第17話 おかえりなさいませ
式典が終わった。
夜明け前に王都を発ち、三日の道のりを魔王の馬車で帰った。行きは人間の馬車で、硬い座席で、一人だった。帰りは魔族の馬車で、柔らかい座席で、ゼルヴァーンが向かいに座っていた。
馬車の中でリーシェは眠った。
式典の緊張が解けたら、糸が切れたように眠気が来た。「寝ていい」とゼルヴァーンが言った。「着いたら起こす」と。
リーシェは眠った。向かいの席に魔王がいる馬車で、安心して眠った。
ゼルヴァーンはリーシェの寝顔を見ていた。三日間。一睡もせずに。魔王に三日程度の徹夜は何でもない。千年眠れなかった夜に比べれば。
リーシェの寝顔は穏やかだった。左手が少し握られている。夢の中でも、何かを握りしめている。
◇
三日後。魔王城の門が見えた。
リーシェが目を覚ました。窓の外に、黒い城壁。一ヶ月前に初めて見た時は恐怖しかなかった城壁が、今は違って見える。
「着いたか」
「ああ」
門が開く。馬車が中に入る。
中庭に、人だかりがあった。
侍女たちが並んでいる。庭師がいる。兵士たちが直立している。城下の子供たちまで混じっている。角に花をつけた男の子が最前列にいる。
馬車が止まった。扉が開いた。
リーシェが降りた瞬間——
「おかえりなさいませ、半身さま」
全員が、声を揃えた。
リーシェは立ち尽くした。
おかえりなさい。
その言葉を、向けられたことがなかった。公爵家では。十七年間。「おかえり」と言ってくれる人は一人もいなかった。帰っても、誰も気づかなかった。部屋に戻って、一人で靴を脱いで、一人で座って。誰にも待たれていない帰宅。
今、数十人の魔族が、リーシェの帰りを待っていてくれた。
涙が込み上げた。でも今日は泣かない。泣かないと決めたから。
「——ただいま、戻りました」
声が少し震えた。でも笑顔だった。
子供たちが駆け寄ってきた。「半身さま、おかえり」「花、ちゃんと咲いてたよ」「角の花は枯れちゃった。またつけて」
リーシェは笑いながら子供たちの頭を撫でた。
侍女たちの列の先頭に、ナディアが立っていた。深く頭を下げて、それから顔を上げた。紫の瞳が潤んでいた。でも微笑んでいた。
「おかえりなさいませ、リーシェさま」
半身さまではなく、リーシェさま。名前で。ナディアがリーシェを名前で呼んだのは、これが初めてだった。
リーシェの目がさらに熱くなった。泣かない。泣かないけど。
「ただいま、ナディアさん」
列の最後尾に、デミウルゴが立っていた。銀縁の眼鏡を直して、いつもの表情で。
「おかえりなさいませ。式典はいかがでしたか」
「楽しかったです。疲れましたけど」
「陛下は」
ゼルヴァーンがリーシェの後ろから降りてきた。
「三日間一睡もされていないようですが」
「問題ない」
「問題しかございません。お休みください」
「後で」
「今すぐです」
「後でと言っている」
「千年仕えておりますが、陛下が徹夜明けに『後で』とおっしゃった場合、実際に休まれた試しがございません」
リーシェは二人のやり取りを聞きながら、静かに笑った。
帰ってきた。
ここに帰ってきた。
◇
午後。
リーシェは部屋でお茶を飲んでいた。ナディアが淹れてくれた、魔界の花茶。ほのかに甘い香りがする。
窓の外を見た。庭園の花が、留守の間にさらに増えていた。リーシェがいない間も、一度咲いた花は咲き続けていたらしい。
机の上に、デミウルゴが持ってきた報告書が置いてある。式典後、人間の王都で起きていることの要約。
読んだ。
噂は一夜で広まったようだった。
「魔王の半身がグランハイド公爵家の出身」「公爵家は半身を人身御供として差し出していた」「公爵は式典の場で魔王に公然と糾弾された」
貴族社会の反応は早かった。報告書によれば、式典の翌日から公爵家への訪問者が激減した。社交の誘いが止まった。宮廷での公爵の発言力が目に見えて落ちている。
誰も「公爵家は間違っていた」とは公然と言わない。しかし全員が距離を取り始めている。「あの家は、千年に一度の存在を捨てた家だ」と。
リーシェは報告書を閉じた。
痛快だとは思わなかった。悲しいとも思わなかった。ただ——そうなるだろうと思った。
公爵家は、自分で自分を罰している。リーシェが何かしたわけではない。ゼルヴァーンが壊したわけでもない。公爵家が過去に選んだことの帰結が、今、返ってきているだけ。
それが、公爵家への報いだった。
◇
夕方。勉強会の時間。
図書館に行くと、ゼルヴァーンが先に来ていた。いつもの机に座って、本を読んでいた。デミウルゴに休めと言われたはずだが、ここにいる。
「寝たんですか」
「少し」
「嘘でしょう」
「一時間は寝た」
「三日起きてて一時間ですか」
「千年に比べれば——」
「その比較をやめてください」
ゼルヴァーンが少し笑った。最近、この人が笑う回数が増えた。笑みの幅も広がった。最初はほとんど見えなかった口元の動きが、今ははっきりと笑顔だとわかる。
勉強会が始まった。今日は魔族の歴史書の続き。リーシェの読解力は日に日に上がっている。注釈なしで読める文章が増えた。
一時間ほど経った頃、ゼルヴァーンが本から顔を上げた。
「一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「式典で。あの老婦人のところに行っただろう」
マリーさんのことだ。リーシェが貴族たちの列を離れて、真っ先に会いに行った使用人。
「なぜ彼女を選んだ」
「選んだというか……見つけたので。お世話になった方ですから」
「数百人の中から、一人の使用人を見つけた」
「はい」
ゼルヴァーンが黙った。本に目を落とした。しかし読んでいないのがわかった。目が動いていない。
「君のそういうところが」
声が途切れた。
「……何ですか?」
「何でもない」
言いかけてやめた。耳が赤かった。
リーシェは追及しなかった。でも頬が少し熱かった。
◇
夜。
リーシェが眠りについた頃。
魔王城から遠く離れた、人間の王都。
王宮の書斎で、一人の男が机に向かっていた。
クリストフ。王太子。
蝋燭の光の中で、一通の報告書を読んでいた。式典での出来事の詳細な記録。魔王の隣にいた少女。「半身」と呼ばれた存在。花を咲かせる力。千年の伝説。
クリストフはペンを取った。報告書の余白に、一言だけ書き添えた。
「半身の力。調査を開始せよ」
蝋燭の炎が揺れた。
王太子の青い瞳には、式典で見せた社交的な笑みはなかった。そこにあったのは、冷たく澄んだ計算だけだった。
お読みいただきありがとうございます。
「おかえりなさいませ」
リーシェが初めて聞いた言葉です。十七年間、一度も言われなかった言葉。
この五文字のために、6話分の魔王城の日常を積み上げてきました。
公爵家は静かに沈み始めています。
リーシェは何もしていません。ただ幸せになっただけです。
それが最も残酷な罰であることを、公爵家はこれから知ります。
そして——王都の書斎で、一人の王太子が動き出しました。
蝋燭の下で、あの男はもう筆を執っています。「半身の力。調査を開始せよ」。
この物語には、敵がいます。そして敵は、もう動き始めました。
穏やかな日々は、あと何日でしょうか。次の花が咲くころ、王都からの風が吹きます。




