第五章 決断
「これで第三世代の変異株が完成します」
篠原がピペットでサンプルを採取し、遠心分離機にセットした。僕のアパートの簡易ラボは、ここ数週間で驚くほど進化していた。篠原が持ち込んだ機材が加わり、以前よりもずっと本格的な実験が可能になった。
「この変異株なら、より選択性が高まるはずだ」
僕はノートパソコンで分子構造をチェックしながら言った。NV-23型ウイルスの第三世代変異株―私たちは内部的に「MSV-3」(Male-Specific Virus 3)と呼んでいた―は、以前のバージョンより格段に洗練されていた。
「佐伯さん、前回のマウス実験のデータをもう一度見せてもらえますか?」
僕は実験ノートを彼女に渡した。第二世代のウイルスによるマウス実験では、オスの死亡率が80%に達していた。一方、メスには何の症状も見られなかった。完璧な選択性だ。
「死亡までの時間が短縮されていますね。第一世代は3週間だったのに、第二世代では10日程度」
「ええ。ただ、死亡率が高すぎるのが問題だ」
僕はコーヒーを飲みながら続けた。
「目的は男性を全て殺すことではない。数を減らすことだ」
「そうですね。理想的には、一時的な衰弱や生殖能力の低下程度が望ましい」
篠原は遠心分離機の音を聞きながら言った。
「でも、どうやってそのバランスを取るか…」
「MSV-3では、Y染色体の標的領域を調整しました。生殖関連遺伝子に重点を置いて、生命維持機能への影響を減らしたはずです」
彼女の説明は理にかなっていた。僕たちは科学者として、理論的な完成度を追求していた。しかし、その裏には倫理的な問いが常に存在していた。
「篠原さん」
僕は少し躊躇いながら尋ねた。
「もし、このウイルスが完成したら…本当に使うつもりですか?」
彼女は実験器具から目を離し、僕をまっすぐ見た。
「あなたは使わないつもりですか?」
反問されて、言葉に詰まった。正直、僕自身もその答えを確定できていなかった。
「僕は…」
「最初からその目的で研究を始めたんじゃないですか?」
彼女の言葉は鋭かった。
「ええ、最初はそうでした。でも、実際に可能になると考えると…」
「怖気づいたんですか?」
彼女の声に少し冷たさが混じった。
「怖気づいたわけじゃない。ただ、結果の重大さを考えると…」
「佐伯さん」
彼女は近づいてきて、僕の手に触れた。
「私たちは世界を変えようとしているんです。大きな変化には、大きな決断が必要です」
彼女の瞳には強い決意が宿っていた。
「考えてみてください。世界中の女性たちが、男性からの暴力や抑圧に怯えずに済む世界を。力による支配ではなく、知性と共感による社会を」
「それでも、多くの命が…」
「全ての男性が死ぬわけではありません。MSV-3なら、致死率は下がるはずです。生き残った男性たちは、より穏やかな存在になるでしょう」
僕は彼女の言葉を黙って聞いていた。彼女の動機は僕とは異なる。彼女は社会変革を望んでいる。一方、僕の最初の動機は単純だった―存在を認められたい、女性に振り向いてもらいたい、という個人的な願望。
しかし、研究が進むにつれ、僕の中にも変化が起きていた。単なる個人的な願望を超えて、より大きな何かを感じ始めていた。この研究は、人類の歴史を変える可能性を秘めているのだ。
「仮に使うとして、どうやって?」
僕は実験台にもたれながら尋ねた。
「そこまでは考えていなかった」
「感染経路が問題だ。空気感染させるなら、特定の場所でサンプルを放出することになる。でも、範囲をコントロールできない」
「水系感染はどうですか?」
「可能だが、より広範囲に広がる。それに水処理施設でのろ過を考慮する必要がある」
考えながら話していると、僕たちは実際にウイルスを放出する計画を立てているのだと気づいた。もはや理論的な検討ではなく、実行計画の話をしているのだ。
「小規模から始めるべきだ」
僕は慎重に言った。
「テストとして、限られた範囲で効果を確認する。例えば、この地区の一角で…」
「同意します」
篠原はノートに何かを書き始めた。
「特定の建物の空調システムを利用すれば、限定的な拡散が可能かもしれません」
「でも、そうなると特定の人々だけが対象になる。無作為性がなくなる」
「無作為性は必要ですか?」
彼女は目を上げた。
「この実験の目的は効果の検証です。対象が誰であれ、科学的な結果は同じはずです」
僕は彼女の冷静な分析に少し戸惑いを覚えた。彼女はこれを純粋に科学的問題として捉えているようだ。一方、僕の中には依然として倫理的な葛藤があった。
遠心分離機のタイマーが鳴り、彼女は立ち上がった。
「サンプルの確認を」
僕たちは一時的に会話を中断し、実験に戻った。MSV-3の初期サンプルは予想通りの特性を示していた。第二世代よりもさらに選択性が高く、感染力も増していた。
「うまくいってる」
僕は顕微鏡から目を離し、つぶやいた。ここまで来たら、もう後戻りはできない。僕たちは実際に使える「男性特異的ウイルス」を作り出したのだ。
「次は実地テストですね」
篠原の言葉に、僕は黙って頷いた。
---
その夜、篠原が帰った後、僕は一人で考え込んでいた。窓の外では雨が降り始め、部屋の中に静かな音が響いていた。
「本当にやるべきなのか…」
自問自答を繰り返す。もし実行すれば、間違いなく多くの命を左右する。それは殺人と同じではないのか。しかし、もし実行しなければ…この世界は今のまま。僕は今のまま。透明人間のまま。
スマホが鳴り、河野からの着信だった。
「もしもし、河野?」
「おう、佐伯か。久しぶり!元気にしてるか?」
「ああ、まあね」
「今度、家に遊びに来ないか?家内が会いたがってるんだ」
「そうか…いいよ、都合のいい日があれば」
「今週末とか?土曜の夜、食事でもどうだ」
「わかった、行くよ」
「よし、楽しみにしてるぞ。あ、そうだ、篠原さんとはどうなんだ?」
「何が?」
「付き合ってるのか?研究所じゃ二人がよく一緒にいるって噂だぞ」
「ただの同僚だよ」
「そうか?まあいい、土曜に待ってるよ」
電話を切ると、河野の言葉が頭に残った。研究所では二人の関係が噂になっているらしい。確かに、最近は昼食も一緒に取ることが多くなり、仕事でも常に連携していた。外から見れば、親密な関係に見えるのかもしれない。
事実、僕は篠原に惹かれていた。彼女の知性、決断力、そして美しさに。しかし、それは一方的なものだろう。彼女は研究に興味があり、僕の協力が必要だから近づいているだけだ。そう思っていた。
でも、もし違ったら?もし彼女も僕に何かを感じているとしたら?
そんな考えが浮かんだ瞬間、MSV-3のことが脳裏に浮かんだ。もしこのウイルスを放出すれば、世界は変わる。男性の数が減り、残された男性は貴重な存在になる。その時、篠原は僕をどう見るだろうか。
「そんな方法でなくても…」
言葉が喉に詰まった。本当にそうだろうか?これまでの人生で、女性に真剣に振り向いてもらえたことがあっただろうか?篠原との関係も、この研究がなければ生まれなかったはずだ。
僕は実験ノートを開き、最新のデータを見直した。MSV-3は完成に近づいている。あとは実地テストだけだ。
「本当にやるべきなのか…」
もう何度目かわからない自問自答。しかし、答えはすでに決まっていた気がする。僕は研究者として、この実験を完遂したい。そして、男として、この世界を変えたい。
翌日の朝、決断を下した。実地テストを行う。小規模で、コントロールされた環境で。効果を確認するだけだ。それ以上の展開は、結果を見てから考えればいい。
研究所に到着すると、早速篠原に連絡した。
「話があります。昼休みに会えますか?」
彼女からの返信はすぐに来た。
「もちろん。カフェで待ってます」
---
カフェで篠原と向かい合い、僕は決断を伝えた。
「テストを行いましょう」
彼女の目が輝いた。
「本当に?」
「ええ。ただし、小規模で、コントロールされた環境で。そして、致死性の低いバージョンを使います」
「賛成です」
彼女は興奮を抑えられない様子だった。
「場所はどこにしますか?」
「それが問題だ。どこが適切かわからない」
彼女は少し考えてから言った。
「私の住んでいるアパートの隣に小さなオフィスビルがあります。一つの会社が入居していて、従業員は30人ほど。その中で男性は20人くらい」
「そのビルを狙うということ?」
「空調システムが独立しているので、ウイルスの拡散を比較的コントロールできます。週末は基本的に無人だし、平日も夜はほとんど人がいない」
「どうやって空調システムにアクセスするんだ?」
「屋上に設備があります。鍵はありますが…」
「侵入することになるな」
僕は顔をしかめた。研究室からウイルスを持ち出し、無断で建物に侵入し、空調システムを通じてウイルスを拡散させる。間違いなく犯罪行為だ。
「他に方法はありますか?」
彼女は冷静に尋ねた。確かに、公の場での実験は不可能だ。秘密裏に行うしかない。
「リスクは大きい」
「でも、科学の進歩にはリスクがつきものです」
彼女は僕の手に触れた。その感触が、僕の決意を固めた。
「わかった。でも、準備は入念に行おう。不測の事態も想定する必要がある」
「もちろんです」
彼女は微笑んだ。その笑顔に、僕は安心感と恐怖を同時に感じた。
この日から、僕たちは「実地テスト」の準備を始めた。研究所からは最小限の機材と試薬を持ち出し、アパートのラボで最終調整を行った。致死性を抑えたMSV-3.1を開発し、マウスでテストを重ねた。結果は良好だった。オスマウスは衰弱するが、2週間の観察期間中に死亡する個体はいなかった。
そして、テスト当日―土曜日の夜が決まった。皮肉なことに、それは河野の家に招かれていた日でもあった。僕は河野に電話して断りを入れた。体調不良を理由に。
「残念だな」
河野の声は本当に残念そうだった。
「また今度な」
「ああ、必ず」
電話を切りながら、僕は考えた。河野は親友だ。彼もまた、このウイルスの影響を受ける可能性がある。でも、彼は結婚して幸せだ。彼のような人間は、少々の身体的不調があっても、人生の幸福を失うことはないだろう。
それに比べれば、僕のような透明人間にとって、このウイルスがもたらす世界の変化は、唯一のチャンスかもしれない。
「自己正当化か…」
僕は自嘲気味に笑った。どんな言い訳をしても、これが道徳的に正しい行為でないことはわかっている。でも、もはや引き返せない。
---
土曜日の夜、僕と篠原は彼女のアパートの近くに停めた車の中で最終確認をしていた。
「ウイルス噴霧器の動作確認OK」
僕は小型のデバイスをチェックしながら言った。特殊な噴霧器に、MSV-3.1のサンプルがセットされている。
「建物の見取り図と侵入経路の確認OK」
篠原はタブレットで図面を確認した。
「保護具の確認OK」
僕たちは特殊なマスクと手袋を装着した。篠原は女性なので影響はないはずだが、念のためだ。
「では、行きましょう」
夜の10時、辺りは静まり返っていた。僕たちは周囲を確認しながら、建物の裏手に回った。篠原が示した通り、非常階段があり、それを使って屋上に上がれるようだった。
「鍵はどうする?」
「これで」
彼女はバッグから何かを取り出した。ピッキングツールだ。
「どこでそんなものを…」
「インターネットで買えます」
彼女は淡々と答えた。彼女のこういう一面は、いつも僕を驚かせる。
数分後、ドアのロックが外れ、屋上に出た。星空の下、建物の空調設備が月明かりに照らされていた。
「あれが外気取り入れ口です」
彼女が指さした場所に向かい、僕たちは噴霧器をセットした。
「これをタイマーにセットします。私たちが離れた後、30分後に作動するようにします」
僕は装置を調整した。
「これで…」
セットが完了し、タイマーが動き始めた。30分後、このビルの空調システムを通じて、MSV-3.1が拡散される。月曜日に出社してくる男性従業員たちは、知らないうちにウイルスに感染することになる。
「急ぎましょう」
僕たちは来た道を戻り、建物を後にした。車に乗り込むと、緊張から解放されたように、二人とも深いため息をついた。
「やりました…」
篠原の声は震えていた。興奮からか、恐怖からか、判断できなかった。
「ええ。あとは結果を待つだけだ」
僕は冷静を装ったが、内心は激しく動揺していた。僕たちは実際にやったのだ。もはや思考実験でも、理論上の可能性でもない。現実の行動だ。
「効果はいつ頃現れると思いますか?」
「マウスでの実験結果からすると、3〜5日で初期症状が出るはずだ。発熱、倦怠感、軽度の頭痛など。1週間程度で明確な症状が出る」
「どうやって効果を確認します?」
「そこが難しい。直接確認するわけにはいかない」
「私の知り合いがそのビルで働いています。状況を聞き出せるかもしれません」
僕は彼女を見た。
「危険じゃないか?」
「大丈夫です。自然な会話の中で聞き出します」
車を彼女のアパートまで走らせ、僕は彼女を降ろした。
「お疲れさまでした」
彼女はドアを開ける前に振り返った。
「佐伯さん…今夜は一緒にいませんか?」
予想外の誘いに、僕は言葉に詰まった。
「あの…それは…」
「怖いんです。一人でいると…」
彼女の声に脆さが混じっていた。今夜初めて、彼女も恐怖を感じていることがわかった。冷静沈着に見える彼女も、やはり人間だ。
「わかった」
僕は車を停め、エンジンを切った。
彼女のアパートに入ると、彼女は静かに僕の手を取った。言葉は必要なかった。僕たちは同じ恐怖と興奮を共有していた。歴史を変える一歩を踏み出した共犯者として。
その夜、僕たちは初めて肉体的な関係を持った。それは愛というより、恐怖と緊張からの解放のようだった。お互いの温もりを確かめ合うように。
朝、目が覚めると、彼女はまだ眠っていた。優しい朝の光が彼女の顔を照らしていた。
僕は静かに考えた。もし実験が成功すれば、この世界は変わる。そして、彼女と僕の関係もまた、変わるのだろうか。
窓の外を見ると、新しい一日が始まっていた。そして、何も知らない世界は、まだ普通に動いていた。あと数日で、全てが変わり始める。
「決断」の結果が、現実になろうとしていた。




