第24話 二人の王
二人は、初めて、声を荒げた。
◇
翌朝。執務室。
ゼルヴァーンの手元には、デミウルゴが朝までかけて整理した報告書があった。クリストフに同調する貴族は四名から六名に増えていた。ハインツの解読は、半分を超えた。王都では、半身を「呼び戻す」という単語が、政治の言葉になり始めていた。
ゼルヴァーンが、書類を机に置いた。
「クリストフを、消す」
短く、そう言った。
リーシェは、書類を畳んでいた手を、止めた。
「……消す、というのは」
「文字通りだ」
「殺すということですか」
「ああ」
応接間にデミウルゴはいなかった。ナディアもいなかった。二人だけだった。だから——容赦のない言葉が、出ていた。
「ゼルヴァーンさま」
「リーシェ。あの男は対話で動かない。儀式が完成すれば、君が消える。僕は——もう、君を、失えない」
「ですから」
彼女は、言った。穏やかに。しかし、まっすぐに。
「殺してはいけません」
ゼルヴァーンの目が、わずかに、見開かれた。
「リーシェ」
「あの人を殺せば、人魔関係は崩れます。停戦条約は終わります。今度はあなたが——大陸最強の魔王が、人間を屠った魔王になります」
「構わない」
「構ってください」
「リーシェ——」
「私は、暴力で守られた人にはなりたくありません」
応接間の温度が、変わった。
ゼルヴァーンが、立ち上がった。長身が、一気に立ち上がった。金の瞳が、暗く沈んでいた。
「では、君は何を望む」
「対話です」
「対話で、あの男が止まると思うのか」
「思いません」
「では、なぜ」
「でも、暴力で勝つと、私たちの方が、間違いになります」
ゼルヴァーンが、息を吸った。長く、深く。
「君を守るためなら、僕は、世界中が間違いだと言っても、構わない」
「それは——」
「それは、僕の覚悟だ。千年分の覚悟だ」
「違います」
「違わない」
「違います、ゼルヴァーンさま」
リーシェが、立ち上がった。彼の前で、まっすぐに。
「それは、覚悟ではなく——恐怖です」
ゼルヴァーンの呼吸が、止まった。
恐怖。
その単語が、胸の真ん中に、刺さった。
◇
誰も、何も言わなかった。
しばらく、二人とも、動かなかった。
それから、ゼルヴァーンが、机の書類をまとめた。
「……少し、頭を冷やしてくる」
「ゼルヴァーンさま」
「すまない」
彼は、扉に向かった。
「リーシェ」
扉の前で、振り返らずに、言った。
「君は、正しい。でも——今、聞ける僕じゃ、ない」
扉が、閉まった。
◇
応接間に、リーシェが、一人、残された。
いつかと、似ていた。
ずっと前、ゼルヴァーンが、リーシェの部屋の扉の前に、立っていたことがあった。リーシェの方が、扉の中で、声を絞り出した夜。
今度は、逆だった。
リーシェが、扉の前にいた。ゼルヴァーンが、扉の向こうにいた。
彼女は、しばらく、座っていた。深呼吸を、何度かした。冷たい右手を、左手で握った。
それから、立ち上がった。
◇
ゼルヴァーンの執務室は、城の最奥にあった。リーシェは普段、そこには入らない。彼の聖域だった。
今日は、その扉の前まで来た。
扉は、閉まっていた。中の気配は、ある。歩いているのが、わかった。
彼女は、ノックを、しなかった。
代わりに、扉に、手を当てた。
冷たい右手を、扉に当てて、声を絞り出した。
「ゼルヴァーンさま」
返事は、なかった。
「逃げないでください」
十七年、口にできなかった、お願いだった。父にも、母にも、兄たちにも、誰にも、言えなかった。
それを今——伝えたい、たった一人の人に、向かって、リーシェは、言っていた。
「逃げないで、私のことを」
返事は、まだ、なかった。
しかし、扉の向こうで、足音が、止まった。
近づいてきた。
扉の、すぐそこまで。
◇
扉が、ゆっくり、開いた。
ゼルヴァーンが、そこにいた。金の瞳が、少し、赤かった。
「……入っていいか」
彼が、聞いた。
「入って、いいかではなく」
リーシェは、笑った。少しだけ。
「出てきてください」
ゼルヴァーンが、執務室から、一歩、出た。
二人とも、廊下に立っていた。
「リーシェ」
「はい」
「君は、正しい」
「いいえ」
「いいえ、ですか」
「正しいのではなく」
彼女は、彼を、見上げた。
「私は、あなたが嫌う未来を、一緒に背負いたいだけです」
ゼルヴァーンが、目を閉じた。長く。
それから、開けた。
「……リーシェ」
「はい」
「君を、危険に晒したくない」
「はい」
「君が消えるくらいなら、世界が滅びてもいい、と——僕は、本気で思っている」
「はい」
「だから、暴力に、傾く」
「はい」
「だから、君に——止めてほしい」
彼女は、頷いた。深く。
「止めます。あなたが暴力に傾くたびに、何度でも」
ゼルヴァーンの右手が、ゆっくり、リーシェに伸びた。
止まらなかった。
頭の上に、置かれた。
千年で、初めて、リーシェの頭に、彼の手が、置かれた。
「……ありがとう」
「いえ」
「君は、僕の——」
言いかけて、止まった。半身、と続けようとした。しかし、それでは、足りない気がした。
代わりに、別の言葉が、口を、ついた。
「——歯止めだ」
リーシェが、笑った。
「素敵な、二つ名ですね」
「悪い意味じゃない」
「わかってます」
「魔王の歯止めは、世界の歯止めだ」
「重大な役職ですね」
「ああ」
「責任重大です」
「ああ」
「お給金は」
「蜂蜜菓子で」
「足りません」
「では十二個」
「上げてくれましたね」
◇
夕方。
執務室で、二人は、改めて、向き合った。
「クリストフを、殺さない」
「はい」
「殺さずに——勝つ方法を、考える」
「はい」
「正論には、正論で返す」
「私が、考えます」
「君が?」
「はい。あの人の使う言葉を、私が、自分の言葉で、返します。あなたの代わりに」
ゼルヴァーンが、リーシェを、長く、見た。
「君は——強くなったな」
「いえ」
彼女は、首を、振った。
「強くなったのではなく、知ったんです」
「何を」
「あなたが、隣にいてくれることを」
ゼルヴァーンが、また、彼女の頭に、手を置いた。今度は、置くだけではなかった。少しだけ、髪を、撫でた。
ぎこちなく。千年ぶりに。
リーシェは、目を、閉じた。冷たい指先が、いつの間にか、温まっていた。
◇
夜。
ナディアが、リーシェの部屋に、温かいスープを運んできた。
今日は何も聞かなかった。ただ、スープを置いて、眼を細めた。
「半身さま」
「ナディアさん」
「お顔が、明るくおなりです」
「そう、ですか」
「はい。喧嘩なすった、お顔です」
リーシェは、笑った。
「ばれましたか」
「ばれます。私も、千年前に、似た顔を、いたしました」
その言葉に、リーシェは、首を傾げた。
「ナディアさんも、誰かと、喧嘩を」
「ええ」
「どなたと」
ナディアは、答えなかった。
ただ、窓辺の花瓶の、花の位置を、少しだけ、直した。
千年前の半身が、好きだった位置に。
お読みいただきありがとうございます。
二人が、初めて、声を荒げました。
そして、一話の中で、和解しました。
——「逃げないでください」
十七年、誰にも、言えなかった、たったひとつの願いを、
リーシェが、初めて、伝えたい人に、伝えました。
千年で初めて、ゼルヴァーンの手が、リーシェの頭に、置かれました。
ぎこちなく、千年ぶりに、髪を撫でました。
そしてナディアが、ぽつりと、千年前の自分のことを、漏らしました。
次話、第25話「私はここに残ります」。
クリストフの使者が、ついに来ます。
弟アルトからの、手紙が、届きます。
そしてリーシェが——自分の意志で、未来を、選びます。
ブックマーク・評価・感想、心よりお待ちしております。
歯止めになったリーシェに、☆ひとつ、お願いいたします。
蒼空ルーシェ




