第七話 似た傘
また、傘を忘れた。
今度は帰りの電車の中だった。座席の横の手すりに引っかけて、降りるときにそのまま置いてきた。ホームに降りて、扉が閉まって、電車が動き出してから気づいた。窓の向こうを、紺色の傘が流れていった。
自分に腹が立った。メモまで作ったのに。次になくしたらちゃんと言えるように、なんて考えていたくせに、なくさないようにすることは考えていなかった。
翌日の昼休み、会社を抜けて駅の忘れ物センターへ行った。蛍光灯は、まだ切れかけたままだった。
窓口には先客がいた。私と同じくらいの年の女の人だった。ベージュのコートに、肩までの髪。どこにでもいる、感じのいい人だった。
「紺色の長傘です」と、その人は言った。
私は、少し後ろに立って順番を待った。
「持ち手は曲がっているタイプで、曲がり始めのところに、透明のテープを二重に巻いてあります。端が少しめくれています」
窓口の人が、ペンを走らせた。
「骨が一本、緩かったんですけど」
その人は、少し照れたように笑った。
「夫が直してくれて。だから今は、緩んでいないと思います。あと、留め具のボタンが少し固くて、二回押さないと留まらないです」
私は、自分の傘の留め具のことを思い出そうとした。固かっただろうか。二回押していただろうか。わからなかった。毎日触っていたはずなのに。
窓口の人が奥へ行って、一本の傘を持って戻ってきた。
私の傘だった。
持ち手のテープ。めくれた端。遠目にも、それがわかった。
その人は傘を受け取って、留め具のボタンを押した。一回目は留まらなかった。二回目で、ぱちんと留まった。
「これです。ありがとうございます」
言わなければ、と思った。それは私の傘です、と。でも、何を根拠に言えばいいのかわからなかった。あの人は、私よりずっと正確に、あの傘のことを知っていた。私が言えたのは、紺色と、普通の、だけだった。
書類に名前を書き終えたその人が、振り返った。目が合った。
「似た傘、多いですよね」
その人は、私の手元を見て、にこりと笑った。私が傘を持っていないことを、気の毒がるような笑い方だった。それから軽く会釈をして、通路を出ていった。
「お待たせしました。お忘れ物ですか」
窓口の人が、私に言った。前と同じ人だった。
「傘を」
「特徴を伺えますか」
「紺色の……」
そこで、言葉が止まった。
窓口の人はペンを止めて、続きを待っていた。私のことを覚えているのかどうか、その顔からはわからなかった。
「……いえ。もう、ないみたいです」
外は、また雨が降り出していた。駅の売店でビニール傘を買う気にもなれなくて、私は会社まで濡れて歩いた。
その夜、修が玄関で言った。
「傘は?」
「もう、いい」
「いいって」
「似た傘、多いから」
修は不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かなかった。タオルを持ってきて、私の髪を拭いてくれた。表のまま、裏返さずに。




