ノア
「くそ……!」
俺は心の中で唱えた。
来い。
次の瞬間、手の中に一枚のカードが現れる。
手のひらに収まるくらいの、小さなカード。
黒い縁。
白い文字。
そして中央には、意味の分からない紋様が刻まれている。
俺はそれを迷わず握り潰した。
グチャ……!
紙を潰した音ではなかった。
もっと湿った、何かの形を無理やり壊すような音。
直後、さっきまで反応していた道具の力が、俺の中へ流れ込んできた。
ナイフの冷たさ。
球体の熱。
真名の奥から湧き上がる、焼けるような痛み。
それらが混ざり合い、胸の奥で暴れ出す。
「っ……!」
視界がぶれる。
爺さんの顔がぼやけて見える。
机。
指輪。
箱。
使用人。
その全部が、少しずつ輪郭を失っていく。
けれど、箱の中身だけは違った。
見えた。
そこに入っていたのは、欠けた輪だった。
指輪、ではない。
腕輪にしては小さく、指輪にしては大きい。
銀色の輪が半分ほど割れ、内側には細かな文字がびっしりと刻まれている。
そしてその中心に、黒い石のようなものが埋め込まれていた。
俺は、それを見た瞬間に理解した。
分かるはずがないのに。
見たことがあるはずがないのに。
それが何なのか、分かってしまった。
「契約具……?」
俺がそう呟くと、爺さんの目がわずかに細くなった。
「やはり読めるか」
「読めるんじゃない。勝手に入ってくるんだよ」
頭の中に、流れ込んでくる。
契約。
封印。
所有者。
継承。
そして。
破棄不可。
「……ふざけるな」
俺は歯を食いしばった。
指輪の内側に浮かんでいた文字が、さらに強く光る。
『契約、確認』
違う。
確認なんかじゃない。
「爺さん」
俺はゆっくり顔を上げた。
「これ、どこで手に入れた」
「答える前に、お前に聞きたい」
「質問してるのはこっちだ」
「お前が右手に握りつぶしたそれ」
爺さんの視線が、俺の右手に向いた。
握り潰したはずのカードの残骸が、まだ指の間にこびりついている。
黒い灰のようになって、ぽろぽろと落ちていた。
「それは、誰から与えられた」
「……知らない」
「知らない?」
「気づいたら使えてた」
爺さんはしばらく黙った。
その沈黙が、嫌だった。
怒っているわけでもない。
驚いているわけでもない。
「そうか」
爺さんは小さく息を吐いた。
その時だった。
箱の中の欠けた輪が、ゆっくりと浮かび上がった。
音もなく。
誰が触れたわけでもなく。
まるで、俺の真名に反応し引き寄せられたかのように。
「おい……」
俺は後ろへ下がろうとした。
だが、体が動かない。
足が床に縫い付けられたように動かない。
ナイフがまた鳴る。
チリ、チリ、と。
球体が胸元で光る。
真名が熱を持つ。
そして欠けた輪が、俺の前で止まった。
内側の文字が、一斉に浮かび上がる。
知らない文字。
知らない言語。
それなのに、意味だけが分かる。
『第一契約者、ノア』
「……は?」
俺は思わず声を漏らした。
爺さんが、低く言った。
「お前の名が刻まれている」
「俺は知らない」
「だろうな。それを知るために、お前を呼んだ」
欠けた輪が、さらに近づいてくる。
だが、その前に。
頭の奥で、声がした。
『見つけた』
女の声だった。
若い。
けれど、どこか冷たい声。
『やっと、繋がった』
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
机の上の茶が揺れる。
壁の絵が、かすかに軋む。
窓も開いていないのに、冷たい風が頬を撫でた。
爺さんが初めて、はっきりと表情を変えた。
「まずいな」
「何がだ」
「向こうが気づいた」
「向こう?」
俺が聞き返すより早く、欠けた輪が砕けた。
パキン、と。
乾いた音がした。
銀色の破片が宙に散る。
その破片が光になり、部屋の中央に集まっていく。
光は輪を作った。
扉のような形になった。
その向こう側に、誰かが立っている。
顔は見えない。
けれど、声だけははっきり聞こえた。
『ノア』
俺の真名が、さらに強く焼けた。
膝が崩れそうになる。
それでも、俺は視線を逸らせなかった。
光の向こうの誰かが、ゆっくりと手を伸ばす。
『迎えに来た』
その言葉を聞いた瞬間。
俺の中で、何かが切れた。
「こっちにくるな……!」
俺はナイフを呼び出しそれを抜いた。
チリ、と鳴っていた刃が、今度は低く唸る。
カードの残骸が、黒い灰になって床に落ちる。
俺は睨みつけた。
「俺はまだ、何もしらない」
女の声が、少しだけ笑った気がした。
『なら、思い出させてあげる』
光が弾けた。
白い閃光が部屋を満たす。
最後に見えたのは、爺さんの顔だった。
悔しそうな。
それでいて、どこか安堵したような顔。
「ノア」
爺さんの声が遠ざかる。
「お前は――」
その先は、聞こえなかった。
次の瞬間。
俺の意識は、光の奥へ吸い込まれた。




