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要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです ~捨てた公爵家は没落し、私は世界で一番幸せになりました~  作者: 蒼空ルーシェ


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第15話 紹介する

宮殿の廊下は、蝋燭の光で満ちていた。


 人間の王都。リーシェが十七年間過ごした国の、その中心。白い大理石の柱が並ぶ大宮殿は、夜の式典のために何百もの蝋燭と魔導灯で飾り立てられていた。


 廊下を歩いている。ゼルヴァーンの腕に手を添えて。


 周囲には人間の貴族たち。すれ違うたびに道を空ける。魔王が歩いているのだ。当然だ。しかし彼らの視線はゼルヴァーンだけを見ていない。その腕にいる少女を——夜空のドレスを纏った少女を見ている。


 囁きが聞こえる。


「魔王の隣にいるのは誰だ」

「人間の娘……?」

「まさか、噂の——」


 リーシェの心臓が速くなった。左手が微かに震えた。ゼルヴァーンの腕に添えた手に、少し力が入る。


 ゼルヴァーンが気づいた。歩きながら、低い声でリーシェにだけ聞こえるように言った。


「震えているか」


「少し」


「僕の腕を折ってもいい。離すな」


 少しだけ笑えた。腕を折るほどの握力はない。でも「離すな」と言われたことで、指先の震えが少し収まった。



   ◇



 大広間の前。


 二枚の大扉。金と白の装飾。扉の向こうから、楽団の音色と人々のざわめきが漏れ聞こえる。


 扉の前に、式典の司会官が立っていた。人間の男。リーシェたちの姿を見て、深く礼をした。


「魔王ゼルヴァーン陛下。ご入場をお待ちしておりました」


 ゼルヴァーンが頷いた。


「同伴の方のお名前を伺えますか」


 ゼルヴァーンが一瞬、リーシェを見た。金の瞳が穏やかだった。


 そしてリーシェではなく、司会官に向き直って言った。


「紹介は私がする。名を呼ぶ必要はない」


 司会官が戸惑った。しかし魔王に異を唱える者はいない。「かしこまりました」と頭を下げた。


 扉が、ゆっくりと開いた。



   ◇



 光が溢れた。


 大広間。天井からは巨大なシャンデリアが三つ下がり、数え切れない蝋燭の炎が結晶に反射して、空間全体が金色に輝いていた。


 数百人の貴族が広間を埋めている。きらびやかなドレスと礼装。宝石が光っている。香水の匂いが混ざり合っている。楽団が奏でていた曲が、扉が開いた瞬間にぴたりと止まった。


 全員の目が、扉を向いた。


 魔王ゼルヴァーンが入場する。黒い礼装。銀灰色の髪。大陸最強の存在が歩くだけで、空気が変わる。貴族たちが自然と道を空ける。


 そして——その腕に。


 一人の少女がいた。


 夜空のドレス。歩くたびに裾の星が流れる。胸元の花の刺繍が蝋燭の光を受けてきらめく。髪に挿した銀の飾り。


 広間が、静まり返った。


 ざわめきが止まった。楽団も動かない。数百人の貴族が、息を止めて二人を見ている。


 リーシェの心臓が叫んでいた。逃げたい。こんなに大勢の人間の前に立つのは初めてだ。社交界にはいたけれど、いつも壁際で、誰にも見られずに。今は全員が見ている。全員の目が自分を見ている。


 でも——隣にいる人の腕は揺るがなかった。一歩一歩が、確かで、静かで、王の歩みだった。


 リーシェはゼルヴァーンの歩調に合わせた。背筋を伸ばした。足が震えていても、顔は上げた。


 広間の中央まで来た。


 ゼルヴァーンが立ち止まった。


 全員の視線が集まっている。大陸の人間側の権力者たちが、一人残らず見ている。


 ゼルヴァーンが口を開いた。声は大きくなかった。しかし広間の隅々まで響いた。千年の王の声は、そういうふうにできている。


「紹介する」


 一語ずつ、刻むように。


「我が"半身"——この世界で唯一、私と対を成す存在」


 広間に衝撃が走った。半身。その言葉の意味を知る者は多くない。しかし知っている者は、文字通り凍りついた。伝説の中にしか存在しないはずの、千年に一度の存在。


「リーシェだ」


 名前を呼んだ。敬称なく、肩書なく。ただの名前で。


 しかしその呼び方が、すべてを語っていた。この名前が魔王にとってどれほどの重さを持つか。千年待った存在を、世界で最も大切なものを呼ぶ声。


 広間がざわめいた。「リーシェ」「まさか」「グランハイド家の」——断片的な囁きが波紋のように広がっていく。



   ◇



 広間の左側。


 グランハイド公爵が立っていた。


 杯を持ったまま、凍りついていた。


 隣にいる長兄ヴァルターは既に蒼白だった。魔王城での記憶が蘇っている。「公爵家ごと消す」と囁かれた夜。震える足で、何とか立っている。


 次兄は口を半開きにして、信じられないものを見る目をしていた。「あの出来損ないが」と、頭の中で繰り返している。しかし目の前にいるのは出来損ないではない。夜空のドレスを纏って魔王の腕に立つ、この広間の誰よりも美しい少女。


 公爵の杯が傾いた。酒が手にこぼれた。気づいていない。


 あの娘だ。


 あの——「お前でちょうどよかった」と言った、あの娘だ。


 それが、魔王の「半身」。千年に一度の存在。伝説の中の存在が、自分の家から出た。自分が、捨てた。


 公爵の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。



   ◇



 リーシェは広間を見渡した。


 知っている顔がいくつかある。社交界で何度か見かけた貴族たち。リーシェを「グランハイド家の恥」と呼んだ人たちもいる。


 全員が、リーシェを見ている。


 怖い。でも、もう壁際にはいない。今度は広間の中央にいる。隣には、名前を呼んでくれる人がいる。


 ゼルヴァーンがリーシェを見下ろした。金の瞳が、リーシェだけを映している。広間の数百人は目に入っていない。


「よく頑張った」


 小さな声。リーシェにしか聞こえない。


「震えていなかった」


「……嘘です。ずっと震えてました」


「腕は感じなかった」


「我慢しました」


 ゼルヴァーンの口元が動いた。微笑み。蝋燭の光の中で、金の瞳が温かく光った。


 広間がざわめいている。しかし二人の間には、静かな空間があった。数百人の中で、二人だけの静寂。



   ◇



 宴が再開した。楽団が演奏を始めた。貴族たちが動き始める。しかし空気は変わっていた。リーシェの周囲には、明らかに人が集まってきていた。


 外交官が挨拶に来た。他国の貴族が名刺を差し出した。「半身さま」と呼ばれた。ここでも。


 リーシェが次々と挨拶を受けている間、ゼルヴァーンは半歩後ろに立っていた。腕はもう組んでいない。でも離れない。影のように。


 人波の隙間から、リーシェは一人の老婦人を見つけた。


 広間の隅に立っている。使用人の服を着た、白髪の老婦人。背が小さく、皺が深い。


 ——マリーさん。


 公爵家の料理番だった人。リーシェが出発する朝、裏口で目を赤くしていた人。


 リーシェは動いた。


 挨拶の列を離れ、人波をすり抜け、広間の隅に向かった。ゼルヴァーンが一瞬驚いたが、追いかけなかった。リーシェが向かう先を見て、何かを理解したように、静かに見守った。


 老婦人の前に立った。


「マリーさん」


 老婦人が顔を上げた。リーシェを見た。目が見開かれた。口元が震えた。


「お嬢——お嬢様……?」


「お久しぶりです」


 リーシェは両手で老婦人の手を取った。皺だらけの、温かい手。朝食のパンを焼いてくれた手。リーシェが泣いている時に、台所の隅でこっそり蜂蜜入りのミルクを出してくれた手。


「……こんなに、お綺麗に」


 マリーの目から涙が溢れた。


「お元気で……お元気で、よかった……」


「マリーさんのパンの匂いで目が覚める朝が、好きでした」


 一話でも言った言葉。あの朝、裏口で別れた時と同じ言葉。でも今は、涙ではなく笑顔で。


 マリーが泣いた。声を殺さずに。広間の隅で、小さな老婦人が、嬉しくて泣いていた。


 リーシェも泣きそうだった。でも今日は泣かない。今日は笑う日だ。


 立ち上がった。


 広間を振り返った。


 数百人の貴族が、まだリーシェを見ている。その中に、公爵家の家族がいる。凍りついた顔で。


 リーシェは見なかった。見る必要がなかった。


 ゼルヴァーンのもとに戻った。腕に手を添えた。


「お待たせしました」


「いや」


 ゼルヴァーンの声が穏やかだった。


「——いい顔をしている」


 リーシェは微笑んだ。夜空のドレスの裾が、蝋燭の光を受けて星のように輝いていた。


 これが今の自分だ。


 要らない娘ではない。出来損ないでもない。


 魔王の半身でもなく。


 ただの——リーシェだ。

お読みいただきありがとうございます。


「紹介する。我が半身——リーシェだ」


1話で馬車に乗せられた少女が、15話で大陸の中心に立ちました。


公爵家の杯から酒がこぼれたこと。

料理番のマリーさんが泣いたこと。

そしてリーシェが最後に思ったことが「魔王の半身」ではなく「ただのリーシェ」だったこと。


全部、覚えていてください。


次回、式典の夜はまだ続きます。

公爵家の父が、リーシェに近づいてきます。


ブックマーク・評価・感想、心の底から感謝しています。

この物語がここまで来られたのは、読んでくださる皆さまのおかげです。

一押し、一言が、花を咲かせます。

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