第25話 私はここに残ります
「人間の民が、半身さまを、お待ちしております」
使者は、深く、頭を下げて言った。
その言葉が、リーシェの胸に、刺さった。
◇
使者は、王太子の私的な代理として、魔王城を訪れた。クリストフ自身ではなかった。穏やかな、白髪まじりの老紳士だった。礼儀は完璧、声は柔らかく、目は——疲れていた。
応接間。
ゼルヴァーンが上座。リーシェがその隣。デミウルゴが壁際。
使者が、書状を読み上げた。
「『人間と魔族の停戦条約より、千年。半身という存在は、その代償の上に、今、芽吹こうとしています。我々は半身さまの帰還を求めるものではありません。ただ、年に一度、人間の大地にも、その恩恵を分けていただきたい。これは要請ではなく、お願いです』」
使者は、書状を畳んだ。
「半身さま。これは、王太子殿下のお言葉であると同時に——人間の、孤児院の子供たちの、声でもあります」
孤児院。
その言葉も、刺さった。
リーシェの故郷の街にも、孤児院があった。グランハイド領の、北のはずれの方の。冬になると、子供たちが凍えると、洗濯係のエミルが言っていた。父母を持たない子供たち。家族を持たない子供たち。——リーシェのように。
「人間の大地は、痩せてゆきます。北の三州では、今年の麦が、半分しか実りませんでした。子供たちは、冬を越せるかわかりません。半身さまの花が、もし、年に一度でも、それらの大地に届くなら——」
使者は、頭を下げた。深く。額を床にすりつけるほど、深く。
「老人の、私からの、お願いです。子供たちのために」
応接間が、静まった。
◇
ゼルヴァーンは、何も言わなかった。
怒りではなかった。彼は、リーシェに、選択を、委ねていた。
決めるのは、私だ、と——リーシェは思った。
「……お顔を、上げてください」
声が、少し、震えていた。
使者が、ゆっくり、顔を上げた。
「ありがとうございます、半身さま」
「お話は、わかりました。少し、考えさせてください」
「もちろんでございます」
「明日の朝、お返事をいたします」
「お待ち申し上げます」
使者が、退出した。応接間に、二人と、デミウルゴが、残された。
ゼルヴァーンは、リーシェの方を、見なかった。
ただ、机の上の、書状を、長く、見つめていた。
◇
夜。
リーシェの部屋。
窓辺で、彼女は、押し花を、手のひらに、置いていた。弟の、アルトの、押し花。十七年間で、たった一人、彼女を「ねえさま」と呼んだ少年の、贈り物。
使者の言葉が、ぐるぐる回っていた。
北の三州。麦の不作。冬を越せない子供たち。
もし——本当に、あの花の力が、人間の大地にも届くなら。あの孤児院の子供たちが、来年の冬を、越せるなら。
義務、ではなく、誰かを、助けられるなら。
彼女は、押し花を、ぎゅっと、握った。
握ってから——気づいた。
左手で、握っていた。
左手の癖。お父さんの言葉が痛かった日も。馬車に乗った時も。月の庭園の夜も。彼女は、いつも、左手で何かを、握っていた。
今は、何を、握っているのか。
花、だけではなかった。
◇
扉が、控えめに、叩かれた。
「リーシェさま」
ナディアの、声だった。
「お休みのところ、申し訳ございません。お手紙が——届きました」
リーシェは、扉を、開けた。ナディアが、白い封筒を、両手で、差し出した。
「グランハイド公爵家からの、と。配達の使者が、暗くなる前に持ってきまして」
「公爵家——」
「差出人は、御弟君、と」
心臓が、跳ねた。
封を、急いで、切った。
中には、震える筆跡で、こう、書かれていた。
『姉上。
お元気ですか。
ぼくは、元気です。
公爵家のことで、すこし、動いています。
くわしくは、まだ書けません。
でも、大丈夫です。
花弁は、まだ、持っています。
ねえさまにいただいた、花弁です。
はやく、お会いしたいです。
アルト』
短い手紙だった。
子供の字だった。十二歳が、必死に、大人っぽく書こうとした字だった。誤字を、何度も書き直した跡が、紙の裏から、透けて見えた。
リーシェの目から、涙が、一粒、落ちた。手紙の上に、染みた。
「ねえさま」
自分のことを、そう呼ぶ声が、世界に、まだ、ある。
「ねえさま」
彼女は、口の中で、呟いた。
決めた。
◇
翌朝。
応接間。使者が、深く頭を下げて、立っていた。
リーシェは、上座の隣に、座った。ゼルヴァーンが、その隣に、いた。
「お返事を、申し上げます」
リーシェは、口を開いた。
声は、震えていなかった。
「私は、ここに、残ります」
使者が、顔を、上げた。
穏やかな顔。しかし、目の奥に、わずかな、揺れが、あった。
「半身さま——」
「最後まで、お聞きください」
「は、はい」
リーシェは、続けた。ゆっくりと。一語一語、自分の声で。
「人間の大地が痩せていることは、わかりました。子供たちが冬を越せない、ということも、わかりました。私の故郷にも、孤児院があります。その子供たちのことを、私は、忘れていません」
「は、はい」
「ですから、人間の大地に、花を咲かせること——それを、私が、しないとは、申しません」
使者の目が、明るくなりかけた。
「ただ」
しかし、リーシェは、続けた。
「ただ、私が花を咲かせるのは、義務として、ではありません」
使者が、息を、止めた。
「義務で誰かを救うことを、私は、しません。なぜなら——」
彼女は、自分の左手を、見た。
「私は、十七年間、義務として愛されようとしてきました。父に、母に、家族に。義務として認めてもらおうとして、義務として褒められようとして——一度も、手に、入りませんでした」
応接間が、静まった。
「義務で愛されたことなら、十七年、ありました」
彼女は、顔を、上げた。
「だから今、私は——意志で、愛したいんです」
使者は、何も、答えられなかった。
「人間の大地に花が必要なら、私は、私の意志で、咲かせに行きます。義務でも、要請でも、合議の決定でも、ありません。私が、咲かせたいと思った時に、咲かせに行きます。それを、王太子殿下に、お伝えください」
「……承知、いたしました」
「もうひとつ」
「は、はい」
「私は、ここに、残ります。これは決定ではありません。私の——意志です」
使者は、深く、頭を下げた。
頭を下げる、その目に——わずかに、安堵が、あった。
彼自身は、おそらく、これを、伝えるために、来たのだった。義務で動く少女が、もし、いてくれるなら。それは——大人の、汚い計算だった。
彼が出て行ったあと、応接間に、ゼルヴァーンと、リーシェが、残された。
「リーシェ」
「はい」
「君は、僕の歯止めだと、昨日言った」
「はい」
「今日は——僕の、誇りだ」
リーシェが、笑った。
「誇りは、初めての二つ名です」
「ああ」
「歯止めの、一段、上ですね」
「ああ」
◇
その日の、午後。
リーシェは、城下の、小さな金細工師のもとへ、向かった。デミウルゴが手配した、魔族の老人の店だった。
四本指の、銀髪の老人だった。白い髭が、四つに、編まれていた。
「半身さま。ご注文は」
「ロケットを、お願いしたいんです」
「ふむ」
彼女は、押し花を、机の上に、置いた。
「これを、入れられる、小さなロケットを」
老人は、押し花を、長く、見た。
「これは——大切な、花でございますね」
「はい」
「では、銀で、お作りいたしましょう」
「銀、ですか」
「はい。銀は、大切なものを、護る金属です」
数日後。リーシェの首に、小さな銀のロケットが、下がった。中には、弟の押し花が、薄く、入っていた。
ゼルヴァーンが、それを、見つけて、聞いた。
「弟の、花か」
「はい」
「いつでも、近くに、いるな」
「はい。心臓の、すぐ上に」
ゼルヴァーンが、ロケットに、指先で、軽く、触れた。リーシェの胸の上で、小さな銀が、ほんの少し、揺れた。
「いい兄弟だ」
「ええ」
「いつか、会いに行こう」
その言葉に、リーシェは、頷いた。深く。
「はい」
◇
夜。
王都。クリストフの執務室。
使者の報告が、机の上に、置かれていた。
『義務では動かぬ、と申されました』
クリストフが、報告書を、読み終えて、目を閉じた。
目を、開けた。
穏やかな、顔だった。
「義務では、動かぬ、か」
呟いた。
「では——意志を、揺るがす方を、急ごう」
ハインツが、隣で、書類を整理していた。
「殿下。儀式の解読は、八割を、終えました」
「あと二割は」
「儀式に必要な、半身の意志の、揺るがし方です」
「具体的には」
「最も大切なものを、奪うこと」
クリストフは、目を、伏せた。
「弟か」
「弟、ですか」
「あの少女が、最も大切にしているのは——弟だ」
ハインツは、何も、言わなかった。
「グランハイド領に、人を、送れ」
「承知いたしました」
「殺すな」
「は」
「殺すな、と申している。揺さぶるだけだ」
「揺さぶるだけ、ですか」
「ああ。あの少女の、意志を、揺るがすには——弟が、生きていて、苦しんでいる、状態が、最も、効く」
ハインツは、頷いた。一礼して、部屋を、出ていった。
残されたクリストフは、机の引き出しを、開けた。
小さな、銀のロケットが、入っていた。母の、形見の。
彼は、それを、ぎゅっと、握った。
長く、握っていた。
◇
同じ夜。
魔王城。リーシェが、自分のロケットを、握っていた。
心臓の、すぐ上で。
お読みいただきありがとうございます。
「義務で愛されたことなら、十七年、ありました」
「だから今、私は——意志で、愛したいんです」
リーシェが、自分の言葉で、未来を、選びました。
弟アルトからの手紙が、彼女の左手に、届きました。
銀のロケットが、心臓の上に、下がりました。
——しかし。
クリストフが、最も卑劣な手を、選びました。
弟を、揺さぶれ、と。
彼自身も、ロケットを、握っていました。母の形見の。
次話、第26話「窓の向こう」。
クリストフという男の、内側を、初めてお見せします。
台詞は、ほとんどありません。
ただ、ロケットと、窓と、月光だけです。
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意志で愛したい少女に、☆ひとつ、お願いいたします。
蒼空ルーシェ




