第21話 穏やかな、はずの朝
第4章「盟約」、開幕です。
クリストフの去ったあとの、穏やかな朝の話。——のはずでした。
リーシェの指先が冷たくなり始めたのは、王太子クリストフが城を去った翌朝からだった。
本人は、まだ気づいていなかった。
その朝、千年生きた魔王が、生まれて初めて誰かを朝食に誘った。
「リーシェ。一緒に、朝食を取らないか」
誘われた半身は、図書館で本を閉じる手が止まった。それから、ゆっくり顔を上げた。
「……今、なんと?」
「聞こえなかったのか」
「いえ、聞こえました。聞こえたから、止まったんです」
ゼルヴァーンが視線を泳がせた。千年生きた大陸最強の魔王が、十七歳の少女の前で、視線を泳がせていた。
王太子クリストフが魔王城を去って、五日。
その五日のあいだに、魔王城には三つの変化があった。
◇
ひとつ目の変化。
朝食を、二人で取るようになったこと。
大食堂の長いテーブル。本来は二十人が並んで座れる席に、たった二人分の朝食が用意されていた。リーシェは魔王の隣。向かいではない。それも、変わったことのひとつだった。
ゼルヴァーンが椅子を引いた。
千年で初めて、椅子を引いた。
ぎこちなく。千年の威厳を全身に纏ったまま、椅子だけはぎこちなく。
「……ありがとうございます」
「気にするな」
「気にされてる気がするんですけど」
「気にしていない」
「お顔が真顔すぎませんか」
「真顔だ」
壁際で、デミウルゴが眼鏡を直した。
「千年お仕えしておりますが、陛下が女性の椅子を引かれるのは、これで——」
「数えるな」
「ただいま記録しておりました」
「記録もするな」
「すでに記録済です」
リーシェは声を出して笑った。最近、こんなふうに笑えるようになった。これも、変わったことのひとつかもしれない、と思った。
パンを千切る。蜂蜜を塗る。ゼルヴァーンも同じことをしている。よく見ると、千切り方がやや乱暴で、蜂蜜が指についている。
「あの、ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「普段、朝食は」
「執務室で、書類を見ながら、何か」
「何か」
「何かだ」
「もしかして、千年の間、朝食をきちんと召し上がったことが——」
「ない」
リーシェは手を止めた。
「ない、ですか」
「食事を誰かと取るのは、千年ぶりだ」
壁際のデミウルゴが、咳払いをした。
「私は千年、ご一緒しております」
「お前は別だ」
「別、ですか」
「お前は朝食ではない」
「私は何でしょう」
「家具だ」
「ひどい」
「冗談だ」
「冗談に聞こえません」
ナディアが花茶を注ぎながら、こっそり笑っていた。彼女が声を出して笑うようになったのも、最近のことだった。
◇
穏やかな、はずの朝だった。
◇
ふたつ目の変化。
月の庭園が、広がっていたこと。
朝食のあと、リーシェは庭に出た。クリストフが去った日から、毎朝の習慣になっていた。
以前は中央の一画にだけ咲いていた花が、外周まで広がっている。白い花、青い花、薄紅の花。リーシェの足元に光がふっと落ちると、土の中から茎が伸びる。蕾が開く。咲く。
ゼルヴァーンが、少し離れたところでそれを見ていた。腕を組んで、何も言わず、ただ見ていた。いつもの立ち位置。しかし以前と違うのは、リーシェが咲かせる範囲が、以前より広いこと。
「リーシェ」
「はい」
「最近、花が増えていないか」
「気のせいではないと思います」
「使いすぎていないか」
「大丈夫です」
答えてから、リーシェは指先に小さな違和感を覚えた。
冷たい。
昨日も少し冷たかった。一昨日は気にならなかった。三日前は——気にしていなかった。
彼女は手をぐっと握った。握れば温まる。気のせいだ。三日前は気にならなかったのだから、今日も、たぶん、大したことはない。
「リーシェ」
「はい」
「手を見せろ」
「あ」
ゼルヴァーンの金の瞳が、まっすぐリーシェの右手を見ていた。千年見続けた魔王の目は、ごまかしを許さなかった。
「冷たいな」
「少しだけです」
「少し、か」
「少しです」
ゼルヴァーンは何も言わずに、自分の外套を外した。リーシェの肩にかけた。いつかも、こうしてくれた仕草。しかし以前と違うのは、その手が、リーシェの指先に、軽く触れたこと。
一瞬。指先が指先に触れて、すぐに離れた。
離れた、けれど、以前は触れることすら、できなかった。
「……ありがとうございます」
「無理は、しなくていい」
「はい」
「君が倒れたら、僕は」
言いかけて、止まった。
千年前のように、と続くはずだった言葉が、唇の裏に呑み込まれた。
リーシェは何も言わずに、ゼルヴァーンを見上げた。
「倒れません。ここにいます」
「……ああ」
風が吹いた。庭の花が一斉に揺れた。リーシェの肩にかけられた外套が、少しだけずれた。ゼルヴァーンの手が、無意識にそれを直そうとして——途中で止まった。
止まったが、引っ込めはしなかった。
空中で、迷っていた。千年の、迷いだった。
◇
みっつ目の変化。
半身の本の、栞の位置。
昼下がり。図書館の机。リーシェは古い革表紙の本を開いていた。タイトルは『半身——その存在と役割について』。ずいぶん前に、初めて手に取った本。それから、少しずつ読み進めてきた本。
栞の位置は、目次から数えて、後ろから三章目だった。
残るは二章。「喪失」と「再会」。
リーシェは「喪失」の章を、ゆっくり開いた。
『半身は世界の循環の核である。しかし循環には、対が必要である。対が断たれた時——』
ここで、文字がかすれていた。古い本だ。インクが薄れている部分がある。リーシェは目を細めた。
『——半身は、力を使うほどに、自らの命を削る。対の支えなく、循環を一人で担うとき、半身は』
いつの間にか、机の向こうに影が落ちていた。
顔を上げると、ゼルヴァーンが立っていた。リーシェが開いている本を、見ている。
「……どこまで読んだ」
声が、いつもより少し低かった。
「『喪失』の、最初です。一段落だけ」
「そうか」
「続きを、読んでもいいですか」
ゼルヴァーンは、しばらく黙った。それから、机に手を置いた。
「読むのは構わない」
「はい」
「ただ、わからないことが出てきたら——」
言葉を切った。それから、声を少しだけ柔らかくして言った。
「その先は、僕が話す」
リーシェは本の上に手を置いた。指の冷たさは、もうなかった。
「……はい。お願いします」
その先は、僕が話す。
千年のあいだ、誰にも話さなかったことを。
◇
夜。
リーシェは部屋に戻った。窓辺の花瓶に、月光が落ちていた。二つの月のうち、欠けていたほうの月が、いつの間にか、ほとんど欠けていなかった。
彼女は弟の押し花をポケットから出して、手のひらに置いた。
今日は、いい日だった。穏やかな朝、広がった庭、ゼルヴァーンの外套、その先は僕が話すと言ってくれた声。穏やかで、温かくて、初めての日々。
しかし、と彼女は思った。
穏やかな日々というのは、いつだって、何かが近づいてくる前の、束の間のもの。
窓の外。月の光の届かない、遠い空。
王都の方角を、彼女は少しだけ、長く見つめた。
理由は、わからなかった。ただ、見つめずにはいられなかった。
◇
同じ夜。
王都。クリストフの執務室。
燭台が一本だけ灯っていた。クリストフは机に向かい、古い羊皮紙を開いていた。「半身を断つ儀式」。あの日、リーシェの前に出さなかった文書。
扉が叩かれた。
「入れ」
入ってきた男は、痩せていた。眼鏡をかけ、両腕に古文書を抱えていた。年齢は若い。三十前に見えるが、目だけが妙に老いていた。
そして両手の指先には、古文書のインクが、もう何年分も染みついて落ちなくなっていた。
「殿下。解読が、半分まで進みました」
「ハインツ。残りは」
「七日いただければ」
「五日でやれ」
「……承知しました」
ハインツは深く一礼し、机の上に新しい紙束を置いた。儀式の手順が、彼の手で清書されていた。
クリストフは紙を一枚めくった。読んだ。もう一枚めくった。読んだ。
読み終えて、紙を伏せた。
「準備を始めろ」
「何の、ですか」
「すべての、だ」
ハインツは何も聞き返さなかった。一礼して部屋を出た。
残されたクリストフは、燭台の炎を見つめていた。穏やかな顔だった。怒りもない。憎しみもない。ただ静かな決意だけが、青い瞳の奥にあった。
「千年前と——同じ手は、使わない」
呟いた。
「同じ手を使わずとも、同じ結末には、たどり着ける」
炎が一度、揺れた。
窓の外で、風が鳴った。遠く、魔王城の方角から。
花の香りが、わずかに、王都にまで届いていた。
届いたことに、クリストフは気づいていた。
気づいて、目を細めた。
◇
穏やかな、はずの朝の、その夜のことだった。
お読みいただきありがとうございます。
朝食を一緒に取るようになった魔王と、
指先が少しだけ冷たい、半身の少女。
そして王都では、ハインツという男が、動き始めました。
次話、第22話「十二個」。
千年生きた魔王が、生地を、こねます。
小麦粉まみれの大陸最強の闇王を、ご堪能ください。
ここからの十話で、二人は「対」になります。
千年前の嵐は、もう、そこまで来ています。
ブックマーク・評価・感想、何卒お願いいたします。
星ひとつが、次の朝を照らす月になります。
花は嵐でも咲きます。
蒼空ルーシェ




