとつ、半身自身の、意志の、揺らぎ。ふたつ、半身が、対と、認める、相手の、命の、危険。みっつ、儀式の、場所」
リーシェは、聞いていた。心臓の上で、ロケットが、揺れていた。
「ふたつ目で、お気づきかと思いますが——この邸は、儀式の場所として、最適です。半身が、生まれ育った、場所だからです」
ゼルヴァーンの肘掛が、ぱきりと、軋んだ。
「ですが、私は、儀式を、行いません」
「では何の、提案だ」
「ひとつ、お願いを」
クリストフが、リーシェに、向き直った。
「半身さま。年に、一度だけで、結構です。あなたの花を、人間の大地に、咲かせに、来てください。それを、お約束いただければ——私は、儀式を、永遠に、封じます」
「永遠に」
「ええ」
彼の声は、穏やかだった。本気だった。少なくとも、本気に、聞こえた。
リーシェは、立ち上がった。
「クリストフ殿下」
「はい」
「あなたは、立派な、お人です」
「光栄です」
「正論で、人を、動かそうとなさる。人間の民のために、戦っていらっしゃる。そのことには、敬意を、抱きます」
「ありがとうございます」
「でも」
彼女は、言った。しかし、はっきりと。
「私の意志は、要請で、揺らぎません」
「半身さま——」
「年に一度の、約束も、私が、咲かせたいと、思った時に、私が、咲かせます。約束に、縛られて、咲くのでは、ありません」
「では、儀式は」
「行うも、行わないも、あなたの、ご自由です」
リーシェは、続けた。
「ただ、ひとつだけ、申し上げます」
「はい」
彼女の左手が、自分のロケットを、押さえた。心臓の上で。
「私は、消えません」
「半身さま——」
「千年前の半身は、消えました。私は、その人のことは、知りません。でも、私は、消えません。どんな儀式を、お使いになっても、私は、消えません」
クリストフが、わずかに、目を、細めた。
「なぜ、そう、言い切れるのですか」
リーシェは、笑った。
「私には、五人の家族が、います。ゼルヴァーンさまと、デミウルゴさんと、ナディアさんと、アルトと、私。五人で、世界を、生きています」
「家族——」
「家族から、消えることは、ありません」
「半身さま」
「もう、ひとつ」
彼女は、続けた。
「あなたにも、お母さまが、いらっしゃいますね」
クリストフの顔が、わずかに、動いた。
「……なぜ、それを」
「私の家族の、ナディアさんを、ずっと、見ていました。家族を失った人の、目は、すぐに、わかります。あなたの目は——ナディアさんと、よく似た、目を、しておられます」
クリストフは、答えなかった。
「私は、あなたから、お母さまを、奪った人間ではありません。誰が、奪ったのか、私には、わかりません。でも——私を、消しても、あなたのお母さまは、戻ってきません」
「半身さま」
「家族を、奪われた痛みを、私が、別の家族から、奪うことで、晴らさないでください」
クリストフの、青い瞳が、長く、リーシェを、見ていた。
長く、見ていた。
そして——目を、伏せた。
「……五分が、過ぎました」
彼は、立ち上がった。
「お話は、ここまで、と、いたしましょう」
羊皮紙を、まとめて、ハインツに、渡した。
「ハインツ。儀式は、行わない」
「殿下」
「行わない、と、申している。今日のところは、引き返す」
「承知、いたしました」
クリストフは、リーシェに、深く、頭を、下げた。
「失礼、いたしました」
「いえ」
「半身さまの、意志は、確かに、伺いました」
「はい」
「また、いずれ、お会いいたしましょう」
彼は、応接間を、出ていった。
ハインツが、後を、追った。両手の指先のインクが、まだ、黒く、染みついていた。
◇
葬儀は、穏やかに、執り行われた。
エルヴァードの、棺の、前で、リーシェは、深く、頭を、下げた。
「ありがとうございました」
声を、絞り出した。
「アルトを、護ってくださって、ありがとうございました」
涙が、棺の、上に、落ちた。
ゼルヴァーンも、隣で、頭を、下げた。リーシェの家族の、家族に、向かって。
◇
夜。
邸の、リーシェの、かつての部屋に、彼女は、戻った。
十七年間、過ごした部屋。一度も「おかえり」と言われなかった部屋。
しかし、その夜、その部屋の、ベッドの上には——アルトが、丸まって、眠っていた。
起きていた。リーシェの帰りを、待っていた。十二歳が、必死で、起きていて、しかし、待ちきれずに、寝てしまった、姿勢で。
リーシェは、彼の隣に、座った。彼の頭を、撫でた。
ゼルヴァーンが、扉口に、立っていた。
「邪魔は、しない」
「いえ」
「弟を、頼んで、いいか」
「もちろんです」
「明日、城に、帰ろう」
「アルトも、連れて、帰ります」
「ああ」
「五人で、暮らします」
「ああ」
ゼルヴァーンが、笑った。
扉が、閉まった。
リーシェは、アルトの、隣で、横になった。弟の、すぐ隣で、目を、閉じた。
心臓の上で、銀のロケットが、もう、揺れなかった。
◇
同じ夜。
王都へ、戻る、馬車の中。
クリストフが、母のロケットを、握っていた。
「母上」
彼は、囁いた。
「あの少女は、私の母を、奪っていません」
「はい、殿下」
「私の母を、奪ったのは——千年前から、続く、別の、ものです」
「は」
「私が、戦うべき相手は——」
彼は、ロケットを、開けた。母の、肖像。
「半身では、なかった、かも、しれません」
長い、沈黙。
ハインツが、隣で、ペンを、走らせていた。
「殿下。儀式は、本当に、封じますか」
「いや」
「では」
「方向を、変える」
「と、申されますと」
「半身を、断つ、儀式ではなく——」
クリストフは、目を、上げた。
青い瞳が、馬車の窓の、外を、見た。
「千年前の、真相を、調べる、儀式に、変える」
ハインツが、ペンを、止めた。
「殿下。それは——」
「ああ」
「危険、です」
「ああ」
「千年前の、真相を、知った者は、皆——」
「死んでいる」
「はい」
「構わない」
馬車が、走り続けた。
夜空に、二つの月が、欠け始めていた。
◇
千年前と、同じことが、繰り返されようと、していた。
半身が、力を使った。
魔王が、跪いた。
王太子が、儀式の手順を、手にした。
千年前と——同じ、ことが。
◇
ただし。
千年前と、決定的に、違うことが、ひとつ、あった。
今度の、半身は——。
消えるつもりが、まったく、なかった。
お読みいただき、本当に、本当に、ありがとうございました。
第4章「盟約」、完結です。
第1部、ここに、完結いたします。
「私には、五人の家族が、います」
「家族から、消えることは、ありません」
リーシェが、自分の言葉で、千年の儀式を、止めました。
クリストフが、矛先を、変えました。
半身を断つ、ではなく——千年前の真相を、知る、方向へ。
そして、ナディアの言葉を借りて、リーシェがクリストフの母を、見抜きました。
あの男にも、家族を、失った過去が、ありました。
第1部の、はじまりは——
「お前でちょうどよかった」と言われた少女でした。
第30話の、終わりは——
「家族から、消えることはありません」と言える、半身、でした。
三十話分の、旅路に、お付き合いいただき、本当に、ありがとうございました。
ブックマーク、評価、感想、レビュー——一つひとつが、月を、満たしてくれました。
第2部「真相」は、リーシェがアルトと共に、千年前の謎へ、踏み込んでいきます。
クリストフは、敵か、それとも——。
ゼルヴァーンが、千年前の自分自身と、再会します。
第2部、しばしの、お休みをいただいたのち、再開いたします。
お時間がありましたら、第1部を、はじめから、読み返していただけたら、嬉しいです。
今読むと、伏線の、見え方が、変わっています。
「ここまで読んでよかった」と、思っていただけたなら——
レビューを、一通だけ、お願いできましたら、私の、千年分の、励みに、なります。
花は、嵐でも、咲きます。
この物語の、花も、これから、嵐の中で、咲き続けます。
蒼空ルーシェ
——第1部「盟約」 了——




