第28話 盟約
その夜、リーシェは、ナディアに、髪を、結ってもらった。
夜会のためではない。式典のためでもない。ただ、月の庭園に、行くためだけに。
「半身さま。本当に、お加減は」
ナディアの声が、心配で、震えていた。
「大丈夫です」
「無理を、なされていませんか」
「ただ歩くだけです。月を、見に」
「はい」
ナディアの手が、リーシェの髪に、白い花を、一輪、挿した。
「あの方も」
彼女が、ぽつりと、言った。
「あの方も、最後の夜、白い花を、挿しておられました」
リーシェは、鏡の中の、自分を、見た。
「ナディアさん。今夜の私は、消えませんよ」
ナディアの目に、涙が、浮かんだ。
「はい」
「一緒に、明日の朝食を、いただきましょう」
「はい、半身さま」
「蜂蜜菓子は、十二個、また作ります」
「はい——」
ナディアは、言葉を、続けられなかった。ただ、深く、頭を、下げた。リーシェの背中に、両手をあてて、長く、頭を下げていた。
◇
月の庭園は、満月の光の中で、青く、光っていた。
二つの月のうち、欠けていたほうの月が、その夜、完全な、満月になっていた。千年ぶりだった。
ゼルヴァーンが、待っていた。
黒の長衣。風で、裾が、揺れていた。金の瞳が、リーシェを、見つけた瞬間、息を、吸った。
「リーシェ」
「お待たせしました」
「歩けるか」
「歩けます」
「途中で、辛くなったら、言ってくれ」
「はい」
彼女は、彼の元へ、歩いた。一歩ずつ、確かめるように。月光の中の、花の道を、踏んで。
彼の前で、立ち止まった。
「来てくれた」
「来ました」
「ありがとう」
「いえ」
ゼルヴァーンが、深く、息を、吸った。
「では、まず——千年前の話を、しよう」
◇
「彼女の名前は、ローシェといった」
ゼルヴァーンは、月を、見ていた。リーシェではなく、月を。
話しやすい方を、選んでいた。
「君と、似た名前だ。意味は、確か——花、と、光、で、ローシェ」
「リーシェは、星と、光、でしたね」
「ああ。似ているが、違う」
「はい」
「彼女が——千年前の、僕の半身だった」
風が、吹いた。庭園の花が、揺れた。
「彼女と僕は、対だった。世界の循環の、対。彼女が花を咲かせ、僕がその力を、世界に、配る。二人で一つの、機能だった」
「機能、ですか」
「ああ。最初は」
「最初は、ですか」
「ああ。最初は、ただの機能だった。しかし——年月が、経つうちに、僕は、彼女を、好きになった」
ゼルヴァーンの声が、少し、低くなった。
「彼女も、僕を、好きになってくれた、と、思う」
「そう、ですか」
「ああ」
長い、沈黙。
「人間と魔族の、戦いが、激しくなった。停戦条約の、千年前だ。あの頃、戦は、ひどかった。半身の力が、戦場の傷を、癒し続けた。彼女は、止まらなかった。止めようとした。でも、止まらなかった」
「止めようと、なさったのですね」
「した。何度も。しかし、彼女は、笑って、こう、言った。『私を、止めないでください。これが、私の意志です』」
リーシェの心臓が、跳ねた。
その言葉は——いつか、自分が、口にした言葉と、似ていた。
「……同じ、ですね」
「ああ。同じだ」
「私と」
「同じだ」
「ゼルヴァーンさま、私は——」
「最後まで、聞いてくれ」
「はい」
◇
「彼女は、力を、使い続けた。戦が終わるまで、と。停戦条約が、調印されるまで、と。そして——条約が、結ばれた、その夜」
彼の声が、わずかに、震えた。
「彼女は、最後の力を、世界に、放った。大陸全土に、花が咲いた。それは、美しかった。今でも、目に、焼き付いている」
「はい」
「彼女が、僕の方を、振り向いた。笑っていた。何かを、言おうとした。僕は——彼女に、近づこうとした。手を、伸ばした」
ゼルヴァーンは、目を、閉じた。
「届く前に、彼女は、消えた」
リーシェの目から、涙が、一粒、落ちた。
「僕の手は、空を、掴んだ。最後の言葉は、聞こえなかった。聞こえる、はずだった。聞こえるべき、距離だった。でも、間に合わなかった」
「ゼルヴァーンさま」
「それから、千年。誰にも、触れられなくなった。触れた瞬間に、消えてしまうのではないかという恐怖が、千年、僕の手を、空中で、止め続けた」
「……はい」
「君に、出会うまで」
◇
ゼルヴァーンが、リーシェを、見た。
金の瞳に、月光が、映っていた。
「ナディアが、最後の言葉を、聞いていた」
「『次は、消えない』」
「ああ」
「ナディアさんが、教えてくれました」
「ああ」
「ゼルヴァーンさま」
「うん」
「私が、その『次』、ですか」
ゼルヴァーンの目が、揺れた。
「……そうかも、しれない」
「私には、千年前の記憶は、ありません」
「わかっている」
「それでも」
「うん」
「あの夜、消えなかった、と、私が、言ってあげたい」
「リーシェ」
「あなたが、千年、その手を、空中で、止めていたなら——」
彼女は、自分の左手を、ゆっくり、ゼルヴァーンの方へ、伸ばした。
「もう、止めなくて、いいです」
ゼルヴァーンが、息を、止めた。
千年止まっていた手が、ゆっくり——本当に、ゆっくり、リーシェの方に、動いた。
しかし、止めなかった。
今度は、止めなかった。
彼の手が、彼女の手に、触れた。
空中で、止まらずに、触れた。
千年で、初めて——彼が、自分から、半身の手に、たどり着いた。
◇
ゼルヴァーンが、その手を、握ったまま、地面に、跪いた。
最初の夜の、再現だった。
あの夜、城の広間で、彼は、リーシェの足元に、跪いた。涙を、流していた。「千年待った」と、言った。
今夜、彼は、月の庭園で、跪いた。涙は、なかった。代わりに——笑っていた。
千年ぶりの、本当の、笑顔だった。
「リーシェ」
「はい」
「魔族の、古い、儀式がある。盟約という。形式ではない。ただ、互いに、誓うだけだ。世界に、刻むだけだ。——僕は、君を、選ぶ」
「はい」
「君は、どうか」
彼女は、跪いた彼を、見下ろしていた。最初の夜と、同じ構図だった。半身が立ち、魔王が跪く。同じ構図で——同じ誓いを、しかし、違う温度で。
「私も」
彼女は、答えた。
「私も、あなたを、選びます」
「ありがとう」
ゼルヴァーンが、彼女の手を、両手で、包んだ。
「千年の孤独は——君に、会うための、道だった」
月光が、二人の手の上に、落ちていた。
「僕の半身、僕の光。どうか、傍にいてくれ」
「ここにいます」
彼女は、答えた。
「もう、どこにも、行きません」
◇
その瞬間。
風が、吹いた。
強くも、弱くもない、ただの、夜風だった。
しかし——その風が、リーシェの髪を、ほんの一筋、ほどいた。ナディアが結んだ、白い花の、すぐ脇から、一筋だけ。
その一筋が、ゼルヴァーンの額に、触れた。
ほんの、一瞬。
ゼルヴァーンの目が、見開かれた。
千年前のローシェが、最後に、伸ばした手の、距離だった。
届かなかった、距離。
今、届いた。
「……ああ」
ゼルヴァーンの声が、漏れた。
リーシェは、その髪を、直そうとは、しなかった。ただ、彼の額に、触れたまま、笑っていた。
「届きました」
「ああ」
「届きましたよ、ゼルヴァーンさま」
「ああ。届いた」
彼の手が、彼女の手から、離れた。
離れて——彼女の頬に、添えられた。両手で。千年の、躊躇いを、すべて、捨てて。
彼女は、その手の、一方に、自分の手を、重ねた。
もう、誰の手も、空中で、止まっていなかった。
◇
その瞬間。
月の庭園が、咲いた。
リーシェが、咲かせたのではない。誰が、咲かせたのかも、わからなかった。ただ——盟約が、結ばれた、その瞬間に、月の庭園の、すべての花が、一斉に、開いた。
白も、青も、薄紅も、見たことのない、銀色の花も。
ゼルヴァーンと、リーシェは、その花の中で、立っていた。
二人は、何も、言わなかった。
言わずに、ただ、互いの目を、見ていた。
◇
遠く、城の窓辺で、ナディアが、それを、見ていた。
彼女の、頬を、涙が、伝った。
声を、出さずに。
「……よかった、ですね」
誰にも聞こえない声で、千年前の名前に、向かって、彼女は、言った。
「ローシェさま。次の半身は——消えませんでしたよ」
デミウルゴが、隣に、立っていた。
眼鏡を、外していた。
「言うな、ナディア」
いつもの、二語。しかし、声が、震えていた。
「言わずに、見ていろ」
「はい」
二人は、月の庭園の、咲き乱れる花を、長く、見ていた。
お読みいただき、本当に、ありがとうございました。
千年前のローシェの、最後の手の、距離が——
リーシェの、髪の一筋に、届きました。
ゼルヴァーンが、千年ぶりに、笑顔で、跪きました。
リーシェが、笑顔で、彼を、選びました。
盟約は、結ばれました。
月の庭園の、すべての花が、咲きました。
そしてナディアが、千年前の半身ローシェの名前に向かって、
「次の半身は、消えませんでしたよ」と、囁きました。
——けれど。
この夜、グランハイド領の執事エルヴァードが、亡くなりました。
アルトが、二人目の家族を、失いました。
リーシェは、まだ、知りません。
次話、第29話「帰り道」。
盟約の、翌朝。
椅子を引かれ、手を繋がれ、おはようと言われる、初めての朝。
そして、初めての、嵐の予兆。
ブックマーク・評価・感想、本当に、ありがとうございます。
盟約を結んだ二人に、☆ひとつ、お祝いの、お力添えを。
花は嵐でも咲きます。
盟約を結んだ夜の花は、きっと、嵐の中でも。
蒼空ルーシェ




