第十話 三木さん
スーパーの野菜売り場で、茄子を選んでいた。
三本で一袋。どれも同じに見えるけれど、袋を持ち上げると重さが少しずつ違う。重いほうが、水分が多くておいしい。母が教えてくれた。
二つめの袋を持ち上げたとき、隣から手が伸びてきた。
「あ」
同じ袋を、二人で持っていた。
「すみません」
「いえ、どうぞ」
顔を上げると、ベージュのコートの、あの人だった。駅の忘れ物センターで、私の傘を受け取っていった人。
その人も、私の顔を見て、ぱっと表情を明るくした。
「あ、三木さん」
心臓が、一回だけ大きく鳴った。
「この前はどうも」
「……どうも」
名前を、教えた覚えはなかった。でも、あの日、窓口の書類に名前を書いていたのを、見られたのかもしれない。そういうことは、ある。
その人は、私に茄子の袋を譲って、自分は隣の袋を取った。
「茄子、お好きなんですか」
「ええ、まあ」
「うちの人も、最近茄子ばっかりで。揚げびたしにすると、すごく喜ぶんです」
その人は、少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「前はそんなに食べなかったんですけどね。好みって、変わるんですね」
私は何か答えた。何と答えたのかは、覚えていない。たぶん「そうですね」とか、そういうことだ。
「あの」と私は言った。「お名前、伺っても」
その人が口を開いたのと同時に、天井のスピーカーから店内放送が流れた。
『本日、卵の特売は、お一人様一パックまでとさせていただきます――』
放送が終わったとき、その人はもう、軽く頭を下げて、通路の向こうへ歩き出していた。聞き返す間はなかった。
私は、その人の後ろ姿を目で追った。
その人の買い物かごの中身が見えた。
茄子が一袋。生姜。白だし。木綿豆腐。ほうれん草。牛乳。食パン。
私は、自分のかごを見下ろした。
茄子が一袋。生姜。白だし。木綿豆腐。ほうれん草。牛乳。食パン。
同じだった。順番まで、同じように見えた。
レジの列に並んでいるその人の背中は、少しも急いでいなかった。誰かが待つ家に帰っていく人の、落ち着いた背中だった。
私は売り場に戻って、茄子の袋を棚に返した。
生姜も、白だしも返した。豆腐も、ほうれん草も、牛乳も、食パンも返した。
空になったかごを持って、私はしばらく売り場に立っていた。
今夜、何を食べればいいのか、わからなかった。




