第18話 壊れかけの王
式典から戻って数日が過ぎた。
魔王城の日常は穏やかだった。朝は勉強会。昼は庭園の散歩。夕方はナディアとお茶を飲みながら、魔族の文化について教わる。夜は部屋で本を読む。
変わったことが一つある。
ゼルヴァーンが、部屋の中に入るようになった。
最初は入口の一歩だけ。次は二歩。今日は椅子に座った。リーシェの部屋の、窓辺の椅子に。花瓶の隣の椅子に。
二人でお茶を飲んだ。魔界の花茶。ほのかに甘い。
「この花茶、好きです」
「そうか」
「ゼルヴァーンさまは甘いものが好きですか」
ゼルヴァーンの手が止まった。茶杯を持ったまま、微妙な間。
「……なぜ聞く」
「ナディアさんに聞いたんです。陛下は深夜に厨房に行かれることがあるって」
ゼルヴァーンが目を逸らした。耳が赤い。
「ナディアは余計なことを言う」
「蜂蜜菓子がお好きだと」
「違う」
「違うんですか」
「好きではない。必要なだけだ」
「必要」
「心の薬だ」
真顔だった。千年の魔王が、蜂蜜菓子を「心の薬」と呼んでいる。
リーシェは笑いを堪えた。堪えきれなかった。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑っている。口元が動いている」
「感動しているんです。陛下にも甘いものが必要なんだなって」
「……甘いものが必要でない生き物はいない」
リーシェは茶杯を置いた。
「今度、作りましょうか。蜂蜜菓子」
ゼルヴァーンが振り返った。目が少し大きくなっていた。
「作れるのか」
「公爵家で、マリーさんに教わりました。台所の隅でこっそり。お菓子作りだけは、得意なんです」
「……食べたい」
即答だった。千年の王が、蜂蜜菓子に即答した。
リーシェは今度こそ声を出して笑った。
◇
夜。月の庭園。
最近、二人で庭園を歩くのが習慣になっていた。リーシェが花に触れると新しい花が咲き、二人でそれを眺める。静かな時間だった。
今夜の月は二つとも明るかった。左の月の欠けは、もうほとんどわからないくらい小さくなっている。
泉のそばに座った。あの夜、名前を呼んでくれた場所。
「ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「聞いてもいいですか。聞きたくなければ答えなくていいです」
ゼルヴァーンが顔を上げた。リーシェの目を見た。
「……聞け」
「千年前のこと。少しだけ。少しだけでいいので、教えてもらえませんか」
沈黙。
泉の水音だけが聞こえた。
リーシェは待った。急かさなかった。この人が話してくれるなら聞きたい。話せないなら待つ。あの扉越しの夜にそう決めた。
ゼルヴァーンが、長い息を吐いた。
「千年前」
声が低かった。いつもより低い。
「この庭に、人がいた。僕の——半身が」
リーシェは黙って聞いていた。
「穏やかな人だった。花が好きだった。この庭の花を、毎日世話していた。僕に花の名前を教えてくれた。僕は花の名前を一つも知らなかったから」
ゼルヴァーンの目が、庭園の花を見ていた。リーシェが咲かせた花を。千年前の花とは違う花を。
「笑う人だった。よく笑った。僕はあまり笑えなかったけれど、あの人が笑うと——世界がましになった気がした」
リーシェの胸が痛かった。この人が語る「あの人」は、自分ではない。千年前にいた、別の誰か。でもその誰かをこんなに大切に思っていたことが、声から伝わってくる。
「ある日——」
声が途切れた。
ゼルヴァーンの手が握りしめられた。膝の上で、白くなるほど。
「ある日、あの人は消えた」
消えた。死んだ、ではなく。消えた。
「僕の目の前で」
声が掠れた。
「僕が——手を伸ばした瞬間に」
泉の水音が、沈黙を埋めた。
リーシェの心臓が痛いほど鳴っていた。あの夜、扉越しに聞いた「触れるのが怖い」の意味が、ようやく輪郭を持った。
手を伸ばした瞬間に、消えた。
だからこの人は、触れるのが怖いのだ。触れたら消えると思っていた。千年間。ずっと。自分のせいだと。
「それから千年、僕はこの庭を閉じた。開ければ思い出す。あの人の笑顔と、消える瞬間を。花が枯れていく庭を見ているほうが、まだましだった」
ゼルヴァーンが目を閉じた。
「壊れかけの王だと——前に言ったことがある」
その言葉の意味が、今初めてわかった。千年前に半身を失い、千年間一人で夜を数え続けた王。壊れかけている。でも壊れきっていない。壊れる前に、リーシェが来た。
「嘘ではなかった。僕は壊れかけていた。千年の間に、少しずつ。砂が崩れるように。デミウルゴがいなければ、とうに」
声が止まった。
リーシェは手を伸ばした。
ゼルヴァーンの握りしめた拳の上に、手を置いた。あの月の庭園の夜と同じように。
ゼルヴァーンの体が一瞬固まった。しかし今度は——引かなかった。あの時より、わずかに速く、力が抜けた。
「消えません」
リーシェは言った。同じ言葉。何度でも。
「私はここにいます。触れても、消えません」
ゼルヴァーンの目から、涙は落ちなかった。でも、瞳が揺れていた。千年の恐怖と、それを溶かそうとする温かさとが、金色の中で揺れていた。
「……まだ、全部は話せない」
「大丈夫です」
「いつか——全部話す。あの日、何が起きたのか。なぜ消えたのか。本当は」
声が途切れた。何かを飲み込んだ。
「本当は——消えたのではなく」
止まった。それ以上は出てこなかった。
リーシェは追わなかった。握りしめた手の上に、自分の手を置いたまま。
「いつか聞かせてください。準備ができたら」
「……ありがとう」
二人は月の庭園に座っていた。花が咲いている。泉が流れている。二つの月が、二人を照らしている。
リーシェは思った。この人の千年を、全部は背負えない。でも、隣にいることはできる。手を重ねることはできる。
それだけでいい。今は、それだけで。
◇
深夜。
リーシェが部屋に戻った後。
ゼルヴァーンは月の庭園に残っていた。一人で。花の中に。
右手を見た。リーシェの手が重なっていた場所。まだ温かい。
言いかけて、止めた。まだ言えない。言えば、すべてが変わる。リーシェと自分の関係が。この庭の意味が。千年の真実が。
言わなければならない日が来る。わかっている。
しかし今夜は——手の温かさだけを、握りしめていたかった。
月の光の中で、魔王は一人、目を閉じた。
遠く。人間の王都で。
王太子クリストフのもとに、一通の報告が届いていた。
古い書庫から見つかった文書。黄ばんだ紙。千年前の記録。
表紙に書かれた文字を、クリストフは蝋燭の光で読んだ。
——「半身を断つ儀式」。
王太子は、笑みを浮かべなかった。ただ静かに文書を開いた。
お読みいただきありがとうございます。
千年の魔王が、蜂蜜菓子を「心の薬」と呼ぶ話から、
千年前の「消えた」夜の話へ。
この温度差が、この物語です。
ゼルヴァーンが言いかけて止めた言葉。
「消えたのではなく」——その先を、まだ語れない彼を、
リーシェは待つことを選びました。
しかし。
王都の書斎で、千年前の文書が開かれました。
「半身を断つ儀式」。
嵐が、近づいています。
ブックマーク・評価・感想、いつもありがとうございます。
穏やかな日々があと何話続くか、私にもわかりません。
今のうちに、花の咲く庭を味わっておいてください。




