第十二話 台所
家まで、一時間かかった。
住宅街の道は暗くて、静かだった。どの家の窓にも、明かりがついていた。カーテンの隙間から、テレビの光がちらちらと漏れていた。夕飯の匂いがした。カレーと、焼き魚と、何かを炒める匂い。
歩きながら、修に何と言おうか考えた。財布をなくしたこと。警察で言われたこと。昨日、誰かが私の財布を受け取っていったこと。
修は、きっと笑うだろう。「警察のミスだろ」と言うだろう。それから、お茶をいれてくれるだろう。それでいいと思った。笑ってほしかった。私の考えすぎだと、言ってほしかった。
角を曲がると、家が見えた。
台所の明かりが、ついていた。
門の前で立ち止まった。換気扇が回っていた。出汁の匂いと、油の匂いがした。
茄子を揚げている匂いだった。
笑い声が聞こえた。
修の声だった。何か冗談を言って、自分で笑っている。修がよくやる笑い方だ。
それに、もう一つの笑い声が重なった。
女の人の声だった。少し高くて、明るくて、語尾が跳ねる笑い方。
私の笑い方だった。
高校生のころの、私の笑い方だった。母が「ああいう声、聞きたい」と言っていた、あの声だった。
鞄に手を入れて、鍵を探した。
なかった。
鍵は、玄関のトレイの上だ。木のキーホルダーのついた鍵は、ハガキが届いて、返還済みになって、トレイの上に、まっすぐに並んでいる。
インターホンに、指を伸ばした。
押せなかった。
台所の窓は、すりガラスだった。それでも、中にいる二つの影は見えた。背の高いほうが、修だ。もう一つの影が、修の隣に立って、何かを皿に盛っている。
その影が着ている服の色が、ぼんやりと見えた。
薄い灰色の、ゆったりしたカーディガン。私が家で着ている物だった。
「これ、好きになったよな」
修の声が、窓越しに聞こえた。
「うん」と、もう一つの声が答えた。「前から好きだよ」
私は、門の前の低いブロック塀に腰を下ろした。
足が、ひどく疲れていた。一時間歩いたのだから、当たり前だった。
鞄の中で、スマホが震えた。
母からだった。メッセージが一通。
『今日も電話ありがとうね。元気そうで、お母さん本当に安心しました。修さんにもよろしく』
画面の光が、暗い道に小さく浮かんでいた。
台所から、また二人の笑い声がした。




