第三話 これが神戸の百万ドルの夜景や!
四月九日 木曜日
俺は教室の自分の席で窓の外を眺めていた。ホームルームまでまだ少し時間がある。
ふとポケットに手を突っ込むと、指先に紙の感触があった。昨日カフェで渡された『部活動 設立申請書』のコピーだ。取り出しかけて、やっぱりやめた。見るたびに、あの先輩の顔が浮かんできそうで。
『明日は放課後、飛び切りの神戸を教えてあげるわ!』
昨日の帰り道、先輩にそう宣言された。もちろん俺の有無は最初から関係なしだった。
「はぁ……」
ため息をつきながらまた窓の外へと視線を戻す。
「(……でも、中井さんと話す機会ができるのは最高じゃないか?)」
おしとやかで知的な感じ……そして何よりあの顔! 正直、めちゃくちゃ可愛いと思ってしまった。強引な先輩はともかく、彼女となら放課後の時間も悪くないかもしれない。
そんなことを考えていたら、背後から荒々しく肩を叩かれる。
「おい蒔田! 昨日のメガネ美女について話を聞かせてもらおうか!」
振り返るとそこには、鬼の形相で前田が立っていた。
「……まぁ待て。一旦落ち着いてくれ」
「落ち着いてられるかよ! 今朝、校門前で昨日のあの美女が、必死に探し回ってたぞ! 挙句の果てには登校中の奴ら全員に『蒔田くん見なかった!?』って聞き回ってたし! お前、いったいどうやってあんな美女にそこまでさせたんだよ!?」
なぁ……っ!? あの人何してんだよぉぉぉ……。
「いや待て。待ってくれ前田。俺の話を聞いてくれ」
前田は腕を組んで仁王立ちのまま、目だけで「さっさとしろ」と言っていた。俺はため息をひとつついて、昨日のことを順番に話し始めた。
放課後、見知らぬ先輩に突然声をかけられたこと。そのままカフェに連れ込まれたこと。気づいたら『部活動設立申請書』の控えを持たされていたこと。
「いやあの美女、そんなに強引な人なん……?」
前田は俺の話を聞いたら少し引いていた。
「まあ、そういうことだ。俺は先輩には何もアプローチしていないし、付き合ってるとかそういう訳でもない。分かってくれたか?」
「いや、でもお前に好意があってそういうことしてるっていう可能性もあるし、やっぱ羨ましいもんは羨ましいわ」
……いやマジか。
「一回会ってみたらその思いは一瞬で砕けると思う」
「だったら一回会わせてくれよ!」
すごい食い付きだ。
「じゃあ会うか?」
「マジ!? いいん!?」
「いや、この後ちょうどまたあの人に連れまわされる予定なんだよ。むしろ来てくれた方がありがたいかも」
「うおぉぉぉ! やる気出てきたぁぁぁ! じゃあ放課後、絶対に声かけろよ! 絶対だぞ!」
「分かった分かった」
前田は拳を握りしめて自分の席に戻っていった。あのテンションのまま一日授業を受けるつもりらしい。……まぁ、賑やかしが一人増えると思えば悪くないか。
そう思っていた矢先、教室の扉が勢いよく開いた。
「蒔田くん──おったぁ! よかったぁ!」
聞き覚えのある関西弁が教室中に響き渡る。
俺を含め、クラス全員の視線が扉の方へ集まった。そこには息を切らした井上先輩が立っていて、俺の顔を見た瞬間ぱっと表情をほころばせた。
「もう! 朝からどこ探してもおらんから焦ったやんか!」
「……先輩、ここ一年の教室なんですけど」
「細かいことはええの! 放課後の約束、ちゃんと覚えてるよな?」
返事を待たずに念を押してくる。まだ会って二日しか経っていないのに、もう分かってきた気がする。
呆気にとられていた前田が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情には「なるほどな」と書いてあった。
「(……ていうか、そもそもどうやって俺のクラスを?)」
連絡先を交換しただけだ。クラスなんて一言も言っていない。
思考がぐるりと回り、昨日の光景がフラッシュバックする。
──そういえば昨日のカフェで、中井さんに自己紹介した時。
『一年一組の蒔田慧です』
……俺、バッチリ言ってたわ。
ご丁寧に、先輩の目の前で。
(ああ、くそ……! 俺、自ら獲物の居場所を猛獣に教え込んでたのかよ……!)
「おーい? 慧くーん?」
「あ、あぁ、はい、分かってますよ」
「それならよろしい! 放課後ちゃんと校門で待っといてな? ほな、よろしくー!」
先輩は俺の返事を聞くや否や、満足げに手を振って嵐のように去っていった。
教室中が静まり返り、クラスメイトたちの視線が俺に突き刺さる。俺は窓際で、深々と頭を抱えた。
「(ていうか直接確認しに来なくても連絡してくれればよかったんじゃ……)」
連絡先を交換した意味は一体どこへ……?
呆然とする俺の横で、前田がニヤニヤと肩を揺らしている。
「……なるほどな。蒔田、お前、やっぱり持ってるわ」
「黙れ。もう休み時間終わるぞ。帰れ」
◇ ◇ ◇
放課後、俺は前田と校門で言われた通りに待っていた。
「なあ蒔田」
「ん?」
「俺、あの人のこと好きになったかもしれん」
「は?」
「だってあんな美人な人めったにいないぞ!? 今日教室に来た時俺確信したもん」
「慧くーん! こっちこっち!」
下駄箱の方から、よく通る声が響いてくる。周りの生徒をものともせず手を振る井上先輩と、その隣でぺこりと小さく手を振る中井さんの姿があった。
「やべぇ、可愛い……」
前田は一目見た瞬間、釘付けになっていた。まぁ、気持ちは分かる。
「よっしゃ全員集合……って、隣の子は慧くんの友達?」
近づいてきた先輩が、俺の隣で彫刻のように固まっている前田に気づいて目を瞬かせた。
「あ、はい。クラスメイトの前田です。なんか、先輩に一目会いたいって言うので連れてきました」
「へぇ、うちに? うちのファン第一号ってこと? 嬉しいこと言うてくれるやん!」
先輩は満足げにニカッと笑うと、ガチガチに固まった前田の肩をバシバシと叩いた。
「細かいことはええわ! 来る者は拒まへんのがうちのモットーやしな! ほな行こか!」
先輩は俺たちの返事も待たずに歩き出した。
叩かれた肩を押さえたまま、前田が白目を剥きそうになりながら小声で俺に耳打ちしてくる。
「なあ……もう一人、隣にいるめちゃくちゃ可愛い子は?」
「中井詩乃さん。同級生だぞ」
「……お前の周りの人間、どうなってんの」
「俺が聞きたい」
「よっしゃ、メンバーも増えたところで出発進行! 『飛び切りの神戸』へご案内してやろう!」
先輩の元気すぎる号令に背中を押されるようにして、俺たちは校門をあとにした。
なし崩し的に始まった、記念すべき(?)第一回目の部活動。その行き先が、まさか放課後の山登りになるとは思わなかった。
「(こんなはずじゃなかったのになぁ……)」
ただの冷やかしのつもりで連れてきた前田は、本人の意思を無視して勝手にメンバーにカウントされている。当の前田はといえば、美人の先輩に圧倒された衝撃からまだ立ち直れていないらしく、魂の抜けた顔でトボトボと先輩の後ろをついていくだけだ。頼むから少しは抵抗してくれ。
色々と勝手に決められて、言われるがままついていく。これじゃまるで操り人形じゃないか。
……というか、そもそもだ。なんで俺はなんの抵抗もせずに六甲山に行こうとしてるんだ?嫌なら「用事があるので」と断って帰ればよかったはずだ。それなのに、あの嵐のような勢いに飲まれるまま、大人しく山を目指している。ふと、そんな冷静なツッコミが頭をもたげる。
だが、前を歩く中井さんの後ろ姿が視界に入った瞬間、その思考はあっさりと霧散した。歩くたびに、おしとやかな髪が小さく揺れている。
(……まぁ、中井さんと会う口実になるしな。今日くらいは、あの先輩に付き合ってやってもいいか)
そんな風に自分に都合のいい言い訳を用意しているあたり、俺も大概チョロい。自分の現金さに、俺は歩きながら心の中で密かにため息をついた。
◇ ◇ ◇
──移動が始まったのはいいのだが。
学校の近くからバスに乗り、そのまま六甲ケーブルの駅へと向かう道中、俺の隣では奇妙な現象が起きていた。
「……」
さっきまで校門であれだけ鼻息を荒くしていた前田が今や見る影もないほど「借りてきた猫」と化している。
右隣にはおしとやかに佇む中井さん、正面には相変わらずハイテンションで喋り続けるみのり先輩。リアルな美少女二人に挟まれた前田は、緊張のあまり背筋を限界まで伸ばしたまま、あからさまに目を泳がせている。
ちなみに俺は一人で端っこに座っている。先輩の相手をしたくない一心だ。
「(おい前田、さっきの威勢はどこへ行った)」
俺が目線でツッコミを入れても、前田はガチガチに固まったまま小さく震えるばかりで、全く戦力にならない。結局、移動中の先輩のマシンガントークを正面から受け流す役目は、すべて俺に回ってくるのだった。
やがて、レトロでモダンなデザインの六甲ケーブルカーに乗り込み、斜面をぐんぐんと登っていく。
窓の外の景色が徐々に高くなっていくにつれ、車内の空気も心なしかひんやりとしてきた。
「山の上は、少し肌寒いですね」
中井さんがブレザーの袖を少し引っ張りながら、小さく息を吐く。その仕草すらおしとやかで、夕暮れの光が差し込む横顔は、やっぱりめちゃくちゃ綺麗だ。俺が少し目のやり場に困って慌てて車窓へと視線を逸らすと、中井さんはそれに気づいたのか、ふふっと小さく悪戯っぽく微笑んだ。
ケーブルカーが山上駅に到着し、駅舎の外へと一歩、踏み出す。
山の上は下界よりもさらに気温が低く、制服のブレザー越しでもはっきりと冷気が伝わってきた。
「ふっふっふ、これぞ山の空気や! 慧くん、しーちゃん、そして大貴くん! 心の準備はええか!?……って言ってもまだ日が沈むまでは一時間ぐらいあるけどな」
そう言われ手元のスマホを見ると時刻は五時。日没までは確かにまだ一時間ほどある。
「それまでどうするんですか?」
一時間何もせず待機。はしんどい。たまらず俺はそう聞いてみた。
「まあ、ちょっくら散歩かな〜。意外と山の中の景色ってのもいいんやで?」
先輩はウインク交じりにそう言って、得意げに胸を張った。
木々の間を縫うように続く道を歩く。差し込む夕日は徐々に赤みを増し、足元に落ちる俺たちの影を長く伸ばしていく。
「あ、見てください。あんなところに山桜が咲いてますよ」
「おっ、ほんまや! 下界はもう散りかけやけど、山の上は今が見頃なんやな!」
「……ええ、美しいですね。まるで僕たちのこれからの日々のようです」
中井さんの見つけた桜に、前田が謎の知的キャラを装って的外れな相槌を打っている。完全に空回っているが、本人は至って真剣なのが痛々しい。俺は少し離れた後ろから、そんな三人組の背中を眺めていた。
木漏れ日の中を散策し、冷たい山風に吹かれながら他愛のない雑談を交わす。
先輩の突飛な言動に振り回され、前田のポンコツっぷりに呆れ、たまに見せてくれる中井さんの笑顔に少しだけドキッとする。
「(……悪くないな)」
最初は文句ばかりだったのに、気づけば俺は、この不思議なメンバーでの時間をどこか心地よく感じ始めていた。
そうして山の中を歩き回っているうちに、空から夕暮れの赤みはすっかり消え、気づけば辺りはすっかり夜になっていた。
「……よし、そろそろええ頃合いやな。戻るで!」
先輩の号令で来た道を引き返す。街灯の少ない静かな木立を抜け、再び駅のすぐ側にある展望台へと足を踏み入れる。
ぱっと視界が開ける。展望台の柵に近づき、改めて眼下を見下ろし──俺は、思わず言葉を失った。
「どや! これがウチの自慢の、『百万ドルの夜景』や!」
完全に日が落ちた真っ暗な闇の下、どこまでも続く神戸の街並みが一望できた。美しく弧を描く海岸線と、静かに広がる黒い海。街のあちこちで灯るきらびやかな光が、まるで無数の宝石の粒をひっくり返したように眩く輝いている。
これまで見てきた横浜の夜景も、洗練されていて最高に綺麗だった。けれど、神戸の夜景はそれとはまた全く違う種類の絶景だ。
背後の迫るような山々と、目の前に広がる暗い海。その狭い土地に、何十万という人々の営む光がギュッと凝縮されている。足元から海に向かって、光の粒がなだらかな傾斜を描きながら零れ落ちていくようだ。
山と海がこれほど近くに迫る、立体的で、ダイナミックで、圧倒的な熱量を持った『百万ドルの夜景』は初めて見た。
「なぁ蒔田……俺、やっぱりこの部活入るわ。一生ついていくわ……」
いつの間にか緊張から復活した前田が、景色と先輩、そして中井さんを交互に見つめながら、感動のあまり半泣きで俺の肩を掴んでくる。現金な奴だ。
「な? ウチの言う通りやったろ、相棒?」
いつの間にか隣に並んでいた先輩が、満足げに笑いながら俺の顔を覗き込んできた。その距離はやっぱり近くて、俺の心臓が少し跳ねる。
「……まぁ、そうですね。認めます」
悔しいけれど、言葉も出ないほど綺麗だった。
こんな景色をいきなり見せられてしまったら、もう強引に連れてこられた文句なんて言えるはずがない。
吹き抜ける少し冷たい山風を感じながら、俺はきらめく街の明かりを見つめていた。
引っ越してきたばかりの神戸の街を見下ろしながら、俺はほんの少しだけ、これからの日々に期待している自分に気がついたのだった。




