第12話 名前
夕暮れ。
ゼルヴァーンが迎えに来た。
部屋の入口ではなく、廊下で待っていた。いつもより少しだけ身なりが整っていて、銀灰色の髪が丁寧に梳かされていた。
「来てくれるか」
「はい」
二人で歩いた。ゼルヴァーンが先を行き、リーシェが半歩後ろをついていく。いつもの距離。手を伸ばしても届かない距離。
城の奥へ。リーシェがまだ行ったことのない区画。廊下の装飾が変わる。壁の紋様がより古くなり、灯りが少なくなる。空気が静かになる。
突き当たりに、扉があった。
見覚えがある紋様。花の装飾。初めてこの城に来た日、謁見の間で見た扉と同じ意匠だが、こちらの花は枯れていなかった。いや、枯れていたものが最近手入れされた跡がある。金の装飾が磨き直されている。デミウルゴの仕事だろう。
ゼルヴァーンが扉の前で立ち止まった。
振り返らなかった。扉に手をかけたまま、背中を向けている。
「この庭は、千年間閉じていた」
低い声。静かだが、どこかに力が入っている。
「昔——大切な人がいた場所だ」
リーシェは黙って聞いていた。
「ずっと開けられなかった。開ければ、思い出す。あの日のことを」
背中が微かに震えている。
「でも今は——君に、見てほしい」
扉が開いた。
◇
月の庭園。
名前の通りだった。
扉の向こうは屋外で、頭上に空が広がっていた。城壁に囲まれた小さな庭園。中央に古い泉があり、周囲を花壇が取り囲んでいる。
花壇は、枯れていた。
城の表の庭園はリーシェの力で花が咲いたが、ここはまだ灰色のままだった。千年前の花の残骸が、灰のように堆積している。泉の水は涸れ、石は苔に覆われている。
でも——空だけは美しかった。
二つの月が、真上にあった。
城壁が月光を反射して、庭園全体が青白い光に包まれている。枯れた花壇も、涸れた泉も、月の光の中では穏やかに見えた。
「ここに、花を咲かせてほしい」
ゼルヴァーンが言った。リーシェの方を見ていた。月光に照らされた金の瞳が、静かに揺れている。
「千年前の花は、もう戻らない。でも——新しい花を」
声が途切れた。
リーシェには、わかった。この人がどれほどの覚悟でこの扉を開けたか。千年間触れなかった場所を、自分に差し出している。過去を抱えたまま、それでも前に進もうとしている。
リーシェは靴を脱いだ。
素足で枯れた土の上に立った。冷たい。でも——生きている。土はまだ生きている。千年の間枯れていても、死んではいない。ただ眠っていただけ。
この庭と同じだ。この人と同じだ。
リーシェは両手を地面についた。
目を閉じた。
——咲いて。
光が溢れた。
両手から。膝から。素足から。体全体から淡い金色の光が染み出して、土の中に流れ込んでいった。
音が聞こえた。土が割れる小さな音。芽が伸びる音。葉が開く音。
目を開けた。
花が咲いていた。
白い花。青い花。紫の花。表の庭園と同じ花だが、ここでは月光を浴びて、すべてが銀色に輝いていた。泉の縁から、水が湧き出していた。小さな流れが石の間を伝って、花の根元を潤している。
庭園全体が、息を吹き返していた。
ゼルヴァーンは動かなかった。
花を見ていた。月光の庭園に咲いた、千年ぶりの花を。
涙は流さなかった。初めて会った夜とは違った。今度は泣かなかった。ただ、目を細めて、長い息を吐いた。千年の何かを、吐き出すように。
「——ああ」
声が漏れた。独り言だった。
「咲いた」
それだけだった。でもその二文字に、千年のすべてが入っていた。
◇
二人は泉のそばに腰を下ろした。
花に囲まれて。月光の下で。
しばらく何も言わなかった。言葉がいらなかった。花の匂いが漂っている。泉の水音が静かに響いている。二つの月が空にあって、今夜は——左の月の欠けが、はっきりと小さくなっている。
ゼルヴァーンが口を開いた。
「千年の夜を、僕は一日も欠かさず数えていた」
リーシェは静かに聞いていた。
「最初の百年は、怒りで数えた。次の百年は、悲しみで。その次は後悔で。そしてどこかから、数えること自体が目的になった。数え続けていれば、まだ待っていると思えたから」
月を見上げている。千年前と同じ月。でも隣にいる人は違う。
「三十六万五千と、少し。それが、僕が数えた夜の数だ」
リーシェの目から涙が溢れた。三十六万。数字の途方もなさ。一日一日を、一人きりの夜を、指折り数え続けた千年。
「でも——」
ゼルヴァーンがリーシェの方を向いた。金の瞳が、月光の中で温かく光っていた。空洞ではなかった。初めて会った夜に見た空虚な目ではなかった。今、この瞳の中には、ちゃんと光がある。
「もう数えない」
声が穏やかだった。千年の重さを全部降ろしたような声。
「君がここにいる。それだけで、千年は報われた」
リーシェは泣いていた。声を殺さずに。初めて。ここでは声を殺さなくていいから。
ゼルヴァーンが名前を呼んだ。
敬称なく。肩書なく。ただの名前を。
「リーシェ」
呼ばれた。
十七年間、そんなふうに名前を呼ばれたことがなかった。「お前」「末の娘」「出来損ない」「要らない娘」。名前はあったけど、呼ばれなかった。弟だけが「ねえさま」と呼んでくれた。でも名前は呼ばなかった。
今、この人が呼んだ。
リーシェ、と。
ただそれだけの、五文字の音が、世界で一番温かかった。
「私の名前を、そんなふうに呼んでくれた人は——」
声が震えた。
「初めて、です」
ゼルヴァーンの目が潤んだ。泣きはしなかった。でも、唇が震えた。
リーシェは手を伸ばした。
自分から。
ゼルヴァーンの手に——そっと、手を添えた。
指先が触れた。
ゼルヴァーンの体が強張った。息が止まった。指先が震えている。手を引こうとする反射が、全身を走ったのがわかった。
でもリーシェは離さなかった。
「大丈夫です」
静かに言った。あの夜、扉越しに言えなかった言葉を。
「触れても、私はここにいます」
ゼルヴァーンの震えが、ゆっくりと止まった。
指先から。手のひらから。腕から。全身の強張りが、少しずつ、溶けていった。
花が咲いている。月が照らしている。泉が流れている。
二人の手が重なっている。千年と十七年の孤独が、指先でようやく触れ合っている。
「——リーシェ」
もう一度。名前を呼んだ。今度は震えていなかった。
リーシェは微笑んだ。涙の跡が頬に光っている。
「はい。ここにいます」
◇
夜が更けた。
リーシェは部屋に戻り、眠りについた。花のしおりを挟んだ本を枕元に置いて。窓辺の花瓶に、月光が差している。
月の庭園。
ゼルヴァーンは一人で花の中に立っていた。
リーシェが咲かせた花を見つめている。千年前の花とは違う花。でも同じ光を持つ花。
右手を見た。リーシェの指が触れた手を。まだ温かい。
——触れた。
触れて、消えなかった。
千年前は、触れた瞬間に、光が弾けて、あの人は消えた。目の前で。手の中で。何も残らなかった。花弁一枚すら。
今は——触れて、まだここにいる。
ゼルヴァーンは目を閉じた。
千年前も、こうして月の庭園に立っていた。あの人と二人で。花に囲まれて。同じ月の下で。
あの時、僕はあの人の手を取った。
そして朝が来なかった。
「——今度こそ」
声にならない声。祈りだった。
「今度こそ、朝が来ますように」
月の庭園で、千年ぶりの花が揺れている。
二つの月が空に並んでいる。左の月の欠けは、確かに小さくなっていた。
第2章「寵愛」了。
お読みいただきありがとうございます。
「リーシェ」
「はい。ここにいます」
この二行を書くために、物語を始めました。
要らない娘と呼ばれた少女の名前が、千年の孤独の果てに、世界で一番温かい音で呼ばれた夜。
ここまでが、この物語です。
『要らない娘と呼ばれた私を、魔王は千年待っていたそうです』、完結です。
十二話にわたってお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。
ブックマーク、評価、感想、すべてが花のように咲いて、ここまで書き続ける力になりました。
ただ——正直に申し上げると、この先の物語が、頭の中にあります。
ゼルヴァーンが触れるのを恐れた本当の理由。
「朝が来なかった」夜に、何が起きたのか。
リーシェが捨てられた場所に、魔王の腕で戻る日のこと。
あの舞踏会で、公爵家の全員が凍りつく夜のこと。
書きたい物語が、まだたくさんあります。
もし「続きが読みたい」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、ブックマーク・評価・感想で教えてください。
皆さまの声が届いたら、第3章「逆転」を書き始めます。
この物語の花を咲かせるのは、いつもあなたの一押しです。
改めて、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
蒼空ルーシェ




