第四章 暗転への道
研究所の主任昇進から二週間が経った。僕のデスクは以前より広くなり、個室に近い空間が与えられた。プライバシーが確保されたことは、僕の秘密の研究にとって思わぬ利点だった。
「佐伯さん、データの確認お願いできますか?」
篠原が資料を持って近づいてきた。彼女はNV-23プロジェクトの一員として、僕と密に仕事をするようになっていた。
「ありがとう。ちょっと見せて」
データを確認しながら、僕は彼女の存在に意識を向けずにはいられなかった。カフェでの会話以来、彼女との距離感が変わったように感じる。彼女は率先して僕に話しかけ、時には昼食も共にした。
「このサンプル4番の結果が興味深いですね」
篠原は画面の一部を指さした。そこには、NV-23型ウイルスの変異体が特定のDNA配列に結合する様子が示されていた。
「ええ、確かに」
僕は平静を装った。サンプル4番は、僕が密かに調整したY染色体親和性テストのためのものだった。公式の実験計画には記載されていない追加サンプルだが、もちろん彼女にはそれを知らせていない。
「この結合パターン、性染色体特異的な反応に似ていますね」
彼女の鋭い観察に、僕は一瞬緊張した。
「そうですね。でも、まだ断定はできません」
「佐伯さん」
彼女は少し声を落とした。
「私たち、似たような関心を持っていると思うんです」
僕は黙って彼女を見た。
「この研究の可能性について、もっと話し合えませんか?公式の報告書には載せられないような…」
彼女の言葉は曖昧だったが、意図は明らかだった。彼女も、Y染色体特異的なウイルスの可能性に気づいているのだ。
「篠原さん、それはどういう意味ですか?」
「今夜、仕事終わりに時間ありますか?もう少し詳しく話したいことがあるんです」
僕は少し考えてから頷いた。彼女の真意を探る必要があった。
「わかりました」
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その日の仕事が終わった後、僕と篠原は研究所から少し離れた小さなバーに入った。人気のない店の奥のテーブルに座り、二人ともビールを注文した。
「佐伯さん、率直に言います」
彼女はグラスを手に取りながら話し始めた。
「あなたがNV-23型ウイルスのY染色体親和性を研究していることは明らかです。私はそれを非難するつもりはありません。むしろ、協力したいと思っています」
僕は何も言わずに彼女を見つめた。
「私の研究経歴をご存知ですよね。性染色体の不活性化メカニズムについて研究していました。しかし、それは表向きの研究です」
彼女は少し間を置いて続けた。
「私の本当の関心は、Y染色体を標的にした生物学的調整の可能性です」
「調整?」
「そう、調整。現在の社会は男性優位に構築されていますよね。それは単に社会制度だけでなく、生物学的な差異からも来ています。男性ホルモンがもたらす攻撃性、体格差…」
彼女の口調が熱を帯びてきた。
「もし、科学的にその差を縮めることができれば…もっと平等な社会になるのではないかと思うんです」
僕は彼女の言葉を慎重に聞いていた。彼女は「オスベラシ」とは別の動機を持っているようだが、目指す方向性は似ている。
「それで、NV-23型ウイルスに注目したんですか?」
「はい。あなたの研究を知ったとき、これが答えになるかもしれないと思いました」
彼女は僕の目をまっすぐ見つめた。
「佐伯さん、あなたはなぜこの研究をしているんですか?純粋な科学的好奇心からですか?それとも…」
質問に答える代わりに、僕は逆に尋ねた。
「篠原さんは、具体的に何をしたいんですか?」
彼女は少し考えてから答えた。
「まずは理論的な可能性を証明したい。そして、もし実現可能なら、限定的な実験をしてみたいです」
「限定的な実験?」
「はい。完全にコントロールされた環境で。勿論、人体には害のないレベルで」
彼女の言葉には、何か隠されたニュアンスを感じた。
「篠原さん、はっきり言います。私は単に研究している段階です。実際に何かを作る意図はありません」
嘘をつきながら、僕は自分の本当の考えを隠した。実際には、すでに自宅のミニラボでNV-23型ウイルスの変異株を培養し始めていたのだ。
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「私も同じです。ただ、理論的可能性を探っているだけ」
僕たちは互いに本心を隠しながら、グラスを傾けた。この会話の後、話題は日常的なことに移り、二人の関係はさらに親密になっていった。彼女は大学時代の話や、家族のこと、趣味について語った。僕も普段は話さないようなことを、彼女には話していた。
バーを出るとき、彼女は僕の腕に手を置いた。
「今夜は楽しかったです。また話しましょう」
その接触に、僕は言葉にならない感情を覚えた。これが「好意」というものなのか、それとも単に僕の研究を利用するための演技なのか、判断できなかった。
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家に帰り、僕は寝室の奥にある小さなクローゼットを開けた。引っ越してきたときから一度も使っていなかったスペースを、最近になって簡易的な実験スペースに改造したのだ。
中には小型の培養器と、簡素な分析装置が置かれていた。研究所から少しずつ持ち出した機材と試薬。これだけでは本格的な研究はできないが、基本的な実験には十分だった。
小さなチューブに入ったウイルスサンプルを取り出し、顕微鏡でチェックする。NV-23型ウイルスの変異株だ。公式の研究とは別に、僕が独自に変異させたものだった。
これまでの実験では、このウイルスがY染色体の特定配列に強い親和性を示すことが確認できていた。理論上は、感染した男性の体内でY染色体に影響を与えるはずだ。ただ、その影響の程度や具体的な症状はまだ不明だった。
「どこまで進めるべきか…」
独り言を呟きながら、僕は実験ノートに新たなデータを記録した。最初は単なる思考実験だったものが、今では現実の物質として僕の目の前に存在している。一線を越えたという自覚があった。
この研究を続けるべきか、全てを止めるべきか。内心では葛藤していた。しかし、篠原との会話が僕の決意を固めたように思う。彼女も同じ可能性を追求している。もし僕がやらなければ、彼女が別の方法で実現するかもしれない。
それに、僕にもようやくチャンスが訪れるかもしれない。世界の男性が減れば、僕のような「透明人間」にも機会が回ってくるはずだ。そして、篠原のような女性にも見てもらえるかもしれない。
「どうせやるなら、確実に」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。今、必要なのは実験動物だ。理論だけでは不十分だ。実際に生物にどんな影響を与えるか、確認する必要がある。
スマホを取り出し、ペットショップを検索する。明日、実験用のマウスを買いに行こう。オスとメスの両方が必要だ。
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次の週末、僕はアパートの簡易ラボでマウス実験を行っていた。オスメス5匹ずつ、計10匹のマウスを購入し、改造したNV-23型ウイルスの希釈液を投与した。
最初の数日は特に変化がなかった。しかし、1週間が経過したころ、オスマウスにだけ体重減少と脱毛の兆候が現れ始めた。メスのマウスには全く症状が出ていない。
「やはり…」
実験結果に、僕は興奮と恐怖が入り混じった感情を覚えた。理論は正しかった。このウイルスはY染色体を持つ個体にのみ影響を与える。
さらに2週間が経過すると、オスマウス5匹のうち3匹が死亡した。残りの2匹も衰弱が進んでいた。一方、メスマウスは全く健康なままだった。
僕は死亡したマウスを解剖し、組織サンプルを採取した。簡易的な分析装置では限界があったが、ウイルスがY染色体を持つ細胞内で特異的に増殖している痕跡が確認できた。
「これが人間に感染したら…」
考えるだけで恐ろしい。しかし、同時に不思議な高揚感も覚えた。僕は実際に「男性特異的ウイルス」を作り出したのだ。少なくとも、マウスレベルでは。
実験データをノートに記録し、死亡したマウスの遺体は特殊なビニール袋に入れて密封した。後で適切に処分する必要がある。
「佐伯さん?」
突然のインターホンの音に、僕は飛び上がった。声は…篠原だ。なぜ彼女がここに?
僕は慌ててクローゼットのドアを閉め、実験器具や記録が見えないようにした。
「ちょっと待ってください」
玄関に向かいながら、頭の中は混乱していた。住所は教えていなかったはずだ。どうやって知ったのだろう。
ドアを開けると、篠原が立っていた。カジュアルな服装で、手には紙袋が提げられていた。
「こんにちは。突然すみません」
彼女は少し申し訳なさそうに言った。
「どうやって…僕の住所を?」
「人事記録から。少し強引な方法で申し訳ありません」
彼女は紙袋を差し出した。
「お昼ごはん持ってきました。良かったらご一緒しませんか?」
僕は言葉に詰まった。彼女の突然の訪問の本当の目的は何なのか。単なる好意なのか、それとも僕の研究を探りに来たのか。
「あの、入っても良いですか?」
彼女の問いかけに、僕は我に返った。
「あ、はい。どうぞ」
緊張しながらドアを開け、彼女を中に招き入れた。部屋は幸い整頓されており、異常な様子は見えないはずだ。クローゼットのドアもしっかり閉じている。
「素敵なお部屋ですね」
彼女は周りを見回しながら言った。僕は彼女の視線に神経を尖らせた。
「ありがとう。座ってください」
小さなリビングテーブルを指さし、僕は台所からお茶を用意した。彼女は紙袋から弁当箱を取り出した。
「自分で作ったんです。料理は趣味なので」
「わざわざすみません」
僕は緊張しながら彼女の隣に座った。彼女が作った弁当は見た目も美しく、食べてみると味も素晴らしかった。
「美味しいです」
「良かった!」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「佐伯さんは自炊されるんですか?」
「たまにですね。基本的には簡単なものばかりで…」
会話が続く中、僕は少しずつ緊張がほぐれていった。しかし、クローゼットの中のマウスたちと実験データのことが頭から離れなかった。
「あの、突然の訪問には理由があるんです」
食事が終わりかけた頃、彼女は真剣な表情になった。
「私、研究の進展があって…」
「進展?」
「はい。NV-23型の変異株を独自に分析していたんです。そして、Y染色体との親和性を高める方法を見つけました」
僕の心臓が早くなった。彼女も同じ方向に研究を進めていたのだ。
「理論上ですが、このウイルスを特定の方法で変異させれば、男性特異的な影響を与えることが可能かもしれません」
彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。彼女は僕と全く同じ場所にたどり着いていた。違いは、僕がすでに実験を行っていることだけだ。
「佐伯さんのご意見を聞きたくて…」
彼女は僕の沈黙を物思いに耽っているのだと解釈したようだった。
「あの…篠原さん」
決断の時だった。彼女に真実を話すべきか、それとも隠し続けるべきか。
その時、突然、クローゼットから小さな物音がした。マウスケージの音だ。篠原の目が音の方向に向いた。
「何か音がしましたね?」
「あ、それは…」
言い訳を考える間もなく、彼女は立ち上がってクローゼットの方に歩き始めた。
「ちょっと待ってください」
僕は慌てて彼女の前に立ちはだかったが、遅かった。彼女はすでにクローゼットのドアに手をかけていた。
「これは…」
ドアが開き、中の光景が彼女の目に入った。小型培養器、分析装置、そしてマウスのケージ。オスマウスの衰弱した姿と、健康そうなメスマウス。実験ノートには「Y染色体特異的ウイルス実験」と大きく書かれていた。
彼女の目が驚きで見開かれた。
「佐伯さん…あなたはもう実験を…」
言葉に詰まる彼女を見て、僕は観念した。隠し通すことはもうできない。
「ええ。理論だけじゃなく、実験も始めています」
緊張した沈黙が流れた。彼女は実験装置を注視し、次にノートに目を走らせた。そして、僕の顔を見た。
予想に反して、彼女の表情には恐怖ではなく、何か別の感情が浮かんでいた。興味、驚き、そして…敬意?
「すごい…」
彼女は小さく呟いた。
「これほど進んでいるとは思いませんでした。私はまだ理論段階なのに」
彼女はケージに近づき、衰弱したオスマウスを観察した。
「症状は?」
「投与から約2週間で体重減少と脱毛。3週間で60%が死亡」
僕は事務的に答えた。彼女が恐怖や拒絶を示さないことに、内心驚いていた。
「解剖所見は?」
「主に免疫系の崩壊と生殖器官の萎縮。Y染色体関連遺伝子の発現阻害が原因と思われます」
彼女はノートを手に取り、データを食い入るように見た。
「素晴らしい研究です。佐伯さん、私も参加させてください」
彼女の言葉に、僕は戸惑った。拒否するどころか、協力を申し出るとは。
「参加?」
「はい。二人で研究を進めましょう。私にも知識と技術があります。一緒なら、もっと早く進められるはずです」
彼女の目には熱意が宿っていた。僕は彼女をじっと見つめた。
「なぜですか?なぜこのような危険な研究に…」
彼女は少し考えてから、静かに答えた。
「私には弟がいました。彼は…女性に対する暴力で服役しています。彼のように、男性ホルモンに支配された攻撃性を持つ人間が少なくなれば、世界はもっと平和になると思うんです」
彼女の目には涙が浮かんでいた。その瞬間、僕は彼女の本心を見た気がした。彼女の動機は僕とは違うが、目指す方向は同じだった。
「わかりました」
僕は決断した。
「一緒に研究しましょう。でも、これは危険な道です。一度始めたら、後戻りはできないかもしれません」
「覚悟はできています」
彼女はしっかりとした声で答えた。
その日から、僕たちの「オスベラシ」計画は新しい段階に入った。秘密裏に行われていた一人の研究は、二人の共同計画となった。そして、その変化が後に取り返しのつかない結果をもたらすことになるとは、そのときの僕たちには想像もできなかった。
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河野の結婚式の日、僕はスーツを着て会場に向かった。式は盛大に行われ、河野と彼の新婦は幸せそうだった。
僕は祝福の言葉を述べ、笑顔を作った。しかし、頭の中では別のことを考えていた。この幸せそうな人々の中で、僕だけが恐ろしい秘密を抱えている。世界を変えうる力を手に入れつつあることを。
披露宴の最中、スマホが震えた。篠原からのメッセージだった。
『新しい実験結果が出ました。帰ったらすぐ連絡してください』
僕はスマホをポケットにしまい、シャンパングラスを持ち上げた。乾杯の音頭が上がる中、僕の心は複雑な感情で満ちていた。
この世界は変わろうとしている。そして、その変化を引き起こすのは僕自身なのだ。
会場を出る前、河野が僕に近づいてきた。
「佐伯、来てくれてありがとう。お前がいなきゃ、今日は始まらなかったよ」
彼は酔った様子で僕の肩を抱いた。
「おめでとう、河野。幸せになれよ」
「お前も早く彼女作れよ。そうだ、篠原さんと最近仲良さそうじゃないか?」
「ただの同僚だよ」
「そうか?俺にはそうは見えないけどな」
彼は意味ありげに笑った。
「いつか、お前の結婚式にも出られることを楽しみにしてるよ」
僕は微笑みながら、心の中で思った。
「その日は来ないかもしれない。この世界が変わってしまう前には」
別れの言葉を交わし、僕は式場を後にした。タクシーの中で、僕は窓の外を眺めながら考えた。これから先の道は暗く危険なものになるだろう。でも、もう後戻りはできない。
僕と篠原は、すでに暗転への道を歩み始めていたのだ。




