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旅部!  作者: ひ~と
11/13

第十話 日本三大古湯、道後温泉!

「ぷはーっ! 極楽やぁ……!」

「うひょー! 先生、最高っすねこれ!」

 愛媛県・道後温泉。

 無事に宿に荷物を放り込んだ俺たちは、さっそく温泉街の中心にある大きな公衆浴場へと足を運んでいた。

 歴史を感じさせる立派な木造建築。高い天井から湯気が立ち上る浴槽の中で、藤原先生と大貴がだらしなく顔を綻ばせている。

「お前ら、はしゃぐのはいいけど周りの迷惑にならないようにしろよ……」

 俺はため息をつきながら、肩までお湯に浸かった。

 とはいえ、長旅の疲れがじんわりと溶け出していくような心地よさは否定できない。

 しかし、元々あまり長風呂が得意ではない俺は、十五分もすると頭がクラクラし始めていた。

「俺、ちょっとのぼせそうだから先に出てるわ」

「なんや蒔田、もう上がるんか。これからが本番やぞ」

「慧、俺の分のコーヒー牛乳買っといてくれー!」

「はいはい」

「じゃあ私の分もついでに頼んでいいか?」

「いいですよ」

「ほな、頼んだ!」

 まだ十分にお湯を堪能する気満々の二人を残し、俺はそそくさと脱衣所へと向かった。


 ◇ ◇ ◇


「ふぅ……涼しい……」

 火照った体に、夜の心地よい風が通り抜けていく。

 自販機で買った冷たいスポーツドリンクを喉に流し込みながら、俺は浴場の外にあるベンチに腰を下ろした。

 大貴たちが上がってくるまでは、まだ当分かかりそうだ。

 スマホを取り出して時間を潰そうとした、その時だった。

「あれ……? 蒔田くん?」

 ふいに、横から鈴を転がすような声が降ってきた。

 顔を上げると、そこには見慣れた、けれどいつもとは違う雰囲気の少女が立っていた。

「中井さん……? あれ、もう上がったの?」

「うん。私、あんまり長風呂得意じゃなくて、のぼせちゃったから……。みのり先輩は、『サウナで精神統一してくる!』ってまだ奥にいるんだけどね」

「あー……想像つくわ」

 苦笑いしながら、俺は中井さんの姿に思わず目を奪われた。

 宿で借りた、淡い朝顔の柄があしらわれた浴衣姿。

 湯上がりでほんのりと桜色に染まった白い肌。いつもは下ろしている髪が緩くまとめられていて、そこから覗く華奢なうなじに、思わずドキリとしてしまう。

 シャンプーと温泉の甘い香りが、夜風に乗ってふわりと鼻先をかすめた。

「……蒔田くん? どうかした?」

「えっ、いや! なんでもない!」

 不思議そうに小首を傾げ、少しだけ上目遣い気味に覗き込んでくる中井さん。

 ……だめだ。昼間、家庭用の巨大なダイニングテーブルを事も無げに二枚も持ち上げていた姿と、目の前にいるこの可憐すぎる姿のギャップに、脳の処理が完全にバグを起こしている。

「その……せっかくだし、大貴たちが上がってくるまで少し歩かない? このすぐ近くに商店街があったはずだから」

 俺が妙な緊張を誤魔化すように提案すると、中井さんはパッと花が咲くように、今日一番の笑顔を見せた。

「うん! 私も少し涼みたいなって思ってたの。行こう」


 ◇ ◇ ◇


 道後温泉本館のすぐ隣から続く『道後ハイカラ通り』。

 レトロなガス灯風の街灯が、石畳の道を優しく照らし出している。

 平日とはいえ、金曜の夜。観光客や地元の人たちで賑わうアーケード街を、俺と中井さんは歩いていた。


 カラン、コロン。


 普段履き慣れない下駄のせいか、中井さんの歩幅はいつもより少しだけ小さい。俺の半歩後ろを、はぐれないようにちょこちょこと付いてくる姿が、どうしようもなく可愛らしかった。

「わぁ……可愛い雑貨屋さんがいっぱいあるね」

「あ、あれって愛媛名物のみかんジュースの蛇口じゃないか? ほんとにあったんだな」

「ふふっ、ほんとだ。明日、みんなで飲みに来たいな」

 店先に並ぶお土産や名物を眺めながら、ゆったりとした時間が流れる。

 先ほどまでのドタバタ劇が嘘のように、今は二人だけの穏やかな空気が心地よかった。

 ふと、中井さんが足を止め、アーケードの隙間から見える温泉街の夜景を見上げた。

「……私ね、今まで県外に行くっていったら、柔道の遠征か大会ばっかりだったんだ」

「あ、そっか。期待のホープだったって、先輩も言ってたもんな」

「ううん、そんな大したものじゃないけど……」

 中井さんは照れたように笑い、浴衣の袖をきゅっと小さな両手で握りしめた。

「でも、試合のプレッシャーや勝ち負けのことばっかり考えてて。移動のバスの中でも、窓の外の景色を見る余裕なんて、全然なかったの」

 夜風に揺れる後れ毛をそっと耳にかけながら、彼女はどこか遠くを見るような目で微笑む。

「だから、こういう風に『知らない街の空気』をゆっくり吸い込むのが、なんだかすごく新鮮で。夕方にあんな急に車に乗せられて、どうなることかと思ったけど……」

「ははっ、ほんとだよな。ゲリラにも程がある」

「うん。でもね……今、すごくワクワクしてる自分がいるの」

 彼女は俺の方へと向き直り、街灯の温かい光に照らされた潤んだ瞳で、まっすぐに俺を見つめた。

「『移動』じゃなくて、『旅』をするって、こんなに楽しいんだね。……私、この『旅部』で、もっと色んな場所に行って、色んな景色を見てみたいな」

 その言葉は、純粋な好奇心と期待に満ちていて。

 恥ずかしそうにはにかむその笑顔に、俺の心臓がトクン、と大きく跳ねた。

 ただの先輩の趣味に巻き込まれただけのゲリラ組織。でも、彼女のこんな無防備な笑顔を見られるなら、それも悪くないかもしれないと、本気で思ってしまった。

「……ああ。そうだな。色んなとこ、行こう。俺たちの初陣は、まだ始まったばっかりだしな」

「……うんっ!」

 中井さんが嬉しそうに頷いた、その時だった。

 後ろから、観光客の団体がドヤドヤと通り抜けてきた。

「きゃっ……」

 群衆に押し出されるようにして、中井さんの体が俺の方へと倒れ込んでくる。

 俺は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の肩を抱き留めた。


「あ……」


 ドン、と胸に飛び込んできたのは、昼間のあの怪力が嘘のような、ふわりと軽くて柔らかい女の子の感触だった。

 鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離。

 さっきよりもずっと強く、彼女の甘い匂いと、少し高くなった体温が伝わってくる。

 見上げられた視線がバチリと絡み、中井さんの顔が、湯上がりの赤さとは違う朱色に染まっていくのがわかった。

「あ……ご、ごめんっ」

「い、いや、怪我ないならよかった……」

 お互いに顔を真っ赤にして、パッと距離を取る。

 沈黙が落ちた。気まずいわけではないけれど、心臓の音がうるさくて、何か言葉を発しないと爆発してしまいそうだった。

 中井さんも、俯いたまま浴衣の帯をギュッと握りしめて、もじもじとしている。


「おーい! 慧くーん! しーちゃーん!」


 その甘い沈黙をぶち壊したのは、アーケードの入り口から大きく手を振る、我が旅部のトラブルメーカーたちの声だった。

 片手にコーヒー牛乳を持った大貴と、腰に手を当てて仁王立ちする先輩。そしてその後ろで笑っている藤原先生。

「もう! 二人して抜け駆けしてデートなんかしとらんで、早く宿戻って宴会やでー!」

 商店街中に響き渡る先輩のデリカシー皆無な声に、俺と中井さんはビクッと肩を揺らして顔を見合わせる。

 そして、先ほどのドキドキを誤魔化すように、二人で同時に吹き出した。

「……帰ろっか、蒔田くん」

「ああ、あのうるさい連中のところにな」

 俺たちは再び肩を並べて、騒がしい仲間たちの元へと歩き出した。

 歩幅を合わせるために少しだけゆっくり歩く俺の隣で、下駄の音が心地よく響く。

 このまま何事もなく合流する――そう思った、その時だった。


 くいっ、と。


 中井さんが少しだけためらうように、俺の浴衣の袖をちょこんと引っ張った。

「ん? どうした?」

「あのね」

 足を止めた中井さんは、もじもじと下駄の鼻緒を見つめた後、意を決したように顔を上げた。

 街灯に照らされたその頬は、湯上がりの時よりもずっと赤く染まっている。

「えっと……これから、部活でもずっと一緒になるし……その。……『慧くん』って、呼んでもいいかな?」

 上目遣いで、恥ずかしそうに、けれどまっすぐに尋ねてくる中井さん。

 そのあまりの破壊力に、俺はまたしても心臓がドクンと大きく跳ね上がるのを感じた。

「っ……あ、ああ。もちろん。というか、俺もずっと中井さんって呼ぶの、なんか堅苦しいなって思ってたし」

「ほんと? よかった……」

 ホッと胸を撫で下ろし、ふにゃりと相好そうごうを崩す彼女。

 しかし、中井さんはそれだけで終わらなかった。俺の目をじっと見つめたまま、今度は少しだけ悪戯っぽく微笑む。

「じゃあ……慧くんも。私のこと、下の名前で呼んで?」

「えっ」

「……だめ、かな?」

 首をこてんと傾げるその仕草は、完全に俺の理性をノックアウトしに来ていた。

 だめなわけがない。むしろ大歓迎だ。

 俺は一つ咳払いをして、熱くなった顔を夜風に晒しながら、少しだけ躊躇ってから彼女の名前を口にした。

「……詩乃」

 初めて口にする彼女の下の名前。

 たったそれだけのことなのに、二人の間の距離が、今までよりもずっと近くなったような気がした。

「……うんっ!」

 詩乃は今日一番の、とびきり嬉しそうな笑顔で頷いた。

 火照った頬を撫でる道後の夜風はもう、少しも冷たく感じなかった。

「おーい! 慧! しーちゃん! 何チンタラ歩いとんねん! アイス溶けるやろ!」

「今行きますって!」

 遠くから響く先輩の野次に怒鳴り返しながら、俺たちは再び歩き出す。

 ほんの少しだけ特別な秘密を共有した俺たちの旅は、まだ始まったばかりだ。


 ◇ ◇ ◇


「うおおおお! なんで俺ばっかドロー4食らうんすかァァァ!」

 大貴の悲痛な叫び声が、障子をビリビリと震わせた。

「甘いわ大貴くん! ウチのIQを舐めたらアカンで! さあ、これで手札は残り一枚……ウノや!」

「くそっ、先輩容赦なさすぎる……!」

 道後温泉の宿、十畳の広い和室。ここは女性陣の部屋だ。寝る時間までここで遊ぶことにした。

 浴衣姿でちゃぶ台を囲んで繰り広げられているのは、大貴が家から持参したUNOによる血で血を洗う死闘だった。

 学年一桁の頭脳をフル活用して手札をコントロールする先輩を前に、大貴はすでにカードを十五枚以上抱え込んで涙目になっている。

 その傍らでは、藤原先生が「ぷはーっ、風呂上がりのビールは最高やな」と、完全にオッサンの休日モードで畳に寝転がっていた。

「ほら大貴、お前の番だぞ。さっさと出せよ」

「ううっ……青のスキップ……っす」

「じゃあ私、青のリバースで。……あっ、ウノ、ですっ!」


 パンッ!!


 中井さんが手札の一枚をちゃぶ台に叩きつけた瞬間、ズゥン……と重低音が響き、畳が小さく揺れた。

 あまりの勢いに、ちゃぶ台の上に置かれていたポテトチップスの袋がフワリと数センチ宙を浮く。

「ひっ」

「し、……中井さん。UNOは気合いで叩きつけるゲームじゃないから。机割れるから」

 俺は咄嗟に喉まで出かかった『詩乃』という呼び方を飲み込み、咳払いをして誤魔化した。

 危ない。さっきの商店街のノリのまま、うっかり下の名前で呼んでしまうところだった。

「あっ、ご、ごめんなさい! つい、畳を見ると柔道のくせで気合いが入っちゃって……」

「どんな反射神経してんの……」

 慌ててカードを拾い集める中井さんを見て、俺は思わず苦笑した。

 先ほどの温泉街での甘い雰囲気から一転、すっかりいつもの『物理最強ヒロイン』に戻っている。だが、そんなところも彼女らしくて悪くない。

「あーっ! 先輩、今こっそり手札二枚出そうとしませんでした!?」

「失礼な! 物理法則の乱れで二枚重なって見えただけや!」

「んなわけあるかァ!」

 大貴と先輩がちゃぶ台を挟んでギャーギャーと言い争いを始める。

 その騒ぎの隙に、隣でカードを整えていた中井さんとふいに視線が合った。

「……ふふっ」

 彼女は俺を見て小さく微笑むと、周りにバレないように、声には出さずにゆっくりと口元を動かした。


 ――け・い・く・ん。


 誰にもバレていない、二人だけの秘密。

 無防備で可愛らしいその悪戯な笑顔に、先ほどの夜風の心地よさが鮮明に蘇ってきて、俺はたまらず顔を逸らした。

 火照った頬は、きっと温泉のせいだけじゃない。

「くそっ、先生! 先輩がいかさまするんすよ! 教師としてこの無法地帯をどうにかしてくださいよ!」

 大貴がたまらず、畳で寝転がっている藤原先生に助けを求めた。

 しかし、空になったビールの缶を揺らしながら、先生は鼻ホジ気分で呆れたようにため息をついた。

「アホか。若者が全力で遊ぶ姿は、大人の俺から見たら微笑ましいスパイスみたいなもんや。せいぜい若いもん同士、仲良くやりや〜。むにゃ……」

「寝るなーッ!」

 頼みの綱の顧問は、あっさりと夢の世界へと旅立ってしまった。

「ええい、こうなったら実力行使や! 大貴くん、ウチの必殺ドロー4の連鎖を食らいな!」

「ギャアアア! 慧、助けてくれー!」

「こっち来んな! 巻き込むな!」

 俺に飛びかかってくる大貴と、謎のカードの構えをとる先輩。

 それを見て、中井さんがお腹を抱えてコロコロと笑い声を上げる。

 愛媛・道後温泉の夜は、修学旅行の夜のように騒がしく、そして果てしなくカオスなまま更けていくのだった。


 ◇ ◇ ◇


「ごぉぉぉ……むにゃ、俺の勝ちっす……」


 深夜二時。

 暗闇に包まれた男子部屋に、大貴のやかましいいびきと寝言が響き渡っている。

 日付が変わる頃まで女子部屋で続いたUNOの死闘の末、体力と精神力を削り切られた大貴は、自室に戻って布団に潜り込むなりあっさりと夢の世界へ沈んでいった。

 隣に敷かれた布団では、顧問の藤原先生も気持ちよさそうに高いびきをかいている。

「……喉、乾いたな」

 俺はそっと布団から抜け出した。

 夕飯の鯛めしや、宴会で食べたポテトチップスの塩気が効いているらしい。

 大貴を踏まないように抜き足差し足で襖を開け、ひんやりとした廊下へと出る。

 昼間や夕方の喧騒が嘘のように、深夜の旅館は静まり返っていた。

 間接照明だけがぼんやりと点灯する廊下を歩き、一階の自動販売機コーナーへと向かう。

 窓の外には、月明かりに照らされた立派な中庭の日本庭園が見えた。

「冷たいお茶でいいか……」

 自販機の淡い明かりを頼りに小銭を取り出そうとした、その時だった。

「……慧くん?」

 ふいに、静寂のロビーに柔らかい声が響いた。

 ビクッとして振り返ると、中庭に面したラウンジのソファに、ちょこんと座っている人影があった。

「え……? あ、詩乃か。びっくりした」

「ごめんね、驚かせちゃった?」

「いや。お化けかと思って焦っただけ。詩乃も喉が渇いて……?」

「うん。宴会で、みのり先輩がいっぱいお菓子食べさせてくれたから。それに……」

「それに?」

「先輩、お布団の中で大の字になっちゃってて、ちょっとだけ隅っこに避難してきたの」

 苦笑いする詩乃の様子に、俺は容易に先輩の豪快な寝相を想像できてしまって、思わず吹き出した。

 俺がペットボトルのお茶を二本買い、一本を差し出すと、詩乃は『ありがとう』と両手で受け取った。

 俺は詩乃が座る隣に少しだけ距離を空けて腰を下ろす。

 静かなロビー。遠くでかすかに聞こえる、中庭のししおどしの音。

 さっきまでは大勢で騒いでいたのに、急に二人きりになると、なんだか変に意識してしまって言葉に詰まる。

「……なんか、変な感じだな。こうして夜中に抜け出して話してるの」

「ふふっ、そうだね。修学旅行の夜みたいで、ちょっとワクワクするかも」

 詩乃はお茶を一口飲むと、月明かりの差し込む窓の外へ視線を向けた。

「私、さっきお布団の隅っこで考えてたの。今日、本当に色んなことがあったなぁって。旧校舎のお掃除から始まって、いきなり車に乗って、海を渡って……」

「ほんとだよ。部室の掃除をしていたはずなのに、気づいたら四国にいるんだから。ウチの顧問、どうなってんだよ」

 俺が呆れたように言うと、詩乃は肩を揺らしてクスクスと笑った。

「でも、先生が言ってくれてよかった。私、こういうふうに、ただ『楽しむため』だけにどこかに行くのって、初めてだったから」

「ああ、夕方もそんなこと言ってたな」

「うん。……だからね、慧くん」

 詩乃が少しだけ姿勢を正し、俺の方を見た。

 街灯に照らされた瞳は、真剣そのものだ。

「私、この『旅部』を、ちゃんと意味のある部にしたいなって思ったの」

「意味のある部?」

「うん。ただゲリラで遊ぶだけじゃなくて、色んな場所に行って、色んな景色を見て、みんなで笑って……そういう、かけがえのない思い出を作れる場所にしたいなって」

 その言葉には、かつて部活で結果を求められていた彼女だからこその、純粋な憧れが詰まっていた。

 ただ適当に集まっただけの俺たち。けれど、彼女にとってはすでに、大切な居場所になり始めているのだ。

「……そっか。まあ、確かに、ただ遊んでるだけだとそのうち生徒会に潰されそうだしな」

「あはは、確かに。みのり先輩、生徒会から目つけられてるみたいだもんね」

「だから、実績作りも兼ねて、色んなところに行かないとな。……俺も、手伝うよ。詩乃がやりたいように、やればいい」

「……うんっ。ありがとう、慧くん」

 はにかむような笑顔。

 距離がすごく近いわけじゃない。甘い言葉を囁き合ったわけでもない。

 けれど、お互いの向いている方向が少しだけ重なったような、そんな確かな感覚があった。

「よし、そろそろ戻ろっか。明日も朝から観光だし、寝坊したら大貴に何言われるかわからないしな」

「うん、そうだね。……慧くん、お茶ありがとう」

 俺たちは立ち上がり、再び静かな廊下を歩き出した。

 二階へと上がり、向かい合わせになった男子部屋と女子部屋の前に到着する。

 それぞれが自分の部屋の襖にそっと手をかけた。

「じゃあ……おやすみ、慧くん」

「うん。おやすみ、詩乃」

 声を潜めて、言葉を交わす。

 名前を呼び合うことにも、まだ少しの照れくささが混じっている。

 けれど、そのむず痒い距離感が、今はなんだか心地よかった。

 自室の布団に潜り込んだ後、俺は天井の木目をぼんやりと見つめた。

 明日はいよいよ、本格的な四国観光。

 俺たちの『旅部』は、きっとこれから面白くなる。そんな予感を抱きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。

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