第27話 代償
リーシェが、倒れたのは、月の庭園だった。
◇
その朝、リーシェは、いつもより、早く、目を覚ました。
胸騒ぎが、あった。
なぜか、わからない。ただ、何かを、咲かせたかった。たくさん。広く。これまでにないほど、広く。
彼女は、庭に、出た。
ゼルヴァーンは、まだ、執務室にいた。
花は、彼女の足元から、波のように、広がっていった。月の庭園の外周を越えて、城下の城壁の方まで。家々の屋根の隙間に、白い花が。子供たちが歩く小道に、青い花が。
光が、走った。
いつもより、強く。いつもより、遠くまで。
リーシェの、左手の指先が、痺れていた。
もう少し、と、彼女は、思った。
もう少しだけ。北の三州まで。届けば、子供たちが——
視界が、暗転した。
◇
ゼルヴァーンが、駆けつけた時、リーシェは、花の上に、倒れていた。
咲いた花の上に。自分が咲かせた花の上に。
彼は、躊躇わなかった。
千年の、躊躇いを、その朝、すべて、捨てた。
膝をついた。両手で、彼女を、抱き上げた。彼女の体は、軽かった。あまりにも、軽かった。冷たかった。冷たすぎた。
「リーシェ」
彼は、声を、絞り出した。
「リーシェ」
返事は、なかった。
彼の腕の中で、彼女の頭が、彼の胸に、もたれかかった。心臓の、すぐ上に、銀のロケットが、揺れた。
弟の、押し花の、ロケットだった。
ゼルヴァーンの目から、何かが、落ちた。
千年、流していなかったものが、彼自身も気づかないうちに、頬を、伝った。
◇
ナディアが、診ていた。リーシェの、ベッドの脇で。
ナディアの手が、震えていた。
千年仕えている彼女の手が、こんなに震えるのを、デミウルゴは、初めて、見た。
「ナディア」
「……はい、デミウルゴさん」
「診断は」
「半身さまの——力の、使いすぎ、です」
デミウルゴが、眼鏡を、直した。
「具体的には」
「半身の力は、ご自身の生命力を、消耗します。少しずつ、削り取られていく。今回は——一度に、削りすぎました」
「命に、別状は」
「今夜を、越えれば」
ナディアが、震える手を、握りしめた。
「越せれば、と、思います」
ゼルヴァーンは、ベッドの脇の椅子に、座っていた。リーシェの右手を、両手で、包んでいた。冷たい指先が、彼の手の中で、ゆっくり、温まっていた。
ナディアは、ゼルヴァーンを、見なかった。直視できなかった。
そして、小さな声で、言った。
「千年前と、同じ、です」
ゼルヴァーンが、目を、閉じた。
長く。
「あの方も、こうして、倒れました」
ナディアが、続けた。
「最後の朝、力を、使いすぎて」
千年前の、半身。
リーシェの、見たことのない、もう一人。
「ナディア」
「はい、陛下」
「あの時——」
「はい」
「君は、そばに、いた、か」
「いました」
「では、君が、聞いていたんだな」
「何を、でしょうか」
「最後の、言葉を」
ナディアの目に、涙が、にじんだ。
「……はい」
「教えてくれ」
「『次は、消えない』と」
ゼルヴァーンが、目を、開けた。金の瞳が、揺れていた。
「次は」
「『次に生まれた時には、消えない。あなたを、一人にしない』と。——そう、申されました」
ゼルヴァーンが、リーシェの手を、握る力を、強めた。
強めて——緩めた。怖くて、緩めた。
「……次は、消えない、か」
「ええ」
「では、これは——」
「次、なのかも、しれません」
長い、沈黙。
窓の外で、月が、出始めていた。
◇
夜更けに、リーシェが、目を、開けた。
「……ゼルヴァーンさま」
声が、かすれていた。
ゼルヴァーンが、瞬時に、彼女の顔の方に、屈み込んだ。
「リーシェ」
「すみません」
「すまないのは、僕の方だ」
「私が、無理を」
「君が、無理をしたのは——僕が、君に、何かを、隠してきたからだ」
リーシェが、彼を、見上げた。
「隠して、きたこと」
「ある」
「『喪失』の、章の、続き、ですか」
「ああ」
ゼルヴァーンは、彼女の枕元の、机の上を、見た。
半身の本が、開かれていた。
倒れる前夜、リーシェは、もう一度、開いていた。「喪失」の章を、最後まで。
『——半身は、力を使うほどに、自らの命を削る。対の支えなく、循環を一人で担うとき、半身は——消える』
最後の、文字は、消える、だった。
リーシェは、それを、読み終えた、上で、今朝、力を、使った。
知った上で、使った。
「……知っていて、使ったのか」
ゼルヴァーンの声が、震えていた。
「リーシェ」
「すみません」
「なぜ」
「弟がいるんです」
彼女は、囁いた。
「グランハイド領の、孤児院の、子供たちにも、もしかしたら、私みたいに、ねえさまと呼んでくれる弟が、いるかもしれません」
ゼルヴァーンが、目を、伏せた。
「それは、君が、義務でやることでは、ない」
「義務、ではないです」
「では——」
「意志です。私の」
「リーシェ」
「ただ、加減を、間違えました。次は、間違えません」
「次、と言うな」
「言います」
「リーシェ」
「次、必ず、間違えません」
ゼルヴァーンが、彼女の手を、自分の額に、あてた。
ぎゅっと、押し付けるように。
「君を、失いたくない」
「失いません」
「千年前と、同じには、ならせない」
彼女は、言った。
「ゼルヴァーンさま。この先は——あなたに、聞きたいです」
◇
ゼルヴァーンは、長く、黙っていた。
それから、頷いた。
「明日」
「明日、ですか」
「明日、夜。月の庭園で——話す」
「はい」
「千年、誰にも、話さなかったことを」
「はい」
「君に、初めて、話す」
「はい」
「ただし——」
彼は、彼女の手を、両手で、包んだ。
「話したあとに、君に、頼みがある」
「頼み」
「ある」
「何でしょう」
ゼルヴァーンは、深く、息を、吸った。
「……盟約を、結ばせてほしい」
リーシェの目が、わずかに、見開かれた。
心臓の上で、銀のロケットが、揺れた。
「盟約」
「魔族の、古い、儀式だ。形式ではない。ただ——君が、僕を選んでくれたことを、この世界に、刻みたい」
「刻む」
「ああ」
「断たれないように」
「断たれないように」
彼女は、笑った。
笑顔が、まだ、弱々しかったが、確かに、笑った。
「お受けします」
「……ああ」
「明日の、夜に」
「ああ」
◇
明け方、ゼルヴァーンは、ベッドの脇で、まどろんでいた。
リーシェの右手は、彼の両手の中で、温かかった。
窓の外で、二つの月が、ほとんど、満月になっていた。
◇
同じ夜。
王都。
ハインツが、グランハイド領に、伝令を、放った。
翌日には、グランハイド公爵邸の、執事エルヴァードが、突然の事故で、亡くなる。
アルトの、二人目の、家族が——。
しかし、リーシェは、まだ、知らない。
知らないまま、満月の下で、眠っていた。
お読みいただきありがとうございます。
リーシェが、倒れました。
ゼルヴァーンが、千年ぶりに、涙を、流しました。
ナディアが、千年前の、最後の言葉を、伝えました。
「次は、消えない」
——次が、来ました。
そしてリーシェは、知った上で、力を、使いました。
弟のために。孤児院の子供たちのために。
意志で。
明日の夜、月の庭園で、ゼルヴァーンが、話します。
千年、誰にも、話さなかったことを。
そして——盟約を、結びます。
ですが王都では、ハインツが、伝令を、放ちました。
グランハイド領で、執事エルヴァードが、明日、亡くなります。
アルトから、二人目の家族が、奪われます。
次話、第28話「盟約」。
第4章の、感情の、頂点です。
月光の庭園で、千年が、ようやく、ほどけます。
ブックマーク・評価・感想、心よりお願いいたします。
次は消えない、と誓った半身に、☆ひとつ、お力添えを。
蒼空ルーシェ




