第六話 中井さんは語りたい
美味しい抹茶と和菓子ですっかり満足した俺たちは、お茶屋さんを後にして再び表参道を歩き出し、ついに目的地の『平等院』へと到着した。
窓口で拝観料を払い、綺麗に整備された玉砂利を踏みしめながら境内へと足を踏み入れる。表参道の賑やかな空気から一変、すっと背筋が伸びるような静謐な空気が辺りを包み込んでいた。
「うわぁ……!」
真っ先に感嘆の声を上げたのは、中井さんだった。
視線の先には、順路の脇に設けられた立派な藤棚がある。
ちょうどゴールデンウィークのこの時期が見頃らしく、薄紫色の藤の花が、まるで空から降り注ぐ滝のように無数に垂れ下がっていた。
「すっご……めちゃくちゃ綺麗やな……。これ、藤の花よな?」
「はいッス! 俺の調べによれば、この平等院の藤は樹齢およそ二百八十年以上! 花房が長く伸びて地面の砂に擦れるほどになることから『砂ずりの藤』とも呼ばれてるらしいッス!」
前田が手作りのしおりを指差しながら、得意げに解説する。
「へえ、二百八十年……。江戸時代からずっとここで花を咲かせてるってことか。なんだか気が遠くなるな」
「うん。風に揺れる姿が、本当に綺麗……」
初夏の爽やかな風が吹くたびに花穂がさらさらと揺れ、甘く優しい香りがふわりと鼻先をかすめる。俺たちはしばらくの間、その歴史ある藤の姿に見入っていた。
そして、藤棚を抜けた先。
視界がふっと開けた先には、静かな水面をたたえる大きな池――阿字池があった。
その池の中心の島に、まるで巨大な鳥が今にも翼を広げて飛び立とうとしているかのような、優美で左右対称な赤い建物が建っている。
「……十円玉の裏のやつだ」
俺の口から、思わず素っ頓狂な感想が漏れた。
「ふふっ、本当に十円玉と同じ形してるね」
隣で中井さんが、口元に手を当てて楽しそうに笑う。
「あれが本物の『鳳凰堂』やな! いやー、生で見ると迫力がちゃうわ! 実はこの目で見るのは初めてなんよ~!」
「さすが平安時代の最高傑作ッス! 時の関白・藤原頼通が、極楽浄土をこの世に再現するために建てたって言われてるだけあるッスね!」
前田がすかさずしおりの豆知識を読み上げる。
「極楽浄土、か……。確かに、この池に浮かんでるみたいな左右対称の造りは、現実離れしてて綺麗だな」
俺が感心して見上げていると、不意に中井さんが「あっ」と小さく声を上げた。
「蒔田くん、あそこ。屋根の一番上を見て」
「屋根の……上?」
言われた通り、視線を建物のてっぺんへと向ける。
瓦屋根の左右両端に、向かい合うようにして金色の鳥の飾り像が置かれていた。
「あれが『鳳凰』やね」
いつの間にか隣に来ていた先輩が、真剣な眼差しで屋根の上の像を見上げていた。
「鳳凰って、あの伝説の鳥の?」
「そうそう。あの一対の鳳凰が飾られとるから『鳳凰堂』って呼ばれるようになったんよ。ちなみに、あの鳳凰……十円玉だけやなくて、もう一つ身近なお金に描かれとるん知っとる?」
「え? 十円玉以外にもですか?」
俺が首を傾げると、先輩はニヤリと笑って財布を取り出した。
「ジャーン! 一万円札の裏側や!」
「あ……っ!」
ピンと張られた一万円札の裏には、確かに屋根の上にあったのと同じ、翼を広げた立派な鳳凰の姿が描かれていた。
「うおっ、本当だ……。十円玉の建物で、一万円札の鳥ってことか。平等院、日本の硬貨と紙幣のダブルで採用されてるのかよ……」
「へへっ、せやろ! こういう歴史の繋がりを知ってから見ると、また見え方が変わってオモロイやろ!」
普段のわんぱくなポンコツぶりからは想像もつかない知識を披露する先輩に、俺も前田も少しだけ感心してしまう。
「先輩、案外そういうの詳しいんですね」
「まあな! でも、しーちゃんにはかなわへんなぁ」
「へえ~。中井さんって歴史好きなの?」
俺が何気なく尋ねると、中井さんは少し恥ずかしそうに頬をかいて視線を逸らした。
「う、うん。少しだけ……。もう、みのり先輩、ハードル上げないでくださいよ」
「ええやん! しーちゃん、お寺とかのことめっちゃ詳しいやん! な、せっかくだしアレも教えてあげてや!」
先輩に背中をぽんと押され、中井さんは「もぉ……」と困ったように笑いながらも、阿字池の向こうの鳳凰堂へと静かに視線を向けた。
「……さっき前田くんのしおりに『極楽浄土をこの世に再現した』って書いてあったでしょ? あれには、当時の人たちの切実な理由があったの」
中井さんの声は、普段の穏やかなトーンのままだった。
「このお堂が建てられた平安時代の後期ってね、『末法』って言って、仏様の教えが正しく伝わらなくなって、世の中に災害や争いごとが溢れる最悪の時代が来るって信じられていたんだって」
「へえ……。最悪の時代、か」
俺が感心して相槌を打つと、中井さんはコクリと頷き、なぜか一歩だけ前に出た。
「うん。だから当時の貴族たちは、せめて死んだ後だけでも苦しみのない『極楽浄土』に行けるようにって、すがるような思いでこの美しいお堂を建てたの。……でもね、本当にすごいのはここからなんだよ!」
「お、おう?」
急に中井さんの声のトーンが一段階上がり、振り返った彼女の目はきらきらと輝いていた。
「中にある阿弥陀如来像! あれは定朝っていう天才仏師が作ったんだけど、複数の木材を組み合わせる『寄木造』っていう当時の最新技術が使われててね! それに壁や扉には、人が死んだときに仏様がどうやって迎えに来てくれるかが九つのランク別に描かれていて……あっ、あとこの池! 阿字池に映る建物の姿も計算されていて、水面に反射した姿と合わさって初めて完全な『極楽浄土』の景色が完成するようになってるの! だから当時の人たちは、この対岸からお堂を眺めて必死にお経を――」
「ちょ、ちょっと待って! 中井さん、情報量が! 情報量が多い!」
息継ぎも忘れる勢いでまくしたてる中井さんを、俺は慌てて引き止めた。
「……あっ」
ハッとしたように口元を手で覆う中井さん。その顔が、みるみるうちにりんごのように真っ赤に染まっていく。
「ご、ごめんなさい……! 私、こういう話になるとつい熱が入っちゃって……引いた、よね……?」
恥ずかしさのあまり、今にも消え入りそうな声で俯いてしまった。
「いや、引いてないって。ただ、普段の中井さんとのギャップにちょっと驚いただけだよ」
「そうそう! 定朝とか寄木造とか、教科書でしか見たことない単語がスラスラ出てきてビビった……。中井さん、マジモンの歴史オタク!」
前田が尊敬の眼差しで言い放つと、中井さんは「オタクって言わないでぇ……」とさらに顔を赤くしてしまった。
「(いいな。……なんか、すごくいいぞ!)」
真っ赤になって俯く中井さんを見ていると、思わず笑みがこぼれた。
好きなものの話になると止まらなくなる、そんな意外な一面もあるのかと、少しだけ見方が変わった気がした。
「よっしゃ! それじゃあ歴史の勉強も済んだことやし、大貴くん! せっかくやからあそこで記念撮影しよ! 旅部の初陣の記録や!」
「了解ッス!」
照れくさそうな空気を吹き飛ばすように、前田と先輩の元気な声が境内に響き渡る。
俺たちは鳳凰堂が一番綺麗に見える阿字池のほとりに移動し、前田が思いっきり腕を伸ばしてスマホをインカメラで構えた。
「ちょっ、先輩! 前に出すぎッス! それじゃ主役の十円玉が隠れちゃうッスよ!」
「ええやん! ウチの笑顔が国宝級ってことや!」
「意味わかんないこと言ってないで少ししゃがんでくださいよ!」
相変わらずドタバタと騒がしい二人。その後ろで、俺と中井さんは苦笑いしながらフレームに収まるように少しだけ身を寄せた。
「蒔田、中井さんも! もうちょっと寄らないと見切れるッスよー!」
「お、おう」
前田の指示に従ってさらに距離を詰めると、電車の座席の時のように、再び中井さんの肩とふわりと触れ合った。
春らしいシャンプーの香りが鼻先をかすめる。だが不思議と、あの時のような緊張感はなく、むしろこの賑やかな空気が心地よかった。
横をちらりと見ると、先ほどの熱弁のせいでまだ少し頬を赤らめている中井さんが、カメラに向かって控えめにピースサインを作っている。
「よし、いきまーす! 旅部、初陣! はい、チーズ!」
パシャリ、と軽快なシャッター音が初夏の空に響いた。
「どうどう? ちゃんと撮れた?」
すぐにスマホを覗き込む先輩たちにつられて、俺と中井さんも画面を覗き込む。
そこには、ドヤ顔の前田、満面の笑みでダブルピースをする先輩、少し照れくさそうにはにかむ中井さん、そして、柄にもなく心底楽しそうな顔をしている俺が写っていた。
四人の肩越しの背景には、千年の時を越えて水面に浮かぶ美しい鳳凰堂がしっかりと収まっている。
「……うん。めっちゃええ写真!」
「はいッス! 最高の記念すべき一枚ッスね!」
はしゃぐ二人を見ながら、俺と中井さんも自然と顔を見合わせて微笑んだ。
ただのクラスメイトや、ちょっと厄介な先輩だったはずの四人が、気付けば一緒に笑い合って一つのフレームに収まっている。
俺たち『旅部(仮)』の初陣を飾る、完璧で、かけがえのない一枚だ。
◇ ◇ ◇
その後、俺たちは平等院の中にある立派なミュージアム『鳳翔館』へと足を運んだ。
そこでも、中井さんの歴史オタクっぷりは遺憾なく発揮されていた。
さっき「引かれたかも」と反省していたはずなのに、いざ薄暗い館内でライトアップされた国宝の数々を前にすると、やはり我慢できなかったらしい。
特に壁にズラリと展示された『雲中供養菩薩像』という、雲に乗って楽器を弾く仏様たちを前にした彼女は、再び目をきらきらと輝かせて「あの仏様が持ってる楽器はね!」と嬉しそうに熱弁を振るってくれたのだ。
俺も前田も、なぜか先輩まで、そんな彼女の飾らない姿をすっかり微笑ましく見守りながら、大満足でミュージアムの見学を終えた。
そして現在。俺たちはそのまま帰路……にはつかず、駅とは反対方向へと少しだけ歩き出していた。
「いやー、平等院すごかったッスけど、宇治の魅力はまだ終わらないッスよ!」
「おっ、大貴くん! 次はどこ行くん?」
「すぐそこの宇治川沿いッス! 風が気持ちいいんで、ちょっと寄り道して黄昏れてから帰るのもいいかなと!」
「よっしゃー! ほな、川見ながら抹茶アイスでも食べよか!」
「先輩、また食べるんスか!?」
そんな前田の案内でたどり着いた宇治川は、想像以上に川幅が広く、豊かな水が滔々《とうとう》と流れていた。
川沿いには綺麗に舗装された遊歩道が続いており、西の空に傾き始めた太陽が、水面をきらきらと反射している。遠くには朱色に塗られた立派な朝霧橋が架かり、周囲を囲む山々とともに見事な景色を描いていた。
「うおおおっ、めっちゃ広い! 風が超気持ちええなー!」
川岸の手すりから身を乗り出すようにして、先輩が子供のようにはしゃぐ。
そしてそんな先輩たちを俺と中井さんは遠目で見ていた。
「……川って、いいよね」
夕日を反射してきらきらと光る水面を見つめたまま、中井さんがぽつりと呟いた。
「うん。風も気持ちいいし」
「……私ね、今日ここに来るの、本当は少しだけ怖かったんだ」
中井さんは少し神妙な顔をして言う。
「怖かった?」
「うん。私、自分の好きなものを目の前にすると、周りが見えなくなっちゃう癖があって。……昔、それで、友達と大喧嘩しちゃって……」
「うん……」
「それから、誰かと一緒にいる時は、波風を立てずに、ただ笑って頷くくらいがちょうどいいって思ってたの。その方が、誰も困らせないし、私も安心だから。……でも今日、あの二人を見てたら、なんだか久しぶりに、思い切り息が吸えた気がして」
「……うん」
「だから、はしゃぎすぎちゃって……ごめんなさい。また、引かれちゃったよね」
困ったように笑う彼女に、俺は首を横に振った。
「全然。……少なくとも俺は、今日の中井さんの話、引くどころか面白かったよ。だから、迷惑なんて一ミリも思ってないよ」
俺は素直な自分の思いを伝えた。
「そう……?」
「それに、もし中井さんが周りを見失って一人で突っ走ったとしても、あの二人がいれば絶対に『置いてけぼり』にはならないだろ。なんせ、あの先輩と前田だぞ」
俺が少し意地悪く笑って前方を指差すと、そこには川沿いのベンチを陣取り、すでに自分の分のアイスにかぶりついている先輩と、両手にアイスを持って慌てている前田の姿があった。
その光景を見た中井さんは、きょとんとした後、ふふっと吹き出した。
「……あはは、確かに。蒔田くんの言う通りかも」
それは、今日見たどんな表情よりも無邪気な笑顔だった。
だが、その笑顔の余韻が消える頃には、彼女の瞳にかすかな寂しさが戻っていた。
そして俺にだけ聞こえるような声で、そっと呟く。
「ありがとう、蒔田くん」
「うん」
「今の話は、あの二人には内緒で……ね?」
そう言って、中井さんは悪戯っぽく人差し指を口元に当てた。
夕暮れの風に揺れる彼女の笑顔は、相変わらず儚くて、どこか危うくて。
俺は「……うん、わかった」とだけ頷き、その小さな秘密を胸にしまった。
「おいおーい! お前ら、早く来ないと抹茶アイス溶けるでー!」
前田の呑気な声が響き渡る。
「あはは、ほんとだ。早く行こっか」
「行こう」
俺たちも二人の隣に座り、冷たい抹茶アイスを頬張りながら、広く穏やかな宇治川をぼんやりと眺めた。
気がつけば西の空はすっかりオレンジ色に染まり、水面が夕日を反射して黄金色に輝いている。
川のせせらぎと、少しひんやりとした夕暮れの風。
今日のドタバタを振り返って笑い合う騒がしい二人と、その隣で穏やかに微笑む彼女を眺めながら、俺も自然と笑みをこぼしていた。
こうして、俺たち『旅部(仮)』の最初の旅は、穏やかな夕暮れの中で終わりを迎えた。




