第六話 電話
母からの電話は、だいたい夜の九時過ぎにかかってくる。
「お父さんがね、また庭の木を勝手に切って」
母の話は、いつも父の愚痴から始まる。庭の木、テレビの音量、病院に行かないこと。父は七十を過ぎてから、何でも自分でやりたがるようになった。母はそれを止められないことに、毎回同じだけ腹を立てている。
「言っても聞かないのよ。あんたから言ってやって」
「私が言っても聞かないよ」
「聞くわよ。あんたの言うことは聞くの、昔から」
そんなことはない。父は、私の言うことも聞かない。でも、そう言うと長くなるので、私は「今度言っとく」と答えた。
それから母は、近所の誰かが入院した話をして、いとこが結婚するかもしれない話をして、最後にいつもの質問をした。
「ちゃんと食べてるの」
「食べてるよ」
「修さんとは」
「仲良くしてるよ」
ここまでが、母との電話の決まった形だった。あとは「じゃあね」で終わる。
「そうよね」と母は言った。「この前電話くれたとき、元気そうで安心した」
私は、スマホを耳に当てたまま、台所の壁を見た。
「この前?」
「先週。木曜だったかしら。あんたから電話くれたじゃない、珍しく」
かけていない。私から母に電話することは、ほとんどない。用事があればメッセージを送る。電話はいつも、母からだ。
「修さんとも仲良くやってるって。茄子の揚げびたしを作ってもらったって」
「……うん」
「声がね、昔のあんたみたいだった」
母の声が、少し柔らかくなった。
「最近ずっと、疲れた声だったでしょう。仕事が大変なのかなって、お父さんとも話してたのよ。でも、この前は違った。高校生のころみたいな、明るい声で。ああ、もう大丈夫なんだなって」
母は嬉しそうだった。本当に、嬉しそうだった。
「……そっか」
「また電話してね。ああいう声、聞きたいから」
「うん」
電話を切って、発信履歴を開いた。
先週の木曜日。母への発信は、なかった。私のスマホからは、誰にもかけていなかった。
警察署に、もう一件届いていたスマホのことを思った。同じ機種で、同じケースの。
考えるのをやめて、洗面所に行った。
鏡の前で、口を開いた。
「元気だよ」
自分の声が、狭い洗面所に響いた。疲れた声、だと思った。母の言うとおりだった。
もう一度言った。
「元気だよ」
少しだけ、高くしてみた。口角を上げて、高校生のころの自分を思い出しながら。
「元気だよ。修とも、仲良くやってる」
鏡の中の私は、ちゃんと笑っていた。母が聞きたがっている声に、少しずつ近づいている気がした。
近づいて、そのあと、どこに行くのかは、考えなかった。




