第19話 蜂蜜と嵐
蜂蜜菓子を作った。
魔王城の厨房は広かった。人間の厨房とは道具が違ったが、基本は同じだ。小麦粉と卵と蜂蜜があれば作れる。マリーさんに教わったレシピを思い出しながら、リーシェは生地をこねた。
厨房の料理長——四本腕の魔族の男——は最初「半身さまが厨房に?」と目を丸くしていたが、リーシェが慣れた手つきで生地を扱い始めると、黙って道具を出してくれた。
焼き上がりは上々だった。少し形がいびつだが、味は確かだ。
皿に並べて、勉強会に持っていった。
図書館。いつもの机。ゼルヴァーンが本を読んでいる。
「あの、これ——」
皿を差し出した。黄金色の蜂蜜菓子。六つ。
ゼルヴァーンが本から顔を上げた。皿を見た。リーシェを見た。皿を見た。
「……作ったのか」
「はい。約束したので」
ゼルヴァーンが一つ手に取った。口に運んだ。噛んだ。
咀嚼が止まった。
金の瞳が見開かれた。
「……美味い」
小さな声だった。しかし声に体温があった。千年の蜂蜜菓子への愛情が凝縮された二文字だった。
「よかった。形はちょっと——」
「形はどうでもいい」
二つ目に手が伸びた。三つ目に手が伸びた。止まらない。
「陛下。六つのうち三つはデミウルゴさんとナディアさんの分で——」
「知らない」
「知らないって——」
「僕が全部食べる。足りなければまた作ってくれ」
リーシェは呆れた。しかし笑った。大陸最強の魔王が、蜂蜜菓子を奪い合う図。千年の威厳はどこへ行ったのか。
「……二つはお渡しします。残りは食べてください」
「四つか」
「四つです」
「明日は六つ全部僕のにしろ」
「交渉しないでください」
四つ目の菓子に手が伸びた瞬間、ゼルヴァーンが止まった。リーシェを見た。
「……ありがとう」
声が変わった。蜂蜜菓子への執着とは別の声。もっと静かで、もっと深い声。
「千年の夜食は、いつも一人で食べていた。誰かが作ってくれたのは、初めてだ」
リーシェの胸がきゅっと鳴った。
「……これからは、いつでも作ります」
「毎日か」
「毎日は太りますよ」
「魔王は太らない」
「本当ですか?」
「千年太っていない」
「それは食べすぎてなかっただけでは……」
二人は笑った。図書館に笑い声が響いた。
◇
笑い声が消えたのは、その三十分後だった。
デミウルゴが図書館に来た。蜂蜜菓子を二つ渡したら「千年仕えておりますが、陛下の分を削ってまで私に下さるとは」と言った。しかし表情はいつもの皮肉ではなかった。
眼鏡の奥の目が、硬い。
「陛下。人間の王宮から、書状が届いております」
ゼルヴァーンの空気が変わった。蜂蜜菓子を食べていた柔らかさが消え、魔王の顔に戻った。
「差出人は」
「王太子クリストフ殿です」
リーシェは息を吸った。あの男。式典の夜、バルコニー越しに計算された目で見ていた男。ゼルヴァーンが「危険だ」と言った男。
デミウルゴが書状を差し出した。封蝋に王家の紋章。ゼルヴァーンが受け取り、開き、読んだ。
読み終えて、書状を机に置いた。
「何と」
「半身の力について、学術的な見地から意見を交わしたい。式典で拝見した花の奇跡に深い感銘を受けた。ぜひ魔王城を訪問し、半身さまにもお目にかかりたい——だそうだ」
丁寧な文面。礼儀正しい言葉遣い。しかしリーシェには、あの目が浮かんだ。社交的に笑いながら、目だけが笑っていなかった男の顔。
「学術的な見地、ですか」
リーシェが聞いた。
「嘘だ」
ゼルヴァーンが短く断じた。
「あの男が花に感銘を受けたなどあり得ない。あれは力にしか興味がない」
デミウルゴが頷いた。
「私も同意見です。式典の場で半身さまの力を目の当たりにし、その政治的・軍事的価値を計算し始めたのでしょう」
政治的価値、軍事的価値。
リーシェの胸に冷たいものが走った。自分の力が——花を咲かせるだけの力が、そんなふうに計算される対象になっている。
「断る」
ゼルヴァーンの声に温度がなかった。
「あの男をこの城に入れる理由はない」
「陛下」
デミウルゴが眼鏡を直した。
「断ることは可能です。しかし——王太子の公式な書状を理由なく拒絶すれば、人魔関係に影響が出ます。停戦条約は双方の善意の上に成り立っているものですから」
ゼルヴァーンの顎が硬くなった。わかっている。わかっているが。
「リーシェに近づけたくない」
低い声。率直すぎる声。デミウルゴは何も言わなかった。
リーシェは二人のやり取りを聞いていた。そして、口を開いた。
「会います」
二人が同時にリーシェを見た。
「会います。王太子に」
「リーシェ——」
「ゼルヴァーンさまが隣にいてくれるなら、怖くないです。逃げたら、この人はまた別の方法で近づいてくるでしょう。それなら、こちらの城で、こちらの条件で会った方がいい」
デミウルゴが眼鏡の奥で目を細めた。驚いているのか、感心しているのか。
「半身さまの仰る通りです。こちらの領域で会えば、主導権はこちらにある」
ゼルヴァーンは黙っていた。リーシェを見ていた。
「……賢い判断だ。しかし」
「しかし?」
「危ない」
「知ってます」
「あの男は——」
「ゼルヴァーンさま」
リーシェははっきりと言った。
「私はもう、守られるだけではいたくないと言いました。あの時の言葉は本気です」
10話。「自分で考えて、自分で動きたい」。あの時の約束。
ゼルヴァーンの金の瞳が揺れた。怒りでも悲しみでもない。もっと複雑な何かが、千年の感情と混ざり合って揺れていた。
「……わかった」
声が低かった。諦めたのではない。認めたのだ。目の前にいるこの人が、もう「守られるだけの少女」ではないことを。
「ただし条件がある」
「はい」
「僕が同席する。一瞬たりとも離れない。それと——」
ゼルヴァーンが蜂蜜菓子の最後の一つを手に取った。
「終わったら、これを十二個作れ」
「十二個!?」
「戦の前には腹ごしらえがいる」
リーシェは笑った。笑うしかなかった。
でも手は震えていなかった。左手も。
◇
夜。
デミウルゴが王太子への返書を作成した。「歓迎する。日程は追って通知する」。
ゼルヴァーンが返書に目を通した。一言だけ書き加えた。
「半身は我が最も大切な存在である。失礼のなきよう」
デミウルゴは何も言わず、その一文を含めたまま封をした。
リーシェの部屋では、灯りが消えていた。窓辺の花瓶に月光が落ちている。
リーシェは目を閉じていた。眠れていない。
王太子が来る。あの目の男が。
怖くないと言った。嘘ではない。でも——不安はある。
ポケットの中に手を入れた。弟の花の押し花が入っている。もう薄くなっているけれど、まだ形が残っている。
握りしめた。左手で。
——大丈夫。ここには花がある。花を咲かせてくれる人たちがいる。名前を呼んでくれる人がいる。
嵐が来るなら、来ればいい。
花は嵐でも咲く。
お読みいただきありがとうございます。
蜂蜜菓子を全部食べようとする魔王と、
王太子の書状に「会います」と即答する少女。
この二人は、きっと大丈夫です。
たぶん。おそらく。
次回、第20話。第3章「逆転」最終話。
王太子クリストフが、魔王城にやってきます。
あの男の本当の目的が、少しだけ見えます。
そしてリーシェが、自分の意志で未来を選びます。
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