第13話 招待状
朝の光の中で、リーシェは笑っていた。
庭園の花に水をやりながら、隣にしゃがみ込んだ子供に何かを話している。子供が笑う。リーシェも笑う。花が揺れる。
ゼルヴァーンは塔の窓からそれを見ていた。
もう何日こうしているだろう。彼女が庭に出る朝は、必ずここに来て、この窓から見ている。側近としての報告があるふりをして執務室を抜け出し、塔の階段を三段飛ばしで上る。千年の魔王にあるまじき行動だが、やめられない。
笑っている。
公爵家にいた頃は、あんなふうに笑わなかっただろう。誰にも見られていないと思っている時の、力の抜けた笑顔。自分が花に触れるたびに小さな奇跡が起きることに、まだ少し驚いている顔。子供に懐かれて困りながらも嬉しそうな顔。
全部知っている。この窓から、全部。
見ているだけでいい、と思っていた。千年間そうしてきた。遠くから見ていれば、失わずに済む。手を伸ばさなければ、壊さずに済む。
でもあの夜、彼女の方から手を伸ばした。
指先が触れた。温かかった。消えなかった。
三十六万五千の夜を数えた手に、彼女の指が重なった。
まだ怖い。
怖いことに変わりはない。でも、もう逃げたくない。
「陛下」
背後の声。デミウルゴ。今度は本当に報告がある声だった。
「人間の王都から書状が届いております」
ゼルヴァーンは窓から目を離さなかった。
「内容は」
「停戦記念式典への招待です。人魔双方の要人が出席する公式行事。陛下にも参列が求められています」
「例年通りか」
「例年通りです。ただし——」
デミウルゴが間を置いた。
「今年は、半身さまの同行を求める一文が添えられております」
ゼルヴァーンの目が窓の外から離れた。振り返った。
「誰が書かせた」
「人間側の宮廷です。魔王の半身が見つかったという噂は、長兄殿の帰還以降、王都に広まっているようで」
ゼルヴァーンの目が細くなった。冷たい光が宿る。
「見世物にするつもりか」
「おそらくは、確認です。噂の真偽を。そして——」
デミウルゴが眼鏡を直した。
「グランハイド公爵家にとっては、最も見たくない光景になるでしょう。自分たちが捨てた娘が、魔王の隣に立って戻ってくるわけですから」
沈黙。
ゼルヴァーンは窓の外に目を戻した。庭園でリーシェが立ち上がるところだった。子供たちに手を振っている。花弁が風に舞っている。
「リーシェに伝える。ただし——」
「ただし?」
「彼女が行きたくなければ行かない。強制はしない」
「もちろんです」
「だが」
ゼルヴァーンの声に、微かな熱が混じった。
「彼女が行くと言うなら。僕の隣で行く。公爵家の前で。社交界の全員の前で。世界に見せる」
デミウルゴは黙って頷いた。主の目が変わっていた。冷たい怒りではない。静かな決意だった。
「彼女を捨てたことが、どれほどの過ちだったか。一人残らず思い知らせる」
◇
午後。
図書館の勉強会。最近は毎日続いていた。リーシェは魔族の文字をかなり読めるようになっている。簡単な文章なら辞書なしで読める。覚えが早い。
ゼルヴァーンはそれを「当然だ」と思っている。彼女は聡明な人間だ。公爵家が教育を与えなかっただけで、能力がなかったわけではない。与えられれば、誰よりも速く吸収する。
勉強会が終わった後、ゼルヴァーンが切り出した。
「一つ、聞きたいことがある」
リーシェが顔を上げた。最近は目を合わせるのが自然になった。あの夜から。名前を呼んでからは、距離が明らかに変わった。
「人間の王都で、式典がある。停戦の記念行事だ。僕は毎年出席している」
「はい」
「今年は——君にも来てほしいと、人間側から要請があった」
リーシェの表情が変わった。
王都。人間の社交界。公爵家。
あの場所に、戻る。
「……私が行くんですか」
「君が行きたくなければ行かない。無理にとは言わない」
ゼルヴァーンの声は穏やかだった。でもリーシェには見えていた。この人が何を考えているか。あの夜、扉越しに声を聞いた時から、この人の声の奥が少し読めるようになった。
この人は、怒っている。
リーシェを捨てた場所に対して。リーシェを「要らない」と呼んだ人間たちに対して。静かに、深く、千年の重さで。
そして——リーシェの輝きを、あの連中に見せつけたいと思っている。
「君を捨てた場所に、僕の隣で戻る。それが君の望みでなければ行かない。でも——」
言葉を切った。目を逸らした。
「君の輝きを、あの連中に見せつけたいと思うのは、僕の我儘だ」
我儘。千年の魔王が、我儘と言った。
リーシェは少し笑った。笑えた。あの場所の名前を聞いても、笑えるようになった。
十七年過ごした場所。一度も「おかえり」と言われなかった場所。もう帰る場所ではない。でも——行くことはできる。
今の自分なら。
「行きます」
ゼルヴァーンが振り返った。
「……いいのか」
「はい」
リーシェは背筋を伸ばした。あの日自分に約束したこと。自分で考えて、自分で動く。
「私がここでいただいたものを、あの人たちに見せたいわけじゃありません。見返したいわけでもありません。ただ——」
少し言葉を探した。
「もう怖くないことを、自分で確かめたいんです。あの場所に立っても、もう私は揺るがないって。それを知りたい」
ゼルヴァーンが黙ってリーシェを見つめた。長い瞬間。金の瞳の中で何かが動いた。
「……強い人だ」
「強くないです。ただ——ここで強くなれただけです」
ゼルヴァーンの口元がかすかに動いた。笑みだった。初めて会った時には想像もできなかった、穏やかで、温かい笑み。
「では、準備をしよう」
「準備?」
「式典に出るなら、装いがいる。魔王の隣に立つのだ。それなりのものを用意する」
「それなりって——」
「最高のものだ。この城の職人に任せろ」
ゼルヴァーンの声が、ほんの少しだけ弾んでいた。いつもの不器用な無表情の奥で、何かを楽しみにしているのがわかった。
リーシェは気づいた。
この人は——リーシェのドレス姿を、見たいのだ。
顔が熱くなった。
◇
夜。
リーシェは窓辺に立っていた。二つの月を見上げている。
王都に行く。式典に出る。ゼルヴァーンの隣で。
公爵家の家族がいる場所に。長兄が。次兄が。父が。
怖くないと言ったら嘘になる。左手が少し震えた。でも——隣にあの人がいる。名前を呼んでくれる人がいる。
机の上に半身の伝説の本が置いてある。花のしおりが挟まったまま。その横に、弟がくれた花の押し花。ナディアに教わって、自分で作った。
リーシェは押し花を撫でた。
——アルト。お姉ちゃん、あの場所に戻るよ。
怖いけど、もう大丈夫。
二つの月が窓の外に光っている。左の月は——今夜、いつもより丸く見えた。
第3章「逆転」開幕。
第3章「逆転」、開幕です。
「君の輝きを、あの連中に見せつけたいと思うのは、僕の我儘だ」
この我儘を聞いた時、リーシェが笑えたこと。
それだけで、12話分の積み重ねは無駄じゃなかったと思います。
さて。式典に向けて、ドレスが仕立てられます。
魔王城の職人が本気を出します。
ゼルヴァーンがリーシェのドレス姿を見た時のリアクションも、お楽しみに。
そして——あの舞踏会で、公爵家の全員が立ち尽くす日が来ます。
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皆さまの一押しが、この物語を動かしています。
次回、第14話。ドレスの話です。




