第26話 窓の向こう
リーシェが、ロケットを、開けて、ゼルヴァーンに、押し花を、見せた。
「弟は、どんな子だ」
ゼルヴァーンが聞いた。
二人は、月の庭園のベンチに、座っていた。夕方の風が、花を揺らしていた。
「優しい子です」
リーシェが、答えた。
「十二歳で、よく泣く子です。私のために、よく泣いていました。お父さまが、私を、無視するたび、お母さまが、私の話をしないたび、お兄さまが、私を、いない人として扱うたび——アルトは、私の知らないところで、泣いていたみたいです」
「君のために」
「はい」
「いい弟だ」
「私の、唯一の、家族でした」
ゼルヴァーンが、わずかに、視線を、揺らした。
「でした、か」
「ええ。今は」
彼女は、ロケットを、握った。
「あなたが、家族です」
ゼルヴァーンが、息を、吸った。
千年生きた魔王が、簡単な言葉に、息を、止めた。
「リーシェ」
「はい」
「君は——」
言いかけて、止まった。
彼の右手が、リーシェの隣の、ベンチの座面に、置かれた。リーシェの左手の、すぐ近くに。触れない。けれど、近い。
風が、吹いた。
リーシェの左手が、ほんの少しだけ、動いて——彼の小指に、触れた。
ゼルヴァーンは、引かなかった。
ただ、その小指が、ほんのわずかに、リーシェの小指に、絡まった。
千年で、初めて、二人の手が、自分から、絡まった。
夕日が、二人の手の上に、落ちていた。
◇
「いい家族だな」
ゼルヴァーンが、言った。
「うちは、四人です」
「四人」
「はい。ゼルヴァーンさまと、デミウルゴさんと、ナディアさんと、私」
「デミウルゴは家具では」
「家具は家族です」
「家族か」
「家族です」
ゼルヴァーンが、わずかに、笑った。
その小指は、まだ、絡まっていた。
◇
夜。
月の庭園が、静まっていた。リーシェは、部屋に戻り、眠っていた。
ゼルヴァーンは、執務室で、書類を、見ていた。
城は、穏やかだった。
◇
同じ夜。
王都。クリストフの執務室。
燭台が、一本だけ、灯っていた。
クリストフは、机の引き出しを、開けていた。
中から、小さなロケットを、取り出した。銀の、古い、彼自身の手のひらに収まる、小さなロケット。
開いた。
中には、女性の、肖像が、入っていた。
若い女性だった。金色の髪。深い青の瞳。クリストフによく似た、面差し。優しい、笑みを、浮かべていた。
母の、肖像だった。
彼は、じっと、見つめていた。
動かなかった。
何も、言わなかった。
時計が、二度、鳴った。
彼は、ロケットを、閉じた。
握りしめた。
窓の方を、向いた。
窓の外。雨が、降り始めていた。
遠く、魔王城の、方角。
彼は、長く、そこを、見ていた。
時計が、もう一度、鳴った。
彼は、ロケットを、机の上に、置いた。
燭台の炎を、消した。
部屋が、暗くなった。
暗い部屋で、彼は、もう一度、窓の外を、見た。
窓の向こうに、何が、見えているのか。
彼にしか、わからなかった。
◇
扉が、控えめに、叩かれた。
「殿下」
ハインツの、声だった。
クリストフは、答えなかった。
しばらくの、沈黙。
ハインツが、もう一度、ノックした。
「殿下。グランハイド領から、第一報が、届きました」
クリストフが、燭台に、新たに、火を、灯した。
「入れ」
ハインツが、入ってきた。両手の指先のインクが、燭台の光で、黒く、はっきりと、見えた。
「アルト・グランハイドの、現在の動きを、報告いたします」
「読め」
ハインツが、報告書を、開いた。
「アルト・グランハイドは、十二歳。公爵家の末弟。最近、執事の、エルヴァードと、頻繁に接触している。執事の私室に、夜中に、何度も、出入りしている。何かを、調べている様子」
「何を、調べている」
「不明です。ただ、図書室の、半身関連の、本が、最近、何冊か、移動しています」
「移動」
「はい。隠されています、おそらく、アルトによって」
クリストフの、目が、わずかに、動いた。
「あの子は、何かを、知ろうとしているのか」
「あるいは、姉のために」
「姉のために」
クリストフが、ロケットの上に、手を、置いた。
「……あの少女には、本当に、味方が、多い」
ぽつりと、言った。
「公爵家の、要らない娘、だったはずなのに」
ハインツが、答えなかった。
「ハインツ」
「はい」
「あの少年を、揺さぶれ。ただし、殺すな」
「殺さない、揺さぶり、と申されますと」
「家族を、奪う」
ハインツの、ペンを持つ手が、止まった。
「家族、ですか」
「あの少年は、姉を奪われた。今度、もう一人、奪われたら——あの少年は、姉を、必死で、呼び戻そうとする。手紙で。何度でも。『姉上、帰ってきてください』と。家族の、悲鳴で」
ハインツは、答えなかった。
長く。
「……承知しました」
ハインツが、退出した。
残されたクリストフは、ロケットを、もう一度、開けた。
母の、肖像。
彼は、その肖像に、向かって、囁いた。聞こえないほど、小さな、声で。
「母上」
ロケットの中の、母は、笑っていた。
「私は、もう、あの過ちを、繰り返しません」
雨音が、強くなっていた。
「あの少女からは——母を、奪わない代わりに、家族を、奪います」
彼は、ロケットを、閉じた。
「私の母を、誰も、返してくれなかったように——あの少女にも、誰も、返さない」
燭台の炎が、揺れた。
窓の外で、雨が、降り続いていた。
◇
雨の音は、王都にだけ、降っていた。
魔王城には、月が、出ていた。
穏やかな、月夜だった。
リーシェは、眠っていた。ロケットを、心臓の上に、置いて、眠っていた。
まだ、知らなかった。
弟が、もうすぐ、もう一人の家族を、失うことを。
知らずに、穏やかに、眠っていた。
お読みいただきありがとうございます。
クリストフの、初めての、内側を、お見せしました。
台詞は、母への囁き、たった、二言。
「私は、もう、あの過ちを、繰り返しません」
「私の母を、誰も、返してくれなかったように——あの少女にも、誰も、返さない」
この男にも、過去があります。
それが、なぜ、半身の力を、欲しがるのか。
全貌は、まだ、お見せできません。
しかし、彼は、決めました。
リーシェの弟アルトから、家族を、奪うことを。
——アルトの周りには、もう一人、家族のように、彼を護っている人がいます。
執事の、エルヴァードです。
彼の名前を、覚えておいてください。
次話、第27話「代償」。
リーシェが、倒れます。
そしてゼルヴァーンが、初めて、千年前のことを——話します。
ブックマーク・評価・感想、心よりお待ちしております。
ロケットを握るクリストフに、☆ひとつ、お慈悲を。
蒼空ルーシェ




