第20話 私の意志で
王太子クリストフは、微笑みながらやってきた。
馬車ではなく馬で。従者は二人だけ。軽装で、武器も持たず、まるで友人の屋敷を訪ねるかのような気安さで魔王城の門をくぐった。
応接間。ゼルヴァーンが上座に座っている。リーシェがその隣に。デミウルゴが壁際に立っている。
クリストフが入ってきた。
金色の髪。深い青の瞳。端正な顔に、穏やかな笑み。式典の夜よりも柔らかい表情を作っている。
「お招きいただき光栄です、ゼルヴァーン陛下」
深く一礼。礼儀に申し分ない。むしろ美しいほどの礼だった。
「そしてリーシェ殿。お目にかかれて嬉しく思います。式典でのお姿は、まさに夜空の星のようでした」
リーシェに向けた笑みは、温かかった。少なくとも、そう見えた。
しかしリーシェは覚えている。バルコニー越しに見た、あの目。目だけが笑っていなかった男。今は笑っている。目も。口も。全部。
それが——かえって怖かった。
ゼルヴァーンは笑っていなかった。
「用件を聞こう」
短い。礼儀を省いている。クリストフは気にした様子もなく椅子に座った。
「率直に申し上げます。半身の力について、ぜひお話を伺いたい」
「何のために」
「人間と魔族の共存のためです」
クリストフの声は真摯だった。演技には見えない。リーシェですら、一瞬「本気で言っているのでは」と思った。
「半身の力は世界の生命力を循環させると聞いております。花を咲かせ、泉を蘇らせ、大地を潤す。それは人間にとっても魔族にとっても恩恵です。であれば、その力がどのように機能するのかを理解し、人魔双方が協力してその恩恵を最大化する方法を探るべきではないでしょうか」
正論だった。
完璧な正論だった。
ゼルヴァーンの目が冷たくなった。しかしクリストフの論理に反論する余地がない。「共存のための研究」という大義名分は、停戦条約の精神に合致している。
リーシェは黙って聞いていた。クリストフの言葉を、一語一語。
「具体的に何を求めている」
ゼルヴァーンが聞いた。
「まずは対話です。半身さまがどのように力を使われるのか。どのような条件で花が咲くのか。力の範囲や限界。そういったことを、学術的に記録し、人間の学者にも共有したい」
「リーシェを研究対象にしたいと」
「研究対象だなどと。対話です。あくまでも」
言葉が滑らかだった。棘がない。反論しにくい。正しいことしか言わない。
リーシェの胸に、不思議な感覚があった。この人の言葉は正しい。でも——何かが違う。何が違うのかが、言語化できない。
クリストフがリーシェに向き直った。
「リーシェ殿」
青い瞳が、まっすぐにリーシェを見た。
「あなたは人間です。人間として生まれ、人間の国で育った。今は魔王城におられるが——本来、あなたの力は人間の世界にも等しく恩恵を与えるべきものではありませんか」
リーシェの心臓が跳ねた。
「人間の大地も枯れています。千年の間に、少しずつ。作物は痩せ、泉は涸れ、森は縮んだ。あなたの力があれば、それを取り戻せる。人間の子供たちにも、花を咲かせてあげられる」
花。人間の子供たち。
リーシェの中で、何かが揺れた。
確かにそうだ。自分は人間だ。魔族の子供たちに花を咲かせているのに、人間の子供たちには何もしていない。あの力が本当に世界を巡らせるなら、人間の大地にも——
「リーシェ」
ゼルヴァーンの声が、思考を断ち切った。
低い声。しかし怒りではなかった。名前を呼んだだけだった。月の庭園の夜と同じように。ただ名前を。
リーシェは我に返った。
クリストフを見た。青い瞳を。穏やかな笑みを。
——この人は、正しいことを言っている。でも、正しいことで人を動かそうとしている。
かつて読んだ半身の伝説を思い出した。半身の力は「生きたいと願うものにしか作用しない」。それは暴力ではなく、善意でもなく、もっと根源的なもの。道具にはならない。
「王太子殿下」
リーシェは声を出した。震えていなかった。
「仰ることは理解できます。人間の大地にも恩恵が届くべきだという考えは、間違っていないと思います」
クリストフが微笑んだ。「ええ、ですから——」
「でも」
リーシェが遮った。穏やかに。しかしはっきりと。
「私の力は、交渉の道具ではありません」
クリストフの笑みが、一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。しかしリーシェは見逃さなかった。
「花は、私が咲かせたいと思った時に咲きます。誰かに命じられて咲くものではありません。人間の大地に花を咲かせたいと思う日が来るかもしれません。でもそれは私が決めることです」
リーシェは背筋を伸ばした。
「私はここに、御供として来ました。でも今は違います。私の意志で、ここにいます。私の力をどう使うかも、私が決めます」
応接間が静まった。
クリストフの笑みが戻った。完璧に。先ほどの一瞬の固まりは幻だったかのように。
「もちろんです。強制するつもりは毛頭ありません。ただ、お考えいただけるだけで十分です」
立ち上がった。優雅に一礼。
「今日はこれで。素晴らしいお話ができました。またお目にかかれることを楽しみにしております」
去り際。ゼルヴァーンの前を通る時、クリストフは足を止めた。
「陛下。半身さまは聡明な方ですね」
ゼルヴァーンは答えなかった。
「大切にされるとよろしい。千年前のように——失われぬよう」
空気が凍った。
ゼルヴァーンの目が見開かれた。金の瞳に、殺意に近い光が一瞬宿った。しかしクリストフは既に背を向けていた。穏やかな足取りで応接間を出ていく。
デミウルゴが無言で後を追い、城門まで見届けに行った。
応接間に、二人が残された。
◇
沈黙。
ゼルヴァーンが椅子の肘掛を握りしめていた。木が軋む音がした。
「あの男——千年前のことを、知っている」
低い声。怒りを押し殺した声。
「千年前のように失われぬよう、だと。あれは脅しだ」
リーシェは静かに立ち上がった。ゼルヴァーンの前に立った。
「ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「大丈夫です」
同じ言葉。何度でも。あの扉越しの夜にも。月の庭園の夜にも。今日も。
「あの人が何を知っていても。何を企んでいても。私はここにいます」
ゼルヴァーンがリーシェを見上げた。座ったままの魔王と、立っているリーシェ。珍しい構図だった。いつもはゼルヴァーンが見下ろしている。
「君を——」
「失いません」
リーシェが先に言った。ゼルヴァーンが言おうとした言葉を。
「私は消えません。ここにいます。あなたの隣に。私の意志で」
ゼルヴァーンの手から、力が抜けた。肘掛が軋むのが止まった。
千年分の恐怖が、消えたわけではない。でも——隣に、それを言ってくれる人がいる。
「……ありがとう」
「蜂蜜菓子、十二個作りますね」
「……今それを言うのか」
「戦の前には腹ごしらえです」
ゼルヴァーンが笑った。小さく、でも確かに。
◇
魔王城の門が閉じた。
クリストフの馬が王都へ向かっていく。従者たちが黙って後に続く。
馬上で、クリストフは前を見ていた。穏やかな笑みはもうなかった。素の顔。感情の読めない、静かな顔。
「半身の力は、交渉の道具ではない——か」
呟いた。
「聡明だ。だからこそ」
懐から、小さな巻物を取り出した。古い羊皮紙。書庫から見つけた千年前の文書の写し。
「半身を断つ儀式」。
指で表面をなぞった。
「説得では動かない。であれば——方法を変えるだけだ」
馬が走る。王都へ向かって。
魔王城が遠ざかっていく。花が咲く庭園が小さくなっていく。
クリストフは振り返らなかった。
「計画は、始まったばかりだ」
風が吹いた。馬の蹄が石畳を叩く音が、夕暮れの空に消えていった。
第3章「逆転」了。
お読みいただきありがとうございます。
第3章「逆転」、完結です。
1話で「お前でちょうどよかった」と言われた少女が、
20話で「私の意志で、ここにいます」と言えるようになりました。
二十話分の旅路を、ここまでお付き合いくださった皆さま。
本当に、本当にありがとうございます。
しかし——王太子の影が落ちました。
「千年前のように失われぬよう」。あの言葉の意味を、ゼルヴァーンは知っています。
「半身を断つ儀式」。千年前に起きたことと、同じものが。
第4章「盟約」では、リーシェが自分の意志で未来を選びます。
そして——二人の間の扉が、ようやく。
続きは、皆さまの声次第です。
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「この先を読みたい」と思ってくださったなら、一押しをお願いいたします。
花は嵐でも咲きます。
この物語も、きっと。
蒼空ルーシェ




