第16話 あなたが捨てたのだ
宴が進んでいた。
楽団の音楽が広間を満たし、貴族たちが談笑を再開している。しかし話題の中心は一つだった。魔王の半身。グランハイド家の末娘。要らない娘と呼ばれていた少女。
リーシェはゼルヴァーンの傍で、外交官たちの挨拶を受けていた。愛想笑いではなく、一人ひとり丁寧に応じた。名前を聞き、国を聞き、「お会いできて嬉しいです」と言った。嘘ではなかった。こんなに多くの人と話したのは初めてで、怖いけれど嬉しかった。
人波が一瞬途切れた。
その隙間から、一人の男が近づいてきた。
グランハイド公爵。
リーシェの父。
灰色がかった髪。鋭い目。背が高く、姿勢がいい。公爵としての威厳を纏っている。しかしその顔色は蒼白で、額に汗が浮いていた。
リーシェの体が強張った。反射的に。十七年間の記憶が体に刻まれている。この人が近づくと、体が固まる。
ゼルヴァーンが気づいた。半歩、前に出た。リーシェと父の間に、自然と体を入れる位置に。
しかし公爵は立ち止まらなかった。真っ直ぐに歩いてきた。そして——
「リーシェ」
名前を呼んだ。
リーシェは驚いた。父にこの名前で呼ばれた記憶がほとんどない。「末の娘」「お前」。名前で呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「元気そうだな。安心した」
公爵の声は穏やかだった。穏やかすぎた。
「魔王殿。娘をよくしていただいているようで、感謝する」
ゼルヴァーンに向けて、深く頭を下げた。公爵が。あのグランハイド公爵が。社交界で頭を下げる姿を、リーシェは一度も見たことがなかった。
「父としてお礼を申し上げたい。リーシェのことを——」
「娘」
ゼルヴァーンの声が、公爵の言葉を断ち切った。
低い声。穏やかだった。しかし15話の入場時とは違う種類の静けさ。温度がない声。
「娘、と呼ぶのか」
公爵の顔が引きつった。長兄に言ったのと同じ言葉。8話の再現。しかし今度は大広間の中央で、周囲の貴族たちが聞いている場所で。
「ゼルヴァーン陛下、私は父として——」
「父として」
ゼルヴァーンが繰り返した。声に感情はなかった。
「父として、何をされたのか。教えていただきたい」
公爵の唇が震えた。
「魔力がないという理由で、教育を与えなかった。社交界で嗤われるのを黙って見ていた。そして十七歳の娘を、停戦条約の人身御供に差し出した。『お前でちょうどよかった』と言って」
広間のざわめきが止まった。周囲の貴族たちが聞いている。全員が。
公爵の顔から、完全に血の気が引いた。
「それは——事情が——」
「事情」
ゼルヴァーンの声がさらに冷えた。8話でも聞いた、あの冬の湖のような声。
「事情があれば、娘を捨てていいのですか」
公爵が言葉に詰まった。
ゼルヴァーンは振り返らなかった。公爵を見続けた。金の瞳が、すべてを見透かすように。
「今さら『娘をよろしく』と手のひらを返す権利が、あなたにあるとでも」
声が低くなった。最後の一語。
「あなたが捨てたのだ」
公爵の膝が折れかけた。長兄が慌てて父の腕を支えた。しかしヴァルター自身も震えている。
周囲の貴族たちが、目を逸らせないまま見ていた。グランハイド公爵家が——大陸有数の名門が、魔王の言葉一つで崩れかけている。
ゼルヴァーンは背を向けた。もう公爵に用はなかった。
◇
リーシェは、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
ゼルヴァーンが前に出た時、リーシェは下がった。自分で下がった。
見ていた。父が蒼ざめていくのを。長兄が震えるのを。
怒りは——なかった。
不思議なほど、なかった。
8話の時はあった。長兄が来た夜、トラウマが蘇って泣いた。あの時はまだ痛かった。
今は違う。
父の顔を見ても、胸が痛まなかった。恨みもなかった。ただ——遠い人だと思った。十七年間同じ屋根の下にいたのに、こんなに遠い人がいるのだと。
ゼルヴァーンが戻ってきた。
「……言いすぎたか」
リーシェの顔色を伺っている。大陸最強の魔王が、一人の少女の機嫌を気にしている。
「いいえ」
リーシェは首を振った。
「ありがとうございます。でも——もう、大丈夫です」
「大丈夫?」
「あの人たちに認められなくても、もう平気です。怒りもないし、恨みもない。ただ——」
言葉を探した。正確な言葉を。
「もう、振り回されたくないだけです。あの人たちに、自分の感情を使いたくない」
ゼルヴァーンがリーシェを見つめた。長い瞬間。
「……強くなったな」
「ここで、強くなれました」
リーシェは微笑んだ。それは解放の笑みだった。十七年分の鎖が、音もなく外れていく。
◇
宴を抜け出して、バルコニーに出た。
夜風が心地よかった。宮殿のバルコニーからは王都の夜景が見える。灯りが点々と広がっている。その向こうに暗い森。さらにその向こうに、魔王城がある。
二人きりだった。
「式典は、こんなものか」
「楽しかったです。疲れましたけど」
「疲れたか。帰るか」
「もう少しだけ」
夜風がドレスの裾を揺らした。星の光が流れる。ゼルヴァーンがリーシェの隣に立っている。いつもの距離——少し離れた場所。でも前よりは近い。
「ゼルヴァーンさま」
「何だ」
「ありがとうございます。ここに連れてきてくれて」
「礼を言われることではない」
「でも言います。あの場所に立てたのは、あなたが隣にいてくれたからです」
ゼルヴァーンが黙った。夜風が銀灰色の髪を揺らした。
「……僕こそ」
低い声。
「君が隣にいてくれなければ、僕はまだ千年の夜を数えていた」
リーシェは横を向いた。ゼルヴァーンの横顔が月光に照らされている。金の瞳が、遠くの月を見ている。
「花が似合うと言ったのは撤回する」
「え?」
「星も似合う」
リーシェの頬が熱くなった。夜風が吹いているのに、顔が熱い。
「……それは、褒めてるんですか」
「事実を言っている」
真顔だった。この人はいつも真顔で、こういうことを言う。
笑った。声を出して笑った。ゼルヴァーンが少し驚いた顔をした。リーシェが声を出して笑うのは珍しい。でもこの夜は——笑っていいと思った。もう泣かなくていい夜だから。
◇
バルコニーから広間に戻ろうとした時。
リーシェはふと、視線を感じた。
広間の奥。ガラス越しに見える人影が一つ。他の貴族とは少し離れた場所に立って、こちらを見ている。
若い男だった。背が高く、整った顔立ち。金色の髪に、深い青の瞳。王族の礼装を纏っている。胸には王家の紋章。
王太子だ。
リーシェはその顔を知らない。直接会ったことはない。しかし王家の紋章は公爵家の教育で叩き込まれた。あれは王太子クリストフの礼装だ。
クリストフはリーシェを見ていた。品定めをするような——いや、違う。もっと静かな、計算された目。何かを測っているような目。
リーシェがクリストフと目が合った瞬間、クリストフは微かに笑みを浮かべた。社交的な笑みだった。しかし目が笑っていなかった。
ゼルヴァーンの手がリーシェの背中に触れかけて——止まった。しかし声は届いた。
「あの男から目を離すな」
低い声。リーシェにしか聞こえない。
「あれは——危険だ」
リーシェは頷いた。
広間に戻った。楽団の音楽が二人を包んだ。
式典の夜は、まだ終わらない。
お読みいただきありがとうございます。
「あなたが捨てたのだ」
この一言に、すべてが詰まっています。
そしてリーシェが選んだのは怒りでも復讐でもなく、解放でした。
「あの人たちに、自分の感情を使いたくない」
これが、この物語の「ざまぁ」の形です。
さて——バルコニーの向こうで、新しい人物が動き始めました。
王太子クリストフ。目が笑っていない男。
ゼルヴァーンが「危険だ」と言った相手。
式典の夜は、もう少し続きます。
ブックマーク・評価・感想、いつもありがとうございます。
あの王太子の目が気になった方、ぜひ一押しを。




