第22話 十二個
千年生きた魔王が、生地をこねていた。
厨房に、誰一人として、突っ込める者がいなかった。
四本腕の料理長は固まったまま動けず、見習いの少女は鍋を取り落としそうになり、ナディアは口元を両手で覆って肩を震わせていた。
しかし誰よりも複雑な顔をしていたのは、リーシェだった。
「……あの、陛下」
「ゼルヴァーンでいい」
「ゼルヴァーンさま。なぜ、生地をこねていらっしゃるのですか」
「見学だ」
「こねていらっしゃいますよね」
「見学しているうちに、こねていた」
「順序が逆だと思います」
ゼルヴァーンの黒い袖は肘までまくられていた。普段は薄闇のような魔力を纏っている腕が、今は小麦粉でうっすら白くなっていた。指先には蜂蜜がついている。指先である。大陸最強の魔王の。
リーシェは作業台の向こうから、生地を指差した。
「もう少し、優しくこねてください」
「優しく」
「はい」
「これは——」
「強すぎます。生地が悲鳴を上げます」
「生地は生きていないだろう」
「生きてます」
「生きていないと思うが」
「生きていないと、膨らまないんです」
ゼルヴァーンは黙った。それから、生地に向き直った。今度は、明らかに加減を意識していた。手のひらの圧を、丁寧に、控えめに。
千年、剣を握り、魔法を撃ち、敵を屠り、城を建ててきた手が、今、小麦粉と卵と蜂蜜の生地を、優しくこねていた。
◇
約束だった。
前に作った時は、六つだった。ゼルヴァーンが、夢中で、四つ食べてしまった。残りの二つは、デミウルゴとナディアに、一つずつ。皆に、行き渡らなかった。
だから今日は——十二個。
約束だから。
「次は卵です」
「割るのか」
「割ります」
「全部か」
「四つです」
「半分は片手で割ってみたい」
「やめてください料理長が泣いています」
「泣いていない」
「泣いてます」
四本腕の料理長は、確かに泣いてはいなかった。ただ、職人としての矜持と、魔王への忠誠と、目の前で繰り広げられている光景の処理速度が、全部追いついていなかった。
彼は黙って、卵を四つ、作業台に置いた。
そしてゼルヴァーンが、ふつうに、両手で順番に四つ割った。一つも殻を入れなかった。器用だった。
「……お上手ですね」
「千年生きた」
「割り方を覚える時間はありましたね」
「ある」
「いつ覚えられたんですか」
ゼルヴァーンが、ほんの少しだけ、答えるのに間を置いた。
「……忘れた」
リーシェは、それ以上聞かなかった。
◇
「千年お仕えしておりますが」
厨房の入り口で、デミウルゴが眼鏡を直した。
「陛下が小麦粉まみれになるのは、これで——」
「黙れ」
「ただいま記録しております」
「記録するな」
「すでに記録済です」
「お前は本当に何を見て生きているんだ」
「陛下を、千年」
ゼルヴァーンは反論しなかった。生地を成形しながら、片手で粉のついた額を拭った。額に、白い跡がついた。リーシェがそれを見て、笑った。声を出して笑った。
ナディアが、布巾を差し出した。
「……あとで、お拭きいたします」
ゼルヴァーンが布巾を受け取って、自分で拭いた。拭けていなかった。顎の方にまで小麦粉が広がった。
もう、誰も訂正しなかった。
◇
焼き上がりは、いびつだった。
十二個並べた皿の上で、半分は丸く、半分は微妙に歪んでいた。歪んでいる方は、明らかにゼルヴァーンが成形した分だった。
「……いびつですね」
「いびつだ」
「でも美味しそうです」
「美味そうだ」
窯から出したばかりの蜂蜜菓子は、黄金色に輝いていた。蜂蜜の香りが厨房に満ちて、リーシェは深く息を吸った。マリーさんの厨房と、同じ匂いだった。
ゼルヴァーンが、皿の前で立ち止まった。
動かなかった。
「ゼルヴァーンさま?」
返事がなかった。
リーシェは、その横顔を見た。金の瞳が、皿の上の十二個を見ていた。怒っているのではない。喜んでいるのでもない。もっと深い、千年の何かが、その目の奥にあった。
リーシェは、聞いた。とても、慎重に。
「……前に蜂蜜菓子を召し上がったのは、いつですか」
「千年前だ」
「……どなたが、作られたんですか」
ゼルヴァーンは、答えなかった。
長い、沈黙。
それから、低く、しかし穏やかに、彼は言った。
「あの最後の一個は——美味かった」
「そうですか」
「ああ」
「今日のは、どうですか」
ゼルヴァーンが、皿から一つ取った。歪んでいる方を取った。自分が作った方を、選んだ。
齧った。
咀嚼した。
吞み込んだ。
それから、今度はためらわずに、もう一個取った。
「美味い」
「よかった」
「もう一個食べる」
「あと十個あります」
「十個ぜんぶ食べる」
「四つはデミウルゴさんとナディアさんの分です」
「では六個食べる」
「六個もです?」
「六個だ」
四本腕の料理長が、肩で笑っているのが見えた。彼の笑い方は、四本の肩が連動して震えるので、傍から見ると非常に独特だった。
◇
菓子を皿に取り分けて、図書館に運んだ。
ゼルヴァーンの六個。リーシェの二個。デミウルゴとナディアの分が二個ずつ。
窓辺の机で、二人で食べた。蜂蜜の甘さの中に、わずかな塩気と、焼き目の香ばしさ。リーシェが齧ると、ゼルヴァーンが齧る。リーシェが微笑むと、ゼルヴァーンが微笑む。
これは、と彼女は思った。これは、初めての午後だ。
千年の魔王と、要らないと言われた娘が、自分たちで作った菓子を食べる午後。
穏やかで、ばかばかしくて、世界で一番、温かい午後だった。
◇
その温度が、消えたのは、夕方のことだった。
デミウルゴが、図書館に入ってきた。蜂蜜菓子を二つ受け取り、いつもの皮肉を一度言いかけて——やめた。
眼鏡の奥の目が、硬かった。
「陛下。王都から、続報が」
ゼルヴァーンの空気が変わった。蜂蜜菓子のついた指を、ナフキンで丁寧に拭った。それから、視線をデミウルゴに向けた。
「内容を」
「王太子クリストフ殿が——本日、王宮の合議で、半身さまの件を、正式に議題に上げました」
リーシェの手が、止まった。
「正式、ですか」
「公開の場で、半身の力の所在について、議論を始めたのです」
デミウルゴは、書状を机に置いた。
「文面ではなく、行動に、移りました」
窓の外で、夕日が沈み始めていた。
リーシェの右手の指先が、また、少しだけ冷たくなっていた。
お読みいただきありがとうございます。
千年生きた魔王が、小麦粉まみれになりました。
リーシェが「生地は生きてるんです」と言いました。
四本腕の料理長は、四本の肩で笑っていました。
——のですが。
午後の蜂蜜の匂いの向こうで、王都が動き始めました。
クリストフは正攻法に切り替えました。
正論で、論理で、丁寧に、確実に。
次話、第23話「続報」。
正しさで、半身を奪いに来ます。
リーシェがあの男について、初めて自分の言葉で評します。
「この人は正しいことを言っている。だから怖いんです」
ブックマーク・評価・感想、いつもありがとうございます。
小麦粉まみれの魔王に、☆ひとつ、何卒お願いいたします。
蒼空ルーシェ




