第23話 続報
正しさは、時に、暴力よりも、怖い。
その朝、リーシェは、それを、自分の、冷たい指先で、知った。
◇
デミウルゴが書状を読み上げた。
「『半身の力は、人間の大地にも等しく恩恵を与えるべきものである。我々はこれを、魔王城に独占させてはならない。停戦条約の精神に立ち返り、人魔双方の合議によって、半身の処遇を決定すべきである』——以上が、王太子クリストフ殿の、合議における演説の要旨です」
応接間の空気が、冷たかった。
ゼルヴァーンは椅子の肘掛を握っていた。木が、また軋んでいた。リーシェはその隣で、両手を膝の上に重ねていた。膝の上で、右手が左手を握っていた。指先が、また冷たかった。
「処遇」
ゼルヴァーンが、その一語だけを、声にした。
「処遇、と言ったか」
「はい、陛下」
「人ではなく、処遇か」
デミウルゴは、ただ書状を畳んだ。
「言葉は、選ばれているのです」
「選んでいるな」
「ええ。あの男は、リーシェさまを『人』と呼ぶことを避けています。『半身』『力』『恩恵』——どれも、対象を物として扱える単語です」
「物として扱うつもりだ」
「ええ」
リーシェは、聞いていた。冷たい右手を、左手でぎゅっと包んだ。
「……正しいことを言っているんですよね」
声を出した。震えていなかった。
「人間の大地にも恩恵が届くべき。停戦条約の精神に立ち返るべき。一国が独占してはならない。——全部、正しい言葉です」
ゼルヴァーンが、リーシェを見た。
「リーシェ」
「はい」
「君は、迷っているのか」
彼女は、首を振った。
「いいえ」
迷っていない。それは、確かだった。
「ただ——怖いんです」
ぽつりと、こぼした。
「あの人は、正しいことしか言わない。だから——反論できないんです。反論できる人は、間違いを言ってる人だけです。正しいことを言う人には、反論できない。正論で押されて、押されて、押されて、最後に首を縦に振らせる。そういう詰め方を、あの人はします」
ゼルヴァーンの肘掛を握る手から、力がふっと抜けた。
「君は、わかっているんだな」
「わかっています」
リーシェは、自分の右手を見た。冷たい指。
「だから——怖いんです」
◇
デミウルゴが、続報を続けた。
「合議の場で、王太子に同調した貴族が、現時点で四名」
「名前は」
「メイベル侯爵、ゴードリック子爵、エレアン伯爵、アルガリ男爵」
ゼルヴァーンが眉根を寄せた。
「メイベル侯爵——あの男は、半身の力に関心など示さなかったはずだ」
「最近、態度を変えました」
「理由は」
「不明です。ただ——」
デミウルゴは、眼鏡を直した。
「王太子の側近が、最近、貴族たちと頻繁に接触しているという報告があります」
「側近」
「ハインツ、と申す者です」
ハインツ。
その名前を、リーシェは、初めて聞いた気がした。
でも、なぜか、肌が、ざわついた。
「どんな男ですか」
「不明です。表に出てこない男です。クリストフ殿の影として、書庫と古文書の間を歩いているだけの男——というのが、王宮の認識です」
「書庫と古文書」
「ええ。古文書を、解読しているらしい、と」
古文書。
リーシェの右手の指先が、また、冷たくなった。
「……どんな古文書ですか」
「そこは、まだ、つかめておりません」
ゼルヴァーンが、低い声で言った。
「想像はつく」
「陛下」
「『半身を断つ儀式』だ」
応接間の空気が、ぴたりと静止した。
リーシェは、その単語を初めて、ゼルヴァーンの口から、はっきりと聞いた。これまで噂、文書、後ろ姿。今は目の前で。彼の口から。
「……それは」
彼女は、聞いた。
「どういう、儀式ですか」
ゼルヴァーンが、目を伏せた。それから、ゆっくりと、答えた。
「対の絆を、断つ儀式だ」
「絆を、断つ」
「半身と魔王は、対だ。世界の循環を回すための、対だ。だから——その絆を切れば、半身は機能しなくなる。あるいは——」
言葉を切った。
「あるいは?」
「消える」
リーシェは、息を吸った。深く。
吸って、吐いた。長く。
それから、笑った。
穏やかに、笑った。
「では、断たせなければいいですね」
ゼルヴァーンが、彼女を見た。金の瞳が、揺れていた。
「リーシェ」
「だって、絆を断つには、こちらの絆が、まず必要です。私とあなたが、対であると、認められなければ、断てません。でしょう?」
「……そうだ」
「では、簡単です」
彼女は、自分の右手を、ゼルヴァーンに差し出した。冷たい右手を、まっすぐに。
「私は、絶対に、あなたを離しません」
ゼルヴァーンが、その手に手を伸ばした。
今度は、ためらわなかった。
ためらわずに、その冷たい手を、自分の両手で包んだ。
千年で、初めて——自分から、両手で包んだ。
冷たい指先が、熱に、くるまれた。
◇
「……あ」
リーシェの口から、小さな声が漏れた。
ゼルヴァーンが、慌てたように手を離そうとした。
「すまない、勝手に——」
「いえ」
彼女は、その手を、追った。
離れていく彼の手を、自分の指先で、追いかけて、引き留めた。
「……離さないでください」
声が、震えていた。
それは、寒さの震えではなかった。
◇
夜。
窓辺で、リーシェは王都の方向を見つめていた。今日も、見つめていた。理由は、わかってきていた。
ハインツという男が、あの方向にいる。古文書を解読している。儀式の手順を、清書している。
彼女の右手の指先は、まだ冷たかった。
でも、両手の感触は、まだ、残っていた。
千年の熱が、まだ、指の関節のあたりに、ほんのり灯っていた。
彼女は、左手で、その熱を、押さえた。
「……離させない」
呟いた。
誰にも、聞かれていない夜だった。
◇
同じ夜。
王都。書斎。
ハインツが、古文書の前で、ペンを走らせていた。彼の右目は、ここ数年、霞んで見えなくなっていた。古文書の読みすぎだった。それでも、左目は、まだ鋭かった。
彼は、解読した一節を、清書していた。
『——半身を断つには、半身自身の意志を、揺るがすこと』
ペンが、止まった。
『——意志が揺るぐことなく、絆を断つことは、できない』
彼は、ペンを置いた。それから、扉の方を見た。クリストフが、立っていた。
「ハインツ」
「殿下」
「進捗は」
「もう、半分です」
「あの一節、どう読んだ」
「殿下の、お考え通りに」
クリストフは、わずかに、笑った。
「では、そろそろ手を打とう」
「と、申されますと」
「半身に、迷いを、与える」
「方法は」
「義務だ」
「ぎむ」
「人間の少女が、最も弱い言葉。それは、義務だ」
ハインツは、何も答えなかった。ただ、ペンを取り直した。
お読みいただきありがとうございます。
「正しいことを言っている。だから怖いんです」
リーシェが、初めて、敵を言語化しました。
そしてゼルヴァーンが、自分から、両手で包みました。
冷たい指先を。千年で、初めて。
しかし、王都では——
ハインツが、もう、半分まで読んでいます。
クリストフが、次に放つ言葉は、「義務」です。
次話、第24話「二人の王」。
ゼルヴァーンとリーシェが、初めて、意見を違えます。
そして——扉の外に立つのは、今度はリーシェです。
ブックマーク・評価・感想、心よりお待ちしております。
冷たい指先に、☆ひとつ、温度をください。
蒼空ルーシェ




