第七話 倉敷の街、君に語る日
五月六日 水曜日
新神戸から新幹線に乗り込み、俺たちは岡山へと向かっていた。
ゴールデンウィーク最終日。車内は帰省や旅行の帰り客で溢れかえっており、指定席の四席を確保するだけでも一苦労だった。
そんな俺の苦労も知らずに先輩は子供のように外を見てはしゃいでいる。
「やっぱ新幹線って速いな! あっと言う間に景色が流れて行くで!」
そんなにぎやかな声をBGMに、俺は隣の席へと視線を移した。
隣では、中井さんが膝の上に広げたガイドブックをじっと見つめている。
だけど、その横顔はどこかぎこちなかった。倉敷の美観地区について書かれたページを細い指でなぞってはいるものの、視線は文字の上を滑っているだけのように見える。
「……中井さん」
俺の声に、中井さんはビクッと肩を揺らした。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「ううん、平気。……少し考え事をしてただけだから」
そう言って振り向いた彼女の微笑みは、どう見ても無理をして作ったものだった。
その不自然さに気づかないふりをして、俺はあえて軽い調子で尋ねる。
「倉敷の美観地区、気になってるの?」
「……うん。でも、私が行くと、また一人で勝手に盛り上がっちゃうかもしれないし。だから、今回は大人しくしておこうかなって」
どこか自分に言い聞かせるような響きだった。前回の平等院で熱を入れすぎたことを、まだ気にしているのだろうか。
「俺は別に気にならないけどな」
「……え?」
「好きなことに夢中になってるのって、すごくいいことだと思うし」
予想外の言葉だったのか、中井さんはきょとんと目を瞬かせた。
だから俺は、何の気負いもなく、思ったままを口にする。
「俺は好きだよ、中井さんのこと」
「…………へ?」
ピタリと、中井さんの動きが止まった。
ぱちぱちと数回瞬きをして、俺とバッチリ目が合う。すると、彼女の白い頬に、ぽっと淡い朱色が差した。
「えっ、あの、その……えっ?」
彼女は戸惑ったように手元のガイドブックと俺の顔を交互に見ながら、あからさまに視線を泳がせる。
「?」
「その、私……そういうの、急に言われたこと、なくて……!」
俯き加減で絞り出された声は、微かに震えている。
「そういうの?」
俺が首を傾げると、「えっ」と中井さんが再び固まった。
数秒の空白。
やがて何かに気付いたようにハッと顔を上げた彼女の顔は、さっきよりもさらに赤くなっていた。
どうやら、盛大に勘違いをさせてしまったらしい。
ここでようやく、俺も自分の言葉の過ちに気がついた。
「あっ、いや、違う違う!」
「……へ?」
「歴史の話をしてる時とか、好きなものを楽しそうに語ってる時の、中井さんの姿のことだよ!」
「…………」
「い、いつも楽しそうじゃん?」
必死のフォローの後に落ちた、短い沈黙。
中井さんはフルフルと首を横に振ると、膝の上のガイドブックを顔の高さまで持ち上げ、口元をすっぽりと隠してしまった。
「……もう」
ガイドブックの向こう側から、くぐもった声が漏れる。
「ん?」
「蒔田くん、たまに言い方がずるいよ……」
ぽつりと呟かれたその声は小さくて、でも、どこか少しだけ拗ねたように聞こえた。
◇ ◇ ◇
「……は?」
俺と大貴の声が見事にハモった。
岡山駅のホームに降り立つなり、先輩の突然の爆弾発言である。
「だから、二手に分かれるんよ! 藤原先生を唸らせるには、多角的な視点でのレポートが必要不可欠やろ? というわけで、大貴くんはウチと『デニムストリート&絶品スイーツ調査』! 慧くんとしーちゃんは二人で『美観地区の歴史探訪』や!」
「いや、それ先輩がただ遊びたいだけじゃ……」
「ウチは常に本気と書いてマジや! ほな、夕方に倉敷駅で集合な! 行くで大貴くん、善は急げや!」
「えっ!? ちょ、先輩、俺まだ心の準備が……うおぁぁぁっ!」
先輩は有無を言わさず大貴の腕を引っ張ると、在来線の乗り換え口へと猛ダッシュで消えていった。
嵐のような二人が去った後のホーム。
ぽつんと残された俺と中井さんの間には、なんとも言えない気まずい空気が流れていた。さっきの新幹線での出来事が、明らかにまだ尾を引いているのだ。
「ええと……」
「…………」
チラリと横を見ると、中井さんはうつむいたまま、両手でぎゅっと鞄の持ち手を握りしめている。
「……とりあえず、俺たちも倉敷に向かおう。在来線で十五分ぐらいみたいだし」
「……う、うん」
ぎこちない返事のまま、俺たちは並んで山陽本線のホームへと向かった。
乗り込んだ普通列車は、ゴールデンウィークということもあってそこそこ混み合っていた。運良く空席を見つけて二人並んで座れたものの、横並びのロングシート特有の距離感の近さが、今の状況ではひたすら心臓に悪い。
少しでも体勢を崩せば、中井さんの肩に触れてしまいそうだ。お互いに変な気を遣っているのか、俺たちは申し合わせたように背筋をピンと伸ばして座っていた。
中井さんは膝の上に置いた鞄を抱え込むようにして、ずっと窓の外の景色を見つめている。だが、窓ガラスにうっすらと反射する彼女の横顔は、まだほんのりと赤い気がした。
何か話しかけようにも、さっきの勘違いのせいでどんな話題を振ればいいのかわからない。俺は無意味にスマホの画面をスクロールして、ひたすら時間を潰すしかなかった。
ガタン、ゴトンという単調な走行音だけが、二人の間の気まずい沈黙を埋めていく。
「(十五分って、こんなに長かったっけ……)」
自分の言葉足らずだった発言を内心で呪い続けていると、やがて車内に倉敷到着のアナウンスが響いた。電車がゆっくりと速度を落とし、ホームへと到着する。
「着いたね。行こっか」
「あ、うん」
改札を抜け、南口からのびる大通りを二人で歩く。
初夏の日差しが少し眩しい。俺の少し後ろを歩く中井さんは、相変わらず口数が少ないままだった。
「中井さん、歩くペース大丈夫? 早かったら言ってね」
「あ、うん。平気だよ。……あ、もしかして」
中井さんがふと顔を上げ、少し先を指差した。
「……あの角を曲がったところ、かな」
大通りの現代的な街並みが途切れ、細い路地へと足を踏み入れる。
視界がふっと開けた瞬間――まるでタイムスリップしたかのような景色が目の前に飛び込んできた。
穏やかに流れる倉敷川の沿道に続く、美しいしだれ柳の並木。
白壁と黒い瓦、そして格子窓が特徴的な、古い蔵屋敷の町並み。
初夏の風に柳の枝がさらさらと揺れ、水面には時折通り過ぎる川舟の波紋が広がっている。
ここが『倉敷美観地区』だ。
「うわぁ……」
隣で小さく息を呑む音が聞こえた。
見れば、さっきまでうつむきがちだった中井さんが、目をきらきらと輝かせて町並みを見渡している。その横顔からは気まずさがすっかり消え、純粋な好奇心が溢れ出していた。
「すごい……写真で見た通りだ。あの白と黒の壁、本当に綺麗……」
「へえ、あの壁って何か特別な作りなの?」
俺が尋ねると、中井さんはハッとして、自分の口元を手で押さえた。
「あっ、えっと……ご、ごめん。また私、一人で盛り上がっちゃいそうで」
慌てて自分にブレーキをかけようとする彼女。
俺は、中井さんが眩しそうにしているのに気づき、さりげなく自分が太陽の側に立って、柳の木陰に入るように促した。
「気にしなくていいって。さっきも言ったけど、俺は中井さんのそういう話、聞くの好きだからさ」
「……本当に?」
「もちろん。俺、今日は中井さんのガイドを聞くために隣を歩いてるんだから」
わざとおどけるように笑って言うと、中井さんの強張っていた肩の力が、ふっと抜けたのがわかった。
彼女は少しだけ驚いたように目を瞬かせたあと、照れくさそうにふわりと柔らかく微笑む。
「……うん。蒔田くんがそう言ってくれるなら、少しだけ」
俺が少しおどけて頭を下げると、中井さんは「ふふん」と嬉しそうに笑い、手に持っていたガイドブックをくるりと丸めて、川沿いに建つ立派な蔵をビシッと指差した。
「まずはあの壁に注目! 白い漆喰に四角い瓦が並んでるでしょ? あれは『なまこ壁』って言うの。瓦の継ぎ目に漆喰を蒲鉾みたいに盛り上げて塗ってるんだけど、その形が海のナマコに似てるからそう呼ばれてるんだよ」
「へえ、なまこ壁。確かにちょっとモコモコしてるな」
「でしょ? これはただのデザインじゃなくて、火事や雨風から大切な蔵を守るための工夫なの。倉敷は江戸時代、幕府の直轄地である『天領』だったから、あんな風にお金をかけた立派な蔵がたくさん建てられたんだよ。どう、勉強になった?」
「なりました。さすが中井先生」
最初は「少しだけ」と言っていたはずの中井さんだったが、俺が「なるほど」「すげえな」と素直に感心するたびに、どんどん調子に乗って……もとい、ガイドとしての熱を帯びていった。
俺の少し前を歩きながら、時折くるりと振り返って解説をしてくれる。その足取りは、駅に着いた時とは見違えるほど軽く弾んでいた。
白壁の町並みを抜け、赤レンガに緑のツタが絡まるレトロなエリア『倉敷アイビースクエア』に足を踏み入れたあたりから、中井さんのテンションはさらに一段階上がる。
「あっ、蒔田くん見て! ここからは明治時代の景色だよ!」
「お、急に雰囲気が変わったな。洋風っていうか」
「うん! ここはね、明治時代に建てられた紡績工場――つまり、糸や布を作る工場の跡地なの。さっきの江戸時代の風景から、一気に近代化が進んだのがわかるでしょ?」
「なるほど。でも、なんでこんなに壁にツタが絡まってるの? おしゃれだから?」
「ああっ、そこ! そこすごく良い質問!」
中井さんが、待ってましたとばかりにパァッと顔を輝かせた。
「あれはただのデザインじゃないの。工場の中で働く人たちのために、中の温度を調節する目的で植えられたんだよ! ツタが壁を覆うことで直射日光を防いで、夏でも工場の中が涼しくなるようにって。昔の人の知恵と、働く人への気遣いが詰まった緑なんだよ!」
「へえー! それはすごいな。単なる景観じゃなかったのか」
「そうなの! 江戸時代の商業から明治の工業へ、町がどう変化していったかがこの狭いエリアにぎゅっと凝縮されてて……あっ」
そこで中井さんはハッとして、自分の口元を手で押さえた。
「ご、ごめん……私、また早口になってたかも……引いてない……?」
さっきまでの得意げな「先生モード」から一転、急に我に返って不安そうに上目遣いになる中井さん。
そのギャップがなんだかおかしくて、俺は思わず吹き出しそうになった。
「全然。めちゃくちゃ分かりやすいし、面白いよ。もっと聞かせて、ガイドさん」
「ほ、ほんとに?」
「本当」
俺が力強く頷くと、中井さんはほっとしたように息を吐き、再び「えへへ」と照れくさそうに、でもすごく嬉しそうに笑った。
その年相応の無邪気な笑顔を見て、俺はふと思う。
学校にいる時の中井さんは、いつも一歩引いて周りに合わせている『おしとやかな優等生』だ。部室で騒ぐ先輩や大貴と一緒にいる時も、基本的にはニコニコと微笑んで聞き役に徹していることが多い。
こんな風に胸を張って得意げに「私が教えてあげる!」と調子に乗ったり、自分の好きなものを熱っぽく語って恥ずかしがったりする姿は、この前の宇治と今日しか見たことがなかった。
「(そっか。今日はあの騒がしい先輩たちがいないし、俺が聞きたいって言ったから、安心して自分のペースで楽しめてるんだな)」
宇治での出来事を気にしてブレーキをかけていた気遣い屋の彼女が、俺の隣ではこうして肩の力を抜いて、心から楽しそうに笑ってくれている。
ただそれだけのことがなんだか無性に嬉しくて、それと同時に、少しだけ照れくさくなった。
「……蒔田くん? どうかした?」
「い、いや! なんでもない! えっと、それで? 次はどこ行くんだっけ、中井先生!」
「もー、先生って呼ぶのはからかいすぎだよ。……でも、そうだね。ちょっと歩き疲れちゃったし、次はあっちのカフェで一休みしよっか」
そのまま川沿いを数分ほど歩き、メインの通りから一本路地へ入ったところで、中井さんが「あっ」と足を止めた。
「ねえ蒔田くん、ここはどうかな?」
彼女が指差した先には、白壁の建物の前に控えめなメニューの看板が出ている、隠れ家のようなお店があった。
外観は完全に江戸時代の蔵だが、看板には『珈琲』の文字が書かれている。
「お、いいじゃん。入ってみよう」
俺が相槌を打って重たい木枠の引き戸を開けると、カラン、と涼しげなベルの音が鳴った。
店員に案内されて奥へ進むと、そこは外の喧騒が嘘のように静かな空間だった。
高い木組みの天井から吊るされたアンティーク調のランプが、温かみのある光を落としている。かすかに流れるジャズのBGMが、歩き回った体に心地よく響いた。
向かい合わせのテーブル席に腰を下ろすと、二人して「ふぅ」と小さなため息が重なり、思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
やがて運ばれてきた冷たいアールグレイのアイスティーを一口飲むと、爽やかな香りが乾いた喉をすうっと潤してくれた。
「はぁ、生き返る……。このお店も、昔の蔵をそのまま使っててすごくいい雰囲気だな」
俺がぐるりと店内を見渡しながら言うと、中井さんはコクリと頷いた。
「うん、そうだね。……実は、倉敷の町並みが今もこうして綺麗に残っているのには、すごく大きな理由があるの」
「理由?」
「うん。大原孫三郎さんっていう、倉敷の発展にすごく貢献した実業家さんがいてね。その人が『大原美術館』っていう日本で最初の西洋美術中心の私立美術館を建てたんだけど――」
すっかり安心しきったのか、グラスの結露を指でなぞりながら語る中井さんの言葉はもう止まらなかった。
「それに、この美しい景観も、ただ昔の建物が偶然残ったわけじゃないの。昭和の時代にね、電柱を地中に埋めたり、町の人たちが協力して景観を守る条例を作ったりして、みんなでこの『歴史の空気』を必死に守り抜いてきたんだよ。だから、ここはただの古い町じゃなくて、そこに住む人たちの『町を愛する気持ち』が何百年も積み重なってできた、生きた歴史の結晶なんだよ。そういう背景を知ってからこの川沿いの景色を見ると、ただ綺麗なだけじゃなくて、なんだかすごく胸が熱くなるっていうか、先人たちの想いが伝わってくる気がして――」
俺が頬杖をつきながら、彼女の顔をまじまじと見つめていたことに気づいたのだ。
さらに、自分の声がカフェの静かなBGMよりも、随分と大きくなっていたことにも今更ながら気づいたらしい。
「あっ…………」
ぴたりと喋るのをやめ、彼女はみるみるうちに頬から耳にかけてほんのりと色づき、恥ずかしそうに視線を落としてうつむいてしまった。
「あ、あの……ごめんなさい。私、また……すごく長く、喋っちゃった……」
両手で顔を覆い、今にもテーブルの下に潜り込んでしまいそうなほど小さくなる中井さん。俺の前だからとリラックスしてくれた結果の、見事な熱暴走(自爆)だった。
「ふっ……あははっ」
「ま、蒔田くん……笑わないでよぅ……」
「ごめんごめん、バカにしてるわけじゃないんだ。ただ……」
俺は笑いをこらえながら、テーブルの上の中井さんのグラスを、そっと彼女の方へ押しやった。
「中井さん、本当に歴史が好きなんだなって思ってさ。聞いててすごく楽しかった。とりあえず、喉乾いたでしょ。これ飲んで」
「……うん。ありがとう」
中井さんは両手でグラスを持ち上げ、ストローでちゅうとアイスティーを吸い込んだ。上目遣いでこちらをうかがうその様子が小動物みたいで、なんだかすごく微笑ましい。
窓の外では、倉敷川の水面が少しずつ傾き始めた西日に照らされて、きらきらと光っていた。
騒がしい先輩に振り回されるのも悪くないけれど。たまにはこうして、中井さんの熱のこもった長話にゆっくりと耳を傾けるのも、すごく贅沢な時間の使い方だなと、俺は密かに実感していた。
◇ ◇ ◇
「おーい! 慧くーん、しーちゃーん!」
夕暮れの倉敷駅、南口の時計台下。
のんびりと待ち合わせ場所に向かうと、遠くからぶんぶんと大きく手を振る先輩の姿が見えた。
「先輩、お疲れ様です。……って、うわ。大貴、お前それどうしたんだよ」
「ぜ、全部……先輩の……お土産と、服です……」
先輩の隣には、両手にこれでもかというほどの紙袋(デニムブランドのロゴ入りや、きびだんごの箱など)を抱え、文字通り白目を剥きかけている大貴の姿があった。完全に荷物持ちとして酷使されたらしい。
「大貴くんのおかげで両手フリーや! デニムストリート、最高やった! で、そっちはどうやった? バッチリレポートのネタは集まった?」
「ええ、まあ。中井さんのおかげで、完璧なのが書けそうです」
「おっ、言うねえ! しーちゃんも楽しめたか?」
先輩に覗き込まれ、中井さんは少しだけ照れたように俺の方をちらりと見てから、ふわりと微笑んだ。
「はい。……すごく、楽しかったです」
その笑顔には、駅に着いた時のような硬さはもう微塵も残っていなかった。
「よっしゃ! ほな大成功やな! 新幹線乗って帰るでー! 大貴くん、お弁当買うん忘れたらあかんで!」
「えぇぇ……まだ俺が動くんですか……慧、助けて……」
「がんばれ、大貴。俺は中井さんと歴史のまとめ作業があるから」
「薄情者ぉぉっ!」
夕焼け空の下、駅前広場にいつもの騒がしいやり取りが響き渡る。
明日からはまた、普通の学校生活が始まる。でも、このゴールデンウィーク最終日の記憶があれば、少しだけ憂鬱な休み明けの空気も、悪くないものに思えそうだった。




