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第六章  パンデミックの始まり



「佐伯さん、見てください」


篠原がスマホの画面を僕に見せた。地方紙のウェブサイトだった。


『都内オフィスビルで原因不明の体調不良者が続出』


見出しを読み、僕の心臓は早鏡を打った。実験から5日が経過していた。


「あのビルです」


彼女の声は興奮と緊張が入り混じっていた。


「詳細は?」


「男性従業員の多くが発熱や倦怠感を訴えて休職しているそうです。原因は不明とされていますが…」


「効いている」


僕は思わず呟いた。MSV-3.1が予想通りに機能しているのだ。


「私の知人によると、女性社員には全く症状が出ていないとのこと。まさに計算通りです」


篠原の目が輝いていた。しかし、僕は複雑な思いを抱いていた。理論が正しかったことの興奮と、実際に人々に影響を与えてしまったことへの恐怖が入り混じっていた。


「死者は?」


「まだ報告はありません。設計通り、致死性は抑えられているようです」


安堵のため息が漏れた。MSV-3.1は男性を弱らせるが、殺さないよう設計していた。少なくとも、短期的には。


「ただ…」


篠原の表情に曇りが生じた。


「何?」


「感染範囲が想定より広がっているかもしれません。近隣のビルでも同様の症状を訴える男性が出始めているそうです」


「何だって?」


僕は飛び上がるように身を乗り出した。


「当初の予測では、建物内に限定されるはずだった。なぜ拡散している?」


「空気感染の効率が予想より高いのかもしれません。あるいは…」


「人から人への感染」


僕が言葉を継いだ。「マウス実験では確認できなかった特性だ」


「あるいは変異が起きている可能性も」


篠原の言葉に、僕は冷や汗を感じた。ウイルスが変異するリスクは常にある。特に実験室と実環境では条件が大きく異なる。


「詳細なデータが必要だ」


僕はパソコンを開き、最新のニュースをチェックし始めた。まだ大きなメディアでは取り上げられていないが、SNSでは「謎の男性特異的症候群」についての投稿が散見されるようになっていた。


「拡散ペースはどの程度だろう?」


「知人によると、最初の症例から2日で近隣ビルに広がり始めたとのこと。指数関数的な拡大があるとすれば…」


「1週間程度で都内全域に広がる可能性がある」


僕は計算結果を見て唖然とした。これは単なる「テスト」の範囲を超えている。制御不能になりつつあるのだ。


「どうするべきでしょうか?」


篠原の声に迷いが混じっていた。


「今のところ、死者は出ていない。症状も比較的軽い。しばらく様子を見るしかないだろう」


「でも、このまま拡大し続けると…」


「わかっている」


僕は頭を抱えた。「最悪の場合、解毒剤の開発を急ぐ必要がある」


「解毒剤?」


「ああ。理論上は可能だ。MSV-3.1の作用メカニズムを逆転させるウイルスベクターを開発すれば…」


「でも、それは私たちが関与したことを意味します」


「そうだ。だからこそ、今はまだ様子を見る。事態が本当に深刻化した場合の最終手段として」


僕たちは重苦しい沈黙の中、その日の会話を終えた。


---


1週間後、事態は予想を超えるスピードで進行していた。


「東京都内の病院、男性患者で溢れる」

「謎の流行病、男性のみに症状 専門家も困惑」

「Y症候群と命名、感染経路不明の新型疾患」


ニュースの見出しが、MSV-3.1の拡散を物語っていた。都内だけでなく、近隣県にも広がり始めていた。


僕は研究所で、通常業務をこなしながらも、常にニュースをチェックしていた。表向きは冷静を装っているが、内心は激しく動揺していた。


「佐伯くん」


鶴見所長が近づいてきた。


「はい」


「例の男性特異的症候群、気になっているかね?」


「ええ、興味深い現象です」


平静を装って答えた。


「実はね、厚生労働省から我々の研究所に協力要請があったんだ。この症候群の原因究明と対策のために」


僕の心臓が跳ねた。


「協力、ですか?」


「ああ。特に君のNV-23型ウイルスの研究が参考になるかもしれないと。Y染色体特異的な影響という点で類似性があるらしい」


冷や汗が背中を伝った。彼らは既に何かを疑っているのだろうか。


「わかりました。できる限り協力します」


「頼むよ。明日から特別チームが発足する。君と篠原さんも参加してほしい」


鶴見所長が去った後、すぐに篠原に連絡した。


「大変なことになっている。所長の部屋に来てくれ」


彼女が到着すると、僕は状況を説明した。


「私たちが原因調査チームに?」


彼女の顔から血の気が引いた。


「皮肉としか言いようがない」


僕は苦笑した。


「でも、これは逆に利用できるかもしれない」


「どういうことですか?」


「調査チームにいれば、最新の情報にアクセスできる。事態の進行状況を正確に把握できるし、何より…」


「何より?」


「もし解毒剤が必要になった場合、研究所の設備を使って開発できる」


彼女は少し考えてから頷いた。


「確かに、内部にいた方が有利かもしれません」


「とにかく、冷静に対応しよう。私たちが関与していると疑われるようなことだけは避けなければ」


---


特別チームの初会合は翌日行われた。研究所の大会議室には、様々な分野の専門家が集まっていた。ウイルス学者、疫学者、遺伝子工学の専門家など。そして、厚生労働省からの代表者も参加していた。


「現在までの状況をまとめます」


厚生労働省の担当者が説明を始めた。


「発症者数は東京都内だけで推定5000人以上。全員男性です。症状は発熱、倦怠感、筋力低下、免疫機能の一時的低下。重症例では生殖器系の機能不全も報告されています」


スライドに症状の詳細が表示された。僕はそれを見ながら、MSV-3.1の設計通りの効果が出ていることを確認した。


「感染経路は現在調査中です。空気感染と人から人への接触感染の両方の可能性があります。潜伏期間は3〜5日と推測されています」


「死亡例は?」


誰かが質問した。


「現時点で直接的な死亡例はありませんが、免疫低下による二次感染で重篤化するケースが出始めています」


次のスライドには、ウイルスの電子顕微鏡写真が映し出された。


「これが原因と思われるウイルスです。RNAウイルスの一種で、通常のインフルエンザウイルスとは異なる特性を持っています」


僕はその写真を見て凍りついた。間違いなくNV-23型の変異体だった。


「このウイルスは男性にのみ症状を引き起こす特異な性質があります。女性は感染しても全く症状が出ません。この性差による症状の違いは非常に珍しく、現代医学でも説明が困難です」


説明が続く中、僕は静かにメモを取りながら、頭の中で解毒剤の可能性を検討していた。


「佐伯さん」


会議の後、別の研究者が僕に声をかけた。


「はい?」


「あなたのNV-23研究が参考になるかもしれないと聞きました。何か思い当たることはありますか?」


「まだ…確定的なことは言えません。ただ、Y染色体に特異的に結合するメカニズムの可能性はあります」


「そうですか。ぜひ詳しく教えてください」


この日から、僕は二重の役割を担うことになった。一方では原因ウイルスの調査に協力し、もう一方ではその真の正体を隠蔽する役割だ。


研究所に戻ると、篠原が待っていた。


「事態は想定より深刻です」


彼女は小声で言った。


「都内だけでなく、全国に広がり始めています。国際便で海外にも…」


「海外まで?」


「ええ。韓国と中国で最初の症例が報告されました」


「こんなに早く…」


僕は戸惑いを隠せなかった。MSV-3.1は想定より遥かに感染力が強く、拡散速度も速い。


「変異が起きている可能性があります」


篠原は緊張した面持ちで言った。


「最新のサンプル解析では、オリジナルより感染力が約30%増加しています」


「マウス実験では見られなかった特性だ…」


「人間の体内で予想外の適応が起きたのかもしれません」


僕たちは無言で見つめ合った。この状況は、もはや二人ではコントロールできない。世界規模の問題になりつつあった。


---


「男性特異性症候群(MSS)、世界的流行の兆し」

「WHO、緊急事態宣言を検討」

「男性患者専用病棟の設置始まる」

「株価暴落、経済活動に深刻な影響」


実験から1ヶ月が経過した頃には、MSV-3.1(公式には「MSS原因ウイルス」と呼ばれていた)は世界的なパンデミックとなっていた。アジア全域、ヨーロッパ、アメリカと、感染は瞬く間に広がった。


男性だけが苦しむという前代未聞の感染症に、世界は混乱していた。職場では男性従業員の欠勤が相次ぎ、経済活動に大きな支障が出始めていた。一方で、女性はほとんど影響を受けず、通常通り活動できるという不思議な状況が生まれていた。


「これは一種の生物兵器ではないかという疑惑が広がっています」


テレビのニュースキャスターが報じていた。


「特定の性別だけに影響するという特性は、自然発生的なウイルスとしては極めて考えにくいと専門家は指摘しています」


僕はテレビを見ながら、胃が痛くなるのを感じた。その通りだ。これは自然のウイルスではない。僕と篠原が作り出した人工的なウイルスだ。


「佐伯」


電話が鳴り、河野からの着信だった。


「もしもし、河野?」


「ああ、元気か?いや、元気なわけないか…」


河野の声は疲れていた。彼もまた、このウイルスに感染しているのだろう。


「症状は?」


「まあ、なんとかね。熱は下がったけど、体がだるくて…仕事は休んでる」


「そうか…」


罪悪感が押し寄せてきた。親友を苦しめているのは、他ならぬ僕自身なのだ。


「こんな状況だけど、気をつけろよ」


「ああ、もちろん」


「不思議だよな。男だけが感染するなんて…」


「ああ…」


「まるで神様の罰みたいだ」


河野の言葉に、言葉を失った。神の罰ではない。僕という凡人の狂気の産物だ。


電話を切った後、窓の外を見た。街の風景は一見普通に見えるが、よく見ると男性の姿が極端に少ない。彼らは家や病院で苦しんでいるのだ。


研究所では、僕と篠原を含む特別チームが24時間体制で原因究明と対策に取り組んでいた。しかし、僕たちは本当の原因を知っている。そして、解決策も。


「佐伯さん」


深夜の研究室で、篠原が小声で話しかけてきた。


「ええ」


「このままでは…」


彼女の言葉に、僕は黙って頷いた。このままでは取り返しのつかないことになる。すでに世界中で何百万人もの男性が苦しんでいる。二次感染による死者も報告され始めていた。


「解毒剤の開発を始めるべきです」


「賛成だ」


僕は決断した。「しかし、誰にも気づかれないように進める必要がある」


「どうやって?」


「通常の研究に紛れて、別系統として」


僕たちは真夜中の研究所で、密かに解毒剤の開発計画を立て始めた。MSV-3.1の構造を完全に理解している僕たちなら、理論上は解毒剤の開発は可能だった。


しかし、それには時間がかかる。その間にも、ウイルスは拡散し続け、変異を繰り返す可能性がある。もはや、僕たちが始めた「オスベラシ」は制御不能になりつつあった。


---


「男性特異性症候群、変異型が出現か」

「MSS重症例、死亡者増加の傾向」

「世界の男性人口、5%減少の推計」


実験から2ヶ月が経過した頃、事態はさらに深刻化していた。もともと致死性を抑えたMSV-3.1だったが、世界中で感染を繰り返す中で変異が生じ、より危険な株が出現し始めていた。


「MSS-V2と名付けられたこの変異株は、オリジナルのウイルスより症状が重く、免疫系への打撃も大きいとされています」


ニュースキャスターの声が、重苦しく響いた。


「特に注目すべきは、MSS-V2感染者の中で生殖機能の永久的損傷が報告されていることです。これにより、将来的な人口構成にも影響を与える可能性が指摘されています」


僕は頭を抱えた。まさに最悪の事態だ。当初の目的は「男性を減らす」ことだったが、ここまで深刻な結果を招くつもりはなかった。


研究所では、特別チームの雰囲気も変わっていた。当初の科学的好奇心や使命感は、疲労と絶望に変わりつつあった。毎日新たな変異株が報告され、対策が追いつかない状況だった。


「佐伯さん」


鶴見所長が僕のデスクに近づいてきた。


「はい」


「君の解析能力に期待している。このウイルスの弱点を見つけてくれ」


「努力します」


「実は…」


所長は声を落とした。


「政府内では、このウイルスが人工的に作られたものではないかという疑惑が強まっている。もしそうなら、設計者の意図や知識を理解することで、対抗策が見つかるかもしれない」


僕は緊張で固まった。


「人工的、ですか?」


「ああ。特定の性別だけに影響するよう設計されたウイルス。悪意ある国家や組織の仕業かもしれない」


所長は深刻な表情で続けた。


「もし何か気づいたことがあれば、すぐに報告してくれ」


「わかりました」


所長が去った後、僕は冷や汗を拭った。疑惑の輪が狭まっている。いつか真実が明らかになる日が来るだろう。


夜、僕のアパートで篠原と密かに会った。


「解毒剤の進捗は?」


「理論設計は完了しました。あとは実際に合成して、テストするだけです」


彼女はタブレットに表示された分子構造を見せた。MSV-3.1の作用を中和するウイルスベクターだ。


「時間はどのくらいかかる?」


「最低でも2週間。でも、新しい変異株への対応も考えると…」


「一刻も早く進めよう」


僕たちは必死で解毒剤の開発に取り組んでいた。しかし、それは容易ではなかった。昼間は公式の研究に従事し、夜は密かに解毒剤の開発を進める。肉体的にも精神的にも限界だった。


ある夜、篠原が突然泣き崩れた。


「私たちが何をしてしまったのか…」


彼女の肩を抱きながら、僕も同じ思いに苛まれていた。単なる「テスト」のつもりだったものが、世界的な惨事になってしまった。


「必ず解決する」


僕は彼女の手を握りしめた。「一緒に」


窓の外では、救急車のサイレンが鳴り響いていた。男性患者を運ぶ救急車の数は、日に日に増えていた。


テレビでは、各国の女性指導者たちが緊急会議を開いている様子が映し出されていた。男性指導者の多くが病に倒れ、代わりに女性たちが国家運営の前面に立っていた。僕たちが望んだ「女性主導の社会」が、恐ろしい形で実現しつつあったのだ。


「これが私たちの責任…」


僕は呟いた。どんな言い訳も、もはや意味を持たない。僕たちは歴史上最悪の大量殺人者になりつつあった。


「でも、まだ間に合う」


篠原は涙を拭いた。「解毒剤を完成させれば…」


「ああ」


僕たちは再び作業に戻った。世界が混乱の渦に飲み込まれていく中、僕たちだけが解決策を知っていた。そして、それを実現させる責任があった。


パンデミックは始まったばかりだ。そして、誰も想像していなかった方向へと世界を変えていくことになる―。

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