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契約   作者: 時ノやんざ(ときのやんざ)
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8/9

精神世界


精神世界に引き込まれてしまった。


そう理解するまでに、少し時間がかかった。


体の感覚が薄い。


手を動かしているつもりでも、本当に動いているのか分からない。


足元に地面があるようで、ない。


暗いようで、明るい。


水の中にいるような。


夢の中にいるような。


けれど、意識だけは妙にはっきりしていた。


「……最悪だな」


俺は小さく呟いた。


声は出た。


だが、それも耳で聞こえたというより、頭の中に響いたような感覚だった。


ここは現実じゃない。


少なくとも、さっきまでいた爺さんの部屋ではない。


指輪。


欠けた輪。


女の声。


そして、俺の奥で焼けるように反応した真名。


鏡月。


その名前を思い浮かべただけで、胸の奥がじくりと痛んだ。


真名。


それが何なのか、俺にもよく分からない。


ただ、俺の真名は鏡月。


そう言われた。


最初に聞いた時は、どうでもよかった。


突然だが、俺は湊だ。


たぶん、それが俺の名前だった。


苗字は……佐々木、だったと思う。


佐々木湊。


口に出してみると、妙に遠い。


自分の名前のはずなのに、長い間使っていない道具みたいに、手に馴染まない。


忘れていたわけじゃない。


いや。


忘れかけていたのかもしれない。


あれ。


俺の名前、なんだったっけ。


そんな風に思うことがある。


ノアと呼ばれすぎたせいだ。


ノア。


ノア。


ノア。


何度もそう呼ばれるうちに、俺は振り向くようになった。


カードに刻まれている名前を、自分のものとして扱うようになった。


俺は普通に生きていた。


中学に行って。


高校に行って。


その後、社会に出て。


色々な仕事をしてみたいと思っていた気がする。


何になりたかったのかは、よく覚えていない。


それでも、何かをしようとしていた。


生きていた。


親もいた。


兄弟もいた。


結婚は……していたのだろうか。


分からない。


誰かと暮らしていた気もする。


一人だった気もする。


思い出そうとすると、輪郭だけがぼやける。


写真の中の顔だけが塗り潰されているみたいに、肝心なところが抜け落ちている。


でも、何となくは覚えている。


部屋。


布団。


夜。


スマホの明かり。


閉め切ったカーテン。


何でもない日だったはずだ。


俺は一人で部屋で寝ていた。


たぶん、そうだ。


そして目が覚めた時。


俺は、ノアと呼ばれていた。


「ノア」


声が聞こえた。


それすら最初は分からなかった。


ただ、声だけがあった。


ふわふわと浮いているような気分だった。


水に沈んでいるようで、空に浮いているようでもあった。


「ノア」


また呼ばれる。


違う。


俺はそう言いたかった。


俺はノアじゃない。


俺は湊だ。


そう言いたかった。


けれど、声は出なかった。


ただ、何度も呼ばれた。


ノア。


ノア。


ノア。


気がついた時、俺はカプセルのような場所にいた。


透明な壁。


白い光。


遠くで動く人影。


誰かが俺を覗き込んでいた。


「起きたか」


その声を聞いた瞬間、俺は初めて目を開けた。


いや、目を開けたのかどうかも怪しい。


だが、光が見えた。


天井が見えた。


知らない世界が見えた。


そこから俺は外へ出された。


歩かされた。


服を着せられた。


食べ物を与えられた。


言葉を教えられた。


そして、ノアと呼ばれた。


俺はそういうものなのだと思った。


目が覚めたら知らない場所にいて、知らない名前を与えられて、知らない役割を押し付けられる。


意味はよく分からなかった。


けれど、何も分からない時ほど、人は流される。


少なくとも俺はそうだった。


抵抗するには、俺は何も知らなさすぎた。


その後だった。


真名、鏡月。


突然、そんな風に言われたのは。


「これがお前の真名だ」


誰かがそう言った。


誰だったかは覚えていない。


その時の俺は、ただぼんやり聞いていた。


ノアでも湊でもない名前。


鏡月。


それが何を意味するのか、何に使われるのか。


そんなことは、どうでもよかった。


俺はまだ、何も分かっていなかった。


この世界のことも。


契約のことも。


そして。


その名前に触れることが、どれだけ危険なのかも。


何も知らなかった。


暗闇の奥で、声がした。


『思い出した?』


俺は顔を上げる。


そこに、光があった。


月のように白い光。


鏡のように揺れる光。


その中心に、誰かが立っている。


さっき光の向こうにいた女だ。


顔は……何となく分かるような気がする。視界がぼやけてはいるが。


けれど、声だけは分かる。


俺を見つけた声。


俺を迎えに来た声。


俺の真名に触れた声。


『久しぶり』


女は、静かに言った。


『鏡月』


その瞬間、精神世界がひび割れた。


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